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A Course in Miracles 学習&実践レポート

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『A Course in Miracles』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、もりGが体験的に理解したこと、実際に修得していっているもの、その成果として体…
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#非二元

真理を幻想の中に持ち込むのではなく、幻想を真理のもとに運ぶこと

真理を幻想の中に持ち込むのではなく、幻想を真理のもとに運ぶこと

心を自覚した状態(マインドフルネス)とは非二元、つまり、一元論のスピリチュアリティというものは、本来、この世界の夢から目覚めていくための霊性の道であるわけです。

もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)もその中の一つの道でです。

では、目覚めるとはどういうことなのか?

というなら、自分が経験しているものすべてに対して、「これは自分が見たくて見ている夢(幻想)にすぎない」と自覚して

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私たちに自由意思はあるのか?

私たちに自由意思はあるのか?

self(個人の自分)か?Self(心の自分)か?私たちに自由意思はあるのか?

ということについて述べるとき、まず、私たちが知っておかなければならないのは、

自分を誰だと思っているか?によってそれに対する答えはちがってくる、

ということです。

通常、私たちは、「自分はこの肉体である、自分は人間である」と信じています。

真理(非二元)から見るならば、その自分は、個人の自分(個我/self)

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コースの学びのはじまりから現在に至るまで

コースの学びのはじまりから現在に至るまで

もりGのコース学習歴2008.10
『A Course In Miracles (ACIM)』と出会う。コースは純粋な非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)だと確信し、コースの学びがはじまる。

2012 - 2016
コースの学びのプロセスにおいて数回にわたって覚醒体験を繰り返す。幾度かの覚醒体験を重ねたこともあり、コースを学び終えたと勘違いして、コース学習から離れた時期を過ごす。

2016.

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「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける

「無垢なる顔を装う者」と「奇跡を行う者(ミラクルワーカー)」との違いを見分ける


無垢ではない者が無垢なる顔を装おうとする私たちはつい、無垢なる顔を装おうとします。

つまり、自分は善良であろうとするわけです。

そう、私たちは、「清くあろう、正しくあろう、善良であろう」と思っていて、それが良きことだと思っています。

特に、スピリチュアルを探究する者であったり、神聖さを求めている探究者であったりすると、その想いがなおさら強いといえましょう。

ただし、コース学習者の私たちは

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それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である

それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である

思考を止めようとすることについてノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティの実践において、ときに、思考を止めることを試みようとしたりします。

たしかに、静かに座って、深い瞑想に入っていくならば、(それにはかなりの訓練を要しますが、)それは可能だったりします。

ただし、たとえそれができたとしても、また日々の日常生活に戻っていくならば、思考はまた沸き起こってくることになります。

ようするに、

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私たちを騙そうとする自我に常に気づいていくことを怠らないように

私たちを騙そうとする自我に常に気づいていくことを怠らないように

「楽に生きる」ということについてノンデュアリティのスピリチュアルにおいて、「楽に生きる」という言い方の表現をしたりします。

ただ、コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学びそして実践しているコース学習者であるならば、「楽に生きる」ということについてしっかりと理解しておく必要があるといえましょう。

それはコース学習者にかぎったことではなく、非二元を探究する者であるならば、その言葉を勘違いしないように

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自と他の分離のない生き方

自と他の分離のない生き方

”together or not at all”という一元的な思考システムを修得するノンデュアリティのスピリチュアリティにおいて、「私はいない」という言い方をします。

「私はいない」とは、別の言い方をするなら、「すべてが自分である」ということと同じ意味だということを知っておくと良いでしょう。

つまりは、個別性、特別性がないということです。

というのも、私たちはそもそもがワンネス(一体性/全一

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「私はいない」も無い

「私はいない」も無い

「私」の非実在性を受け入れていく「私はいない」ということを知っているだけでは、非二元をいきるには十分ではないといえます。

というのも、私たちはすでに「私」の実在性を信じてしまっているからです。

その「私」がいくら「私はいない」としたところで、それはただ言い聞かせているだけでしかありません。

なにせ、「私」は存在していると信じているわけで、ならば葛藤を起こすだけです。

では、どのような生き方

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