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それは正しく学ばれるなら、確実に修得されていく霊性の道である
赦しとはどのようなもので、何をしていくのか
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践でいうところの「赦し」とは、どういうものなのか?
というなら、
赦しは、「分離は起きた」という信念(分離の想念)に対しての訂正なのだと言うことができます。
つまり、そもそも(神からの)分離など起きていないのであり、分離が起きていないのなら、天国のワンネス(一体性)のままなわけで、今私たちが知覚しているものすべては虚偽(幻想)であるというふうに知覚を訂正していくことを「赦し」と呼んでいるということです。
要は、「すべてが虚偽である」「すべては自分が見ている夢である」と分かっている視点(決断の主体)へと戻って、そこから眺めていく訓練をしていくのが、「赦し」なわけです。
私たちが覚えておかなければならないのは、コースの実践は、この世界やこの世界の中で起きていること、自分の身に起きていること、自分が経験していることをやみくもに否定していくのではないということです。
コースの実践においては、むしろ、それらを使っていくということです。
これまでとはまったくちがう目的でこの世界を見ていくことをしていくということです。
つまり、「すべては自分ででっち上げた夢にしかすぎない」と知っている正気の部分(正しい心/赦しの視点)から見るということをしていくわけです。
ただし、私たちは今やその正気の部分を解離して、その赦しの視点(決断の主体の視座)をすっかり忘れてしまった状態にあります。
ですから、まずは、その赦しの視点を思い出していくことが、その訓練となります。
ちなみに、コースでは、その正気の部分(正しい心)を「聖霊」と呼んでいるということを覚えておきましょう。
そして、解離してしまっているその正気の部分(聖霊)を育んでいくこと、さらには、最終的には同一化してくことが、私たちがコースの学びと実践を通して目指しているものだということも覚えておきましょう。
奇跡とは
赦しの視点、つまり、「すべてが虚偽である」と知っている視点(決断の主体の視座)から見ることを、コースでは「奇跡」、あるいは「赦し」というふうに呼んでいます。
奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W.pII.13.1:3)
この世界の中であらゆる形態として起きてくる事象はすべて自分の心(内側)に真の原因があるということを、私たちは思い出していかなければならないということです。
そのために、コースの赦しの実践では、いつのときも真の原因(心)に戻っていくことを訓練していくわけです。
つまり、心に戻って、「分離は起きていない」と知っている正しい心(聖霊/イエス)と共に、そこからすべてを虚偽として見ることを訓練していくわけです。
言い換えるなら、それは、「自分はこの肉体ではなく、自分は心(決断の主体)である」ということを思い出していく訓練なのだということです。
そのための手段が、「赦し」ということです。
それは、赦しがうまくいったとか、いかなかった、というものではないということです。
あくまでも、自分とは何者か?を思い出していくための訓練なのだということを忘れないでおきましょう。
そのような訓練であるにもかかわらず、私たちがコースの学びがまだ浅いときによくやってしまいがちなのが、(かつての私もそうだったのですが、)心(の決断の主体)に戻ることなく、個人的な視点のところから「赦し」をしているケースです。
「赦し」はそういうものではありません。
もっといえば、個人(個別/特別)の自分のままのその視点からでは、「赦し」はけっしてあり得ません。
もしそのような赦しをしているとしたなら、コースでは、それを「破壊するための赦し」と呼んでいます。
それは、すべてを包含している視点に戻らない限り、平安などあり得ないということを意味します。
たとえ、平安がもたらされたとしても、個人の人間としての知覚のままであるなら、それは代替の自我の平安だということです。
真の平安とは、すべてを平安で包含するものだということを覚えておくと良いでしょう。
そのためには、個人性、個別性というものから「全一性」へと、自己認識(アイデンティティー)をシフトしていく必要があるということです。
そして、赦しはそのための手段であるということです。
だから、赦しの実践では、「心」に戻って、すべてを同じ(同一/全一)として見ていく訓練をしていくわけです。
具体的なところでいうなら、
「すべての兄弟は自分と同じ、自分の一部である、自分と同じものからできている」
というふうに見ていくということです。
そのように見ていくことによって、それらすべてを包含して、俯瞰している視点(視座)が思い出されていくだけでなく、自分は「心」であるという自覚が思い出されていくことになります。
心の自分を思い出す、とはそういうことです。
心の自分は、すべてを包含しています。
その視点(視座)からみるならば、すべてが全一に虚偽(幻想)だと見ることができます。
そのようにして、全一なる知覚へと訂正されていくだけでなく、それと共に、肉体から「心」へと自己認識(アイデンティティー)がシフトしていくことになります。
コース学習者の私たちがしていく赦しの実践とは、そのようなものであるということです。
ですから、コース学習者の私たちにとって大事なのは、
何のための「赦し」の実践なのか?
そして、どのように実践していけばいいのか?
そのことについて形而上学的にしっかり学んでいくこと、そして明確に理解していくことは必須(重要不可欠)なのだということは言うまでもありません。
言い換えるなら、しっかりとしたコース形而上学の理解に基づいて実践していくならば、そのアイデンティティーのシフトは確実になされていくということです。
つまり、コースは、それがちゃんと学ばれていくならば、確実に体現(修得)していくことのできる霊性の道であるといえましょう。
逆にもし、体現されている実感がないのであるならば、コースの理解、学び方、実践の仕方についてもう一度見直してみる必要があるといえましょう。
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