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映画ジョーカーと共に来た新しい時代の到来について

今更ですが「ジョーカー」皆さんご覧になりましたか?何故ここまで支持されたのか?私はしっかり感動したので個人的な感想を書きたいと思います。ネットでも色んな解説がありましたが納得できるものが無かったので生意気なようですが書きたくなりました。

ネタバレはありますが、話は随分と翼を広げました。。

思いがけず長くなったもので、お暇な時にでも読んで頂けたら嬉しいです。



凄い映画でしたね。まず、主演のホアキン・フェニックスさんにぶっ飛ばされました。その魅力に。

芸術には少しの狂気は必要不可欠だと個人的に思いますが、あれだけの狂気のようなモノを内面にちゃんと持っていて…

それを上手く表現出来てコントロールも出来てなおかつ

普通の生活に戻ってこられるという俳優は、なかなかいないのではないでしょうか?俳優って芸術家なんですねぇ。

セリフの事や撮る順番の事などで、よく監督さんに反対したり争ったりしたとホアキンさんが言ってますが、そう出来る俳優も、そうさせる監督も、なかなか凄いです。

それぞれが確固たるエゴを持ちつつも冷静に、かつ対等にぶつけ合うことが出来る。当たり前なようですが意外と難しい事だと思います。

日本人でいえば、どれだけ監督や脚本の言う通りに出来るか否か?って感じが多いのではないでしょうか?勿論そうでない人達もいると思いますが、教育や環境も違うのですから、国民性によってある程度の違いが出るのは当然かも知れません。

監督、脚本、俳優含め、それぞれのスタッフが職人として平等に尊重し合っている事が映画にもよく表れています。監督さんとかが権威的になりそうなものですけどね。

自分と違う価値観や他人、例えば歳下だと認めたくないというような古い人達、もしくは会社などは、これからはなかなか残れなくなるのではないでしょうか?

それぞれが最大限にクリエイトした結果、その相互作用により唯一無二の結晶のような映画に昇華したという印象です。音楽や衣装の素晴らしさも、確かに演技の後押しをしていたようです。

振り付け師も良いサポートしているようですが、なんといってもホアキンさんの即興入ったダンスシーンがすごくいいですね。かっこいい、上品かつ優雅。ダンスが無かったらと想像すると映画の魅力が半減するのじゃないかと思うほど。

演技もダンスのように即興的な分、どの瞬間も見逃せないし、また何度見ても飽きません。綿密に計画する事だけで出来上がるような映画じゃないし、また個人の力だけでも出来ない感じが凄くしますよね。

印象的なのは、俳優からうまく引き出された何かが、闇から姿を現してるような、象徴的なトイレでのダンスシーン。ホアキンさんが役に没頭してアーサーになり、意識の地下深く潜って拾ってきた何かを垣間見れます。

そういう即興的な作り方は勇気が要りますし、本当に成立するのかどうかは最後まで分からず、賭けの要素があります。受け取り方に寄っては危険な犯罪の話でもあります…公開時に騒がれていたように。

やはりリスクを取らないと大したものは出来ないんですかね。安全策ばかりではなかなか。。

幼少期のバットマンが少し登場してました。ジョーカーと年齢差がありすぎて、アーサーがいわゆるジョーカーであるには辻褄が合わない、などと言われています。

それって絶対わざとですよね。監督さんは、インタビューで「何も考えてなかった」みたいに言ってケムに巻いてますが、何かそこには意味があるはずです。年齢が合う設定に作るほうが本来自然だし、造作もない事ですから。

わざと年齢設定をずらした。それが示唆していること…それは

ジョーカーは私達でもあり、私達はジョーカーでもある

という事ではないでしょうか?

街に溢れる暴徒も電車の中の乗客も、みんなジョーカーのマスクを被っていた。実際に、市長を銃で殺したジョーカーはアーサーじゃなかった。アーサーの格好をしたアーサーではない、名も知れぬジョーカーです。

時系列で考えても、あの少年のバットマンが大きくなってからこの先関わる事になる例のジョーカーは、確かにアーサーでは無くて他の「誰か」であるジョーカーの可能性が高い。

という事は、ホアキンが演じたジョーカーの他にもジョーカー、もしくはジョーカーみたいな人が沢山登場しているのだということです…。

もっと極端に言えば、あの沢山の仮面を被った暴徒達のように、世の中の誰でもがジョーカーたり得るという事を示しているのでは?それは、映画の中の人びとはもちろん、たぶん画面のこちら側の世界の私たちすらも。。


だってそうじゃないですか?


