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日常の”哲学的”対話

 私は上海赴任となって熱心に語学学校に通っている。少しでも早く日常会話くらいは中国語を使いたいのがモチベーション。中国人の先生が私の拙すぎる中国語に耳を傾けてくれて、それをサポートしてくれるその構図が、子供に戻った気がしてどこかくすぐったいような恥ずかしいような、懐かしいような、感じも味わっている。しつこく発音を矯正されるのでたまにイライラして、大人に歯向かっていた幼い頃の自分が再演されることもあるが。

「我喜欢看书(wǒ xǐhuan kànshū)。 」

 どんな本を読むのと問われて、ノンフィクションや哲学を扱う書籍と日本語で答えた。

「哲学?、自分の生きる理由など問うことに意味はあるの?」
「それは哲学の原初的な問いに過ぎないです。なぜ我々は働くのか?、子供はなぜ可愛いのか?、外国語を学ぶことの意味は?など日常的な問いにこそ哲学が多分に含まれていると私は考えています。」

と答えると、語学レッスンから脱線して延々と対話が始まってしまった。

「真実は一つでその認識の仕方が個人で違うだけ。真実にだけに意味があって、認識はバラバラでもしょうがない。」

 太陽が一つでその周りを地球が公転しているのは科学的な事実で真実。でも、日常生活では多種多様な現象や事象があって、シンプルな真実だけを拠り所にして日々過ごすことはできないと思う。色々な人と衝突したり、意見が異なったり、協力を取り付けたり、と真実/事実になる前の企てや感情と向き合うこと、その構図を俯瞰して理解することは生活する上で避けられないはず。

「目が見えない人の認識と目が見える人の認識は根本的に異なっていて、完全に理解し合うことは難しい。宗教観の違いも同様に双方の折り合いつけることは原理的に不可能。」

 それでも双方が歩み寄りたいと思ってしまうのが常で、極めて人間的な営みのように思う。あなたは日本語を学んで、私は中国語を学んでいる。絶対にネイティブと同じレベルにならない。それがわかっていても表面的なコミュニケーション以上に少しでも相手の世界観を感じたいので、自分の中に新しい感覚をインストールしたいから外国語を学んでいるのでは。現に私はまだ全然中国語を操れないけれど、この中国語のリズムや音を楽しんでいる。

「異文化交流の重要性をあなたは主張しているの?」

 文化や宗教観などのスケールが大きい話は専門家の守備範囲。私はただ中国人と対話して自分との共通点と相違点とを個人的に体感したいだけ。それを体感することは自分にとっては異文化交流ではなく、自分の前提や常識を解体・再構築する哲学的な行為。

「でも結局、哲学はレトリックな詐欺行為ではないのか。」

 確かに哲学は言葉を使った思考であって、その言葉は人の意識や行動に強い影響を与えて、人を内部から改変していく力があるのは事実。だから言葉、言語については注意深く使わないといけないと考えている。言葉は便利だけれど、その恐ろしさについても自覚的でいたい。

 というような対話が1時間くらい続いた。途中でレッスンに戻りたかったけど、彼女は日本語で身を捩りながら必死に対話しようとしていたので、自然と巻き込まれてしまった。正直、彼女の日本語はうまくなかったけれど、双方の論点と着地点を探る心意気は完全にシンクロしていたので筆談交えた”哲学的”な対話が繰り返えされた。

 通常の日常会話には常に哲学的な要素が潜り込んでくるけれど、私はメタ的に哲学を議論したこともないし、そんな素養もない。実は彼女が哲学的な人間で、私を試していただけのような気がしてきた。思い返せば、問いの立て方があまりに哲学的だし。

 あっという間にレッスンの終わる時間となった。

「我喜欢你的说。」

 先生は満足そうに、席を立ち部屋を出ていった。今日のレッスンではテキストが1ページも進んでいない。本日のレッスンを復習したが、すぐにそれを終えた。

「我喜欢看书, wǒ xǐhuan kànshū wǒ xǐhuan kànshū, wǒ xǐhuan kànshū wǒ xǐhuan kànshū……..」

 ピンインも4声も完璧に仕上がりました、先生!。


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