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「でんでらりゅうば」 第11話

 すっかり気分がよくなって温泉から上がり、診療所のほうに戻ると、高麗先生とかつが茶を飲みながら歓談しているところだった。戻った安莉に気づいた勝が声をかけた。
「温泉は、楽しんだかいね?」
「ええ、とても気持ちがよかったです」
 安莉は笑顔で言った。おお、おお、見てみよ先生、顔色が相当よくなった、と勝がはやし立てるように言うと、高麗先生は患者の容体を診るときのようにきっと目をえて安莉の全身を注視した。
「うん。温泉だけでも、だいぶ効果があったようですね」
 満足そうな笑顔になって、先生は言った。
正利まさとし
 先生が裏の部屋に声をかけると、すぐにはい、と性根の座った返事があった。
「薬はもう少しかかりそうか?」
 先生が聞くと、
「あと二十分くらいかかりそうです」
 と返答があった。
「そうか」
 言いながら、先生は部屋の真ん中にしつらえてある炉にかかっている薬缶やかんから湯呑みに湯を注ぎ、安莉の前に差し出した。
「これをお飲みなさい。お茶を入れてあげたいが、薬を飲むまではほかのものは体に入れないほうがいい。でも、温泉から上がってきたばかりだから、ここで水分をっておくことは必要です」
「はい」
 安莉は素直に湯呑みを受け取って、ひと口飲んだ。まろやかな、喉に通りやすい白湯さゆだった。
「けんど、先生、ほんなこつ」
 勝が言った。今しがたまでしていた話の続きをしたいようだった。
「本当ですよ。先代から聞いた話です」
 高麗先生は言った。
 首をかしげて曖昧な笑顔を作っている安莉を見ると、二人はその話について説明し始めた。
 
 話題は、この村の歴史のことだった。村の創設はとても古く、勝や高麗先生の世代でも聞き知っている者は誰もいないとのことだった。村の長老クラスの年寄りたちでさえ、その本当のところを知る者はいないと言われている。それで今村に暮らす者たちは、村の歴史というと、せいぜい戦中から戦前、大正、明治から江戸時代ぐらいまでをさかのぼるのが精いっぱいだった。
 ――高麗先生によると、先代から伝え聞いた話では、この村は、創設のときから一度も地図に載ったことがなかったそうだ。
「地図に載っていない村なんて、日本の国にあるんですか?」
 驚いて安莉が聞くと、高麗先生は笑ってこう答えた。
「まあ、現在ではね、勿論ちゃんと載っていますよ。あなたもここに来る前は、地図を見てこの村の位置を確認したりしたでしょう?」
「はい。ちゃんと、載っていました」
 安莉は言った。
「戦後になってしばらくしてから、この村は初めて〝外に開く〟ことを決定したらしいのです。それまではずっと世間から隠れるようにして存在していた村だったそうです。戦争が終わったとき、世のなかはひとまず安全になったし、時代が大きく変わったことを見越して、ほかの地域との交わりも開始することになったのだということです」
 そう言うと、高麗先生は立ち上がって書類の沢山積み重なった書き物机の側を回り、部屋の角にある十段ほどの引き出しのひとつから、古くなったノートを取り出した。
 戻ってきた先生が差し出したノートの開いているページを見ると、戦後間もないころの古い新聞の切り抜きが貼ってあり、その大見出しにはこう書いてあった。

 ――幻の村 発見さる――

「先代がのこしたものですよ。当時、新聞に載ったことで、全国的にもかなり話題になったようです。何人もの記者が取材に訪れたと先代が言っていました」
「うちん子どものころやったたい。あんときは、ほんなこつ色んな人がんさったたいね。何か、妙な格好をした大人が寄ってきて、うちを珍しい動物でも見るみたいにジロジロ見て、気分が悪かったんを覚えとる」
 勝が口を挟んだ。
「そうそう。ハンチング帽を被って、ズボン吊りサスペンダーを付けた記者たちがね。昔の新聞記者は皆、そんな格好をしていたものです。そんな連中が、当時は沢山押し寄せたそうです。でもそれも致し方ない。戦時中まではね、この村は少し特異な自治体だったんですよ」
 高麗先生は解説を始めた。
 
 古来から地図に載ったこともなかったこの村は、勿論住民票などもなく、よって戦時中も大日本帝国の知るところではなかった。この山林一体はあまりにも急峻であったため、利用価値のない原生林と位置付けられ放置されていた。事実上この村は、日本国内には存在しないことになっていたのだった。
 長いあいだ恣意しい的に身を隠していた村人たちは、当然の流れとして、戦時中を通して徴兵を逃れ、戦後を迎えるまでひっそりと身をひそめて暮らしていた。
 戦争も末期になってくると、毎日のように米軍の爆撃機が頭上を通過していった。
「飛行機の上からは村が見えたとやないと?」
 勝が素朴な質問をした。だが確かに、それは誰もが当然抱く疑問だった。
「それがですね」
 高麗先生は口元を引き締めて言った。薄い顔の皮膚がきっと突っ張った。
「戦争が終結した年、この地域には大雨が続いていました。年が明けてからというもの、長雨が続いてどうしたことかと村人は不安になりました。二つの山の急斜面に挟まれるような場所にある村ですから、土砂崩れや近くを流れる川の氾濫というものを恐れていましたからね」
 ところが、と、先生は人差し指を立てた。
「村は、土砂崩れにも川の氾濫にも遭わず、その上飛行機から発見されることもなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、
「え?」
「どうして?」
 勝と安莉が立て続けに言った。
「その長雨によって、村を守るかのように、樹木が著しく成長しました。木々は地下に強い根を張り巡らせ、山の土をしっかりと固定しました。川の周りの木々は、勢いを増した流れによって綺麗になぎ倒され、川幅が広がったお陰で氾濫を免れたのです」
 高麗先生の声は、興奮し、熱を帯びていく。
「高く延びたこずえに生い茂った枝の葉がものすごいかさになって、小さな村の家々を庇護するかのようにおおったといいます。そのお陰で、戦争が終わるまで、米軍の偵察機が頭上を飛んでも村は発見されることなく、爆撃機が飛来しても機銃掃射や爆弾の餌食えじきになることから逃れられたのです」
「先生、それ、本当ですか」
 勝が言ったことと同じことを、今度は安莉が言っていた。高麗先生は瞳を輝かせ、たかぶった口調で言った。
「勿論本当のことですよ。今こうしてこの村が存在しているのは、その証拠です。……つまりこの村は、〝何か〟に守られているんですね。あるいは、その〝何か〟を守るために村が存在しているのか……」
 高麗先生は言った。
「今では私自身も、その〝何か〟に守られているような気がしているんですよ。そして自分も、それを守るためにここで生きようと、そう思うのです」
 そのとき、できました、と言って正利が裏の部屋からすだれを割って出てきた。その手には陶器の椀が大切にかかげられ、安莉のための煎じ薬が強烈な匂いと湯気を立てていた。
 その湯気と共に、安莉は煙に巻かれたような気持ちになった。だが、それと同時に、この村に対して煎じ薬の匂いと同じくらいの強烈な興味が涌いてくるのを感じていた。

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