これまでの人生で、何度力のある人に愛想笑いしましたか?そして何度、みんなの前でバカにされてもへらへらしてましたか??

当然のように踏みつけにしてくる権威を前にして、泣きたいのに、かわりに笑うしかなかったあの時。

それは多くの人にとって子供の時かもしれないし、大人になってからだってざらにある事です。

そんな経験がない人っているんでしょうか?まあちょっとはいるかも。でもそれはだいぶラッキーで恵まれた人でしょうね。

だからこれは〔私達のような普通の人には関係ない、犯罪者の話〕ではないのではないでしょうか?これはあなたと私の話なのではないでしょうか?

感情に仮面を被せている限り、自分の人生を生きてるとは言えないし、幸せにもなれないかもしれない。

だからいくら弱くても、立ち上がって自分を守るっていう話、自分の人生を取り戻す話ではないでしょうか?

勿論、殺人とか犯罪を擁護している訳ではありません。あくまでそれは象徴なんです。

確かに、アーサーは現実に人を殺すっていう手段を取ってしまったから、人間的には失敗してるというか犯罪者ですよね。でも、

自分の尊厳を守るっていう意味では成功したのだと思います。自分を大切にする方法としてアーサーには悲しくもアレしか思い付かなかったのでしょうね。

そして犯罪を犯しながらジョーカーになっていく事で、それまで満たされなかった自己顕示欲を満たして行きます。映画的に悪の象徴となっていき、彼はある限定された意味での成功を、これからしていくのでしょう。

さてここで、ひとつの質問が生まれます。

もしかしたらあなたにも、わたしにも、殺さなければならない人はいませんか??

もちろん内面的にです。物騒な物言いですみません。

お母さんを殺した所はあまりにも象徴的でしたが、アーサーが殺すのは大抵、弱いものを踏みつけにして、普通の顔して生きてる、普通の人たちでした。

権力者が憎いというよりは、たとえ普通の人であっても、もしくは社会的にむしろ弱い立場であったとしても、

自分よりも弱い人や弱い立場の人から当たり前のように搾取している人物にこそ、罪深さを感じていたように見えました。

立ち上がったアーサーの生き生きとした様を、踊りを、見ましたか?

あんなに生命力に溢れ、魅力的なんです。そして本能に訴えかけるような色気…。なんて楽しそうなんだ…!

弱さ優しさ残忍さを兼ね備えて目覚めたアーサーが可哀想でカッコよくて… 何度見てもキュンとします。多分、あの無邪気なカンジは世の中の女子の魂という魂に響きます。いや女子に限らずですね。

きっと、生まれて初めてアーサーは本来の自分を、自分の人生を取り戻したんでしょうね。ホアキン・フェニックスならではの華麗なステップが、ここぞとばかり切なさと可笑しみを醸し出します。


なにもアーサーみたいに実際に人を殺さなくたって、自分の尊厳を保つ事は出来ます、当たり前ですが。社会的にどんなに弱い立場でも。嫌な相手から離れる(物理的にも、しかし主に気持ちが)事で自分を守る事は、例え難しくても出来ないことはないと思うんです。。

たとえ恵まれた環境ではなかったとしても自らの意思で幸せに生きてる人たちは沢山います。

内面的に相手を殺すというと表現が過激なのですが、シンプルに言えば、相手を諦めるという事です。それが難しいのですが…。

ただ、子供は別ですよね。親をあきらめたら自分の命がおびやかされますから。

まだ小さい子供にとっては、親から愛情を貰えないという事は死に匹敵する絶望ではないでしょうか。

子供は親を救いたくている(愛したい)のに、その親に愛されなかったらそれも出来ず、、八方塞がりです。

アーサーは、虐待された時まだ子供だったから、自分の感情なんか無視して笑ってなければ、生きていられなかったはず。切なくも、生き残る為の本能で笑っている…その病的な張り付いた笑顔。

そんな中で自尊心なんて育つはずもありません。そのうち仮面と本当の自分の分裂がだんだん激しくなってきたのではないでしょうか?その辺の精神のことには詳しくないのですが。

現実のあまりの惨さに、そのままの自分を受け入れられず、自己認識が狂ってくる。自己顕示欲が異常に強くなる…。

彼が盗み出した母親の診断書が映った時、自己愛パーソナリティ障害という項目も見えました。勿論母親がそう診断されていたわけだけれど、アーサーにもその要素がある可能性を示唆しているかも知れない。

