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#アイデンティティーのシフト
コースの学びの階梯を上っていくために私たちが成さなければならないこと
コースを学んでいるのは個人の自分ではない私たちは、自分たちを人間だと信じています。
そして、個別の存在としての「個人の自分」を自分だと信じています。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスでいえば、最初は、その個人の自分がコースを学ぶというところからはじまります。
そして、コース形而上学を理解するようになり、その学びが深まっていくにつれて、
コースを学んでいる自分は「
自分は誰なのか?を思い出していくための実践的な手段が、「赦し」です
学びの深化とはどういうものかコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深化していくにつれて、不思議な感覚になっているのを実感します。
というのも、コースの教えが根付いていっていると同時に、もはやそれはコースが教えていることなのだろうか?という感覚になるからです。
もっといえば、それがコースでなくたって、他の非二元の霊性の道であってもいいと思えるようになってきたということです。
それ
目覚めのプロセス~学びの階梯について
「短期的な赦し」と「長期的な赦し」真理から言えば、目覚めは「一瞬」なのだといえます。
というのも、それは時間のない領域のものであるからです。
ただ、私たちはこの今もまだ時間(と空間)の中にいるわけです。
ここで私たちが知っておかなければならないのは、時間の中に囚われている私たちにとっては時間が必要であり、その時間をどちらの目的で使っていくのか?が私たちに問われているということです。
よう
自分は誰で、どこから来て、どこに帰っていくのか?
忘れてしまったものを再び思い出していくための霊性の道自分は誰で、自分はどこにいて、自分は何をしているのか?
私たちは、そのことをまったく自覚していない状態だといえます。
そして、この世界で経験していることが本当の現実だと信じ込んでいるのです。
リアル(現実/実相)が何なのかまったく分かってないのです。
まったく忘れてしまっています。
仏教では、そのことを「無智」、あるいは、「無明」と呼
どれも等しく同じく幻想ならば
良きも悪しきもこの世界で起きることに良きも悪しきもありません。
というのも、そのすべてがどれも等しく実在していないならば、そこに良いも悪いもあるでしょうか。
幻想は、幻想でしかありません。
つまり、無、でしかないということです。
それが何を意味するのか?というなら、
そもそもが「無」なのであるならば、私たちは「無」に対して良し悪しの価値判断をしているにすぎないということです。
そのよ
コースの学びと実践を通して私が理解したこと、そしてその成果について
何が真の赦しであるかについてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習の歩みは、「形而上学(理論)の学び」と「実践を通しての学び」の両輪によって、その学びは深化していくと言うことができます。
そう、コース形而上学の学びも重要なのはもちろんのこと、それが実践において適用されていかないならば、学びを深めていくことはけっしてないということです。
そして、その実践的な手段が、「赦し」と呼んでいる
臨在する愛に触れる経験をしていくとき、その実践は妥協ないものになっていくでしょう
形態から内容へ ~肉眼から心眼へこの世界にはいろいろな問題があるかのようにみえます。
でも、真の問題はたった一つ、です。
真の原因は、私たちの「心」にあるのであって、この外側の世界の形態(人や状況や事象)に問題があるのではありません。
外側の世界はたんに「心」が投影した影であり、もっといえば「無」です。
だからといって、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践は、むやみに外側の世界
それは正しく学ばれるなら、確実に修得されていく霊性の道である
赦しとはどのようなもので、何をしていくのかコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践でいうところの「赦し」とは、どういうものなのか?
というなら、
赦しは、「分離は起きた」という信念(分離の想念)に対して、それを誤りとしていく訂正だと言うことができるでしょう。
つまり、そもそも(神からの)分離など起きていないのであり、分離が起きていないのなら、天国のワンネス(一体性)のままなわけで、
コースでいうところの「心」は一般的にいう心の概念とはまったく異なる
コースでいう「心」についてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)でいうところの「心」の概念は、なかなか捉えにくいものだといえます。
というのも、コースでいうところの「心」は、私たちが通常一般的に捉えている心とはまったくちがうものだからです。
コースの学びがまだ浅い段階においてはそのことを知らずに、コースでいう「心」をいわゆる頭脳(個人の心)と勘違いして捉えていることがよくあります。
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他者を自分と同じ「兄弟」として見る
コースでいうところの「兄弟」についてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)で「兄弟」という言葉が使われていますが、それは「他者」とは別の意味として表現されているということを知っておく必要があります。
では、兄弟とは何なのでしょう?
もちろん、学びはじめの段階においては、「兄弟(姉妹)」と呼ぶとき、他者のことだというふうに捉えても仕方のないことでしょう。
ただ、コースの学びが深まっていくに