本来はまず、ちゃんと治療を受けるべきなんですが、ゴッサムシティでは無理でしたね。あの場所で幸せに生きるのは至難の技…というかあり得ないのです。

でも映画の中でなくても周りに結構いませんか?自己愛が事故ってる人。二重人格とか、アーサーとまではいかなくてもなんか人知れず苦しんでいる人。

特に気付くのは昭和の私達の親世代です。戦後に貧困で苦労してて子供らしく甘えた事もないし、親から要らんほどの愛情を実感した経験も、もしかしたら少ないと言えます。

その中でも上手く自己を確立できた人もいれば、そうでなかった人も多かったのではと推察します。子供の頃から続く寂しさのようなものや、欠けているもの。上手く成長出来なかった内面を引きずってるその年代の人たちは今まで人知れず沢山いたと思いますし、今だにいると思います多分。

それを救いたくて一生懸命、無意識に子供の時から親をケアしてきたのが私達やその少し上の世代ではないでしょうか?なかなか報われないけれど…。

それらが昭和から続くいわゆる毒親問題の中でこれまで噴出していたような気がする。名称は何にしろ、愛情を子供に与える所まで行けずに、子供に逆に甘える事しかできない親たちの問題…(そしてそれをなかなか拒否できない子供としての問題…連綿と続きます)

心のどこかに寂しさを抱えた親たちの為に、すり減ってきた子供達は多いのではないでしょうか?その子育てには確かに親なりの愛情があったとしても…です。だからこそ尚更影響を受けるとも言えます。

まあ例え毒親とまではいかなくても、妙に権威的だったり、子供を持ち物のように支配しようとしたりする人は多いですよね。古い時代には普通の事だったとも言えるし、自分がそうされてもきている。戦時中は一人ひとりの人権なんて無いも同然ですから(そうですよね?)

そんな親達の抱える問題や寂しさは、どうしても子供が引き受ける事になりがちです。対抗するだけの力を持たず、何より親が好きだから、そして優しいから。

親の問題を解決しようと目に見えず頑張ってしまう、そんなの初めから無理なのに。

(親がいつまでも自分の為に子供を使おうとする場合、子供は親を見捨てるしかないと思います。それは冷たさではない。というかむしろ愛情ではないか)

今やっと時代が進んできてそれらの問題(戦争の影)がやっと終わりを迎えているか、又は昇華出来そうな転換点を時代として迎えつつあるかも知れない。

これは国も違うし、この映画と直接関係ない話かも知れないけど、親との関係という意味では繋がりがある問題だと思います。

私達はホントは嫌な奴はほっといて、楽しく生きたら良いし、幸せに生きるべきです。それが搾取してくるひと(親の場合もある)への1番の復讐であり、同時に救いでもあるのです。

でも、なかなか相手を諦め切れない、アーサーのように。自分の理想や相手への希望を捨てられない。自分の中に作られた虚構にしがみついているかのようです。

寂しくて愛されたくて、貰えなかった愛情にいつまでも固執してしまう。本当は、貰えなくても大丈夫なのに、自分で自分を慈しめば良いのにそれに気付けない。(そしてそもそも他人を愛する能力が無い人はいるのです。)それは他人に自分の評価を任せてしまう…という危険な事ではないか。

そして勝手に自分で自分を追いやって苦しむことを繰り返します。自分の価値は自分で決めたら良いし、愛されないと自分に価値がないというわけでも無いのに。基準が他人なんです。

相手の問題だけじゃなくて自分の中にも問題はあるってことに、なかなか気付けないのです。そうは言ってもアーサーは虐待によりだいぶ内面が偏ってしまっていたから可哀想なんですが。

本当は、自分を傷つけるような人や事象から、ただ離れたらいいのに、傷つきながらも離れられない事が、病理を感じさせます。自分でカサブタをいじってずっと血を出してるみたいな…。

意地悪な友達にずっと意地悪されながらも離れられない人とか…いますよね。まるで自分を罰してるような。離れたら楽なんですけどね…それが出来ないんです。私にも経験あります。自分の中に甘えとか依存心があるんでしょうね。だからそれを見透かされて虐められる。

例えば親によって自己がちゃんと育っていないのなら自分で自分を育てていくしかないですよね。ある問題や人(親でも他人でも)に固執すると言う事は、固執してる限りずぅっと自分が苦しいのだから。

嫌なモノを自分と関係ないもの、そして自分のせいじゃないと捉えられるかどうかは、まあ成人してからは自分次第なのです。

だからこれは、目覚めの物語でもあったと思います。アーサーと私達との。まるでお前はどうする?と突きつけられているかのようです。

私がもしアーサーだったら、もっと日々の小さな幸せを見るようにしたかったな…持ってないものばかりに目を向けないで…。なんせ生きてるし、家もある。(日本から見たらかなり広い)ご飯食べられてて、タバコも買えてたし、仕事だってピエロを一応は出来ていたから、良いところを見たら全く無いわけでもなかった。踊りも上手だし。

まあそれは理想論というか、アーサー本人じゃないから言えるというか、そんな見方が出来ないのこそが彼の病気なんですよね。映画的にも必要な。

アーサーがされたような、まだ幼い子供への虐待は、ある時点でもう取り返しがつかなくなる。医学的にも、実際に脳が損傷し障害となって残るのだと聞きました。

それでも脳は少しずつ回復する可能性だってあるにはあるし、そうなるように、ただただ生活するしか、目の前のことをやるしか、出来る事はなかなかありません。。

具体的に言えば…近所の猫と友達になるとか、朝ご飯の料理が少しずつ上手になるとか…それこそダンスに打ち込むとか。コメディアンは無理そうだけどアーサーならダンサーになれたかも?

noteを書いてたのは自分を助けるためには良かったのにね…

でもアーサーがいつまでもそんな事してたら、映画としてはしょうもないです。彼にはちゃんと病んで貰わないと、映画にならない。

ゴッサムシティに住んでるんですから、幸せに生きるのはどだい無理な話です。

まあ、もしも彼がジョーカーにならずに目玉焼きなんか熱中して焼いていたら、… バットマンも困ってしまいます。今日は黄身が真ん中!とか言ってね…。

(でも、もしアーサーみたいな人が本当にいたとして、本当にホアキンさんみたいに素晴らしく踊れていたなら、映画のように犯罪者には、ならないんじゃないかなーと思います。

苦しみを表現に昇華出来ていたらきっと素晴らしいパフォーマーやダンサーとか芸術家とかになったかも。それが芸術の持つ役割でもあると思うし、それはコミュニケーションにもなるから、孤独から抜け出せる手段となり得るのでは)

アーサーはなるべくしてジョーカーになっていきましたが、私達は違います。逆説的ではありますが私達は決してアーサーではないですし、それはまた大切な決意です。

私達はゴッサムシティに住んでないんだから当然といえば当然ですね、条件も揃わないし…。

せめて私たちの世界では彼のような気持ちで育つ子供が少しでもいなくなることを願います。彼のような気持ちで育つ子供を少しでも生み出したくないものです。

そして誰もが無関係ではいられない内容の映画だと感じます。


… そういえば、これは社会的弱者の映画だという感想というか考察をネットで見ました。社会の仲間に入れてもらえない彼等の鬱屈や差別の話だって。いないものとして扱われる障害者や貧困者の辛さ。

なるほどなとも思いました。正直わたしはアーサーに感情移入しすぎていて気づかない視点でしたし、ああそうなんだ、と。だから少しでも彼らが生きやすい世の中になるように工夫していきたい。これは確かです。

でもその視点の中には、見方によっては少しだけ、障害のある人や弱者への偏見が既に含まれてはいないでしょうか??私とあなた達(弱者)とは違うっていう。自分とアーサーは違うっていう…

それってどこかひとを差別をする側から、というか上から言ってませんか?映画を作った人たちは果たしてそんな風に思っていたんだろうか…?それは分かりませんが。

弱者で障害があるから生きにくいというのは、あまりに簡単ではありませんか?例えば障害者は障害があるがゆえに差別されてる(だろう)し、生きにくいもの(だろう)という思い込み、それは偏見に入りませんか。

健常者にも障害者にも同じように犯罪者はいるし、でも幸せに生きてる人はいます。その人の人生を全うする事に障害のある無しは関係ない事です。

例えばいくら成功しているとか社会的地位の高い人達だって、それぞれに、どこかからは締め出されているものです。入れてもらえない世界は誰でも持っているし、そこにキリはない。

地位が高いとイコール幸せな人生とは限らないのではないか?当たり前です、、

弱者への、というよりは、いつの時代にも誰にでも降りかかる差別やいじめや搾取。そしてそれらは誰もが生きている上で立ち向かうべき事柄であると感じます。

差別の内包する無知と不分別と想像力の欠如、そして致命的な思いやりの無さ。他人からばかりでなく、自分が自分を苦しめてしまう事だってあるでしょう。

それらは思いがけない所にあるのでは。SNSの中では勿論、学校や、家族や、自分の中にすら発見し、誰でもそれらと戦っていかなくてはならない。。

もちろん、アーサーのように犯罪に走ってはいけませんが。

社会的に成功している事と不幸なことは単純に反比例する訳ではない筈です。そういう意味では、誰でも同じではないか。どんな人でもそれぞれの戦場を持っているのではないか?

そこでどう戦うか、そこには弱者とか成功者とかの差はありません。それぞれが戦うことすら喜びに変えるようにして生きていくしかない。

アーサーはジョーカーになってしまったけれど…。



最後のシーンには謎が残り、よく言われているように全ては妄想だったのか?いつの話だったのか?映画の中ではハッキリと解明はされません。

私は全てが妄想だった…とはとても思えない。でも、全てアーサー1人がしでかした事とは限らないのではないか、とは思います。。。

あともう1つの謎があります。最後に彼が思いついたジョークとは何か?

血糊のついた足あとから、面接をしていた黒人女性をアーサーが殺したと推察される訳ですが、今までの殺人と違い、女性には殺されるほどの理由が見当たらないのです。見たところ普通に話していたしアーサーをバカにしたりもしていなかった。そこがそれまでの殺人とは大きく異なる点です。

自分にとって特に罪のない人たちを、遊びジョークとして殺していくという事を思い付いたのが、あの時だったのではないか?

意味のないジョークとしての殺人…。彼はジョークのセンスが無いんです。そうでしたよね?

弱者のアーサーから殺人者ジョーカーに振り切れる瞬間。そこにもうアーサーはいない。

私は弱さを内包してるアーサーが好きなんであって、完全にジョーカーになってしまったアーサーには全くキュンとしませんでした。



つらつらと書かせて頂きましたが、そろそろ終わりです。解釈は人それぞれですし正解はあって無いようなものですね。それがまたこの映画の良いところでもあります。

想像する余地がある事で誰もが自分の物語と感じることができます。

でもそれぞれに受け取ったメッセージはきっとしっかりとあるし、素晴らしい映画を見たというのが事実です。


久しぶりに大好きな映画が出来て大変嬉しく、ついにnoteを始めてしまいました。うまく時代を表し私達が進む方向も見えてくるように思える。良い映画はそういうものなのでしょうか。

長くなりましたが読んでいただいてありがとうございました。 


追記

よく指摘されるように作中の時計の針がいつも11時11分だったのは何故なのか考えてみたんですけど。

その時計が映ってる場面は、全て同時(同じ日の11時11分)に起きてるという意味ではないだろうか…?何故そんなにもその時刻の時計を映しだすのかと言えば、何かしらの意味があるはずですから。

ジョーカーになる前の段階の人やら、完全なジョーカーやら、両方が混ざってる人やら…が大勢、同時に存在しているって事ではないか。先にも書いたように、ジョーカーはアーサーひとりだけでは無い。と伝えたいのでは無いだろうか。。

演じていたのは確かにホアキン1人ですが、表現されていたのはひとりではないかも知れないと言うこと。

私達の社会が内包しているたくさんのジョーカー…もしかしたら私やあたなも。

ジョーカーは私達の外にいる誰かじゃなくて、私達の内側に潜んでいる共通の何かとも言えるのではないだろうか。悲しくて滑稽で愚かで愛らしい…誰かです。


数字の1の意味について宗教的な意味とか何かは、私は分かりません。ただ、何だか鏡文字のような数字で…奇妙な世界の中で増殖していくような怖さや不気味さを感じます。

延々と続くリンクと繋がり…

この映画の主人公は、地下深くで、合わせ鏡のようにアーサーと繋がっている私達なのかも知れないし

アーサーは私達一人ひとりの分身のようなものかも知れない。

そしてアーサーが幸せに生きる時こそ、私達も幸せに生きられるということかもしれない。

…そんな事が示されているように感じました。


長くなりましたが、以上になります。自分の意見をこんなに長く書いたのも載せるのも初めてですが、楽しかったです。

超個人的見解と生意気な素人解説(というかただの個人的思い入れ?)をここまで読んで下さった方……断定的で読みにくい所も多かったと思いますが

ありがとうございました!!感謝します。

そしてあなたと私の中のジョーカーにも感謝しつつ(怖いっての)おやすみなさい。








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