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休職していよいよ残り四半期となり、これまでを振り返る

 休職に入って、3ヶ月毎に振り返りを行ってきているが、今回、これで3回目だ。

 休職が明けてから、最後に振り返ってもいいのだが……そもそもこの振り返りは、この休職期間を無駄に過ごさないよう後悔しないようにするためなので、休職終了後の振り返りは、私にとってあまり大きな意味をなさない。それに、仕事が始まってしまえば、振り返る時間的余裕もないだろう。よって、恐らく今回が最後の振り返りになるかもしれない。とにかく、残りの3ヶ月(ていうか、もはや2ヶ月!)を無駄に過ごしたくない、ただただ、そんな想いがあるだけなのだが……。

 

○過ぎたるは猶及ばざるが如し

 私はカレーが好きだ。

 しかし、そんな私も、一時期だけカレーが嫌いだった期間がある。それは、大学時代、授業のコマ割りや移動時間などの関係で、食堂でゆっくり食べる時間が取れず、ごみごみとした雰囲気が嫌いな友人の希望もあり、人気(にんき、かつ、ひとけ)のない食堂――カレーやスパゲティなど、簡易で早急に提供できる離れの食堂を利用していた期間だ。毎日カレーでも問題なかった友人に合わせた結果、私は半年間ほぼ毎日(週4だったか?)、お昼ごはんはカレーだった(ミートスパゲティは私は嫌いなのだ。)。その時は、もう一生分カレーを食べた気分だったし、家で夜もカレーだった時は、何も知らない母親にキレたりもしていた(遅めの反抗期か。)。とにかく、もうカレーなんて見たくもないという時期だったのだが、ここで友人に「たまには別のお店にしようよ。」と言えないのが、私の性格なのである。

 そして、やや「品のない」話になるが……以前付き合った彼女は、それはもう「アレ」が好きな彼女だった。私もまあ……嫌いな方でもないので、可能な範囲で彼女の求めに応じていたのだが、私の場合は、それよりも睡眠時間の方が大事だったのだろうか……そりゃ、夜中にたたき起こされるだけでなく、時間も選ばず1日中、何度も何度も求められたら、私の体の方が音を上げてくる。フラフラで、頭はガンガンするのに、彼女もだんだんとエスカレートしてきて、その時期は、もう一生分アレをした気分、もうアレなんてしたくもないという気分だったのだが、ここで、彼女の相手をしなかったら……彼女がキレて手に負えなくなったりもした(そんな彼女の話は、実は先日投稿した記事の中に出てくる彼女その者である。)。

 突然何の話かと思われただろうが……ここで私が何を言いたいのかといえば、それは、単に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということである。どんなに好きなことでも、ものには限度があるということを言いたかったのだ。

 さて、私は、仕事は嫌いだが、休みは好きだ。

 しかし、現時点では、まだ休み足りない気分だし、一生分休んだ気分でもない。それに、もう休みたくないというような気分にもなっていない。ということは、まだ、私にとっては「休みが足りていない」という認識で合っているのだろうか。そうであれば、あとどれくらい休んだら、
(もう、これ以上休みたくない。働きたい!)
という気分になれるのだろうか。本当に、私に、そんな時が来るのだろうか……。

 

○私のやりたいこと

 そもそも一体、私は、今のこの世の中、この社会において何をやりたいのだろう。何のお役に立てるのだろうか……。

 例えば、会社の経営者などは、明確に何かやりたいことがあって、代表者になっているのだろう。……例えば、とある社会貢献をしたいとして、そんな目的を果たすためには、代表者にならざるを得ない……というか、結果的に代表者になったとでもいうか。または、自分の力を試したい……そういうのもあるかもしれないが、いずれにしても、経営者というのは、それ自身が目的ではなく、あくまで手段なのである。小学生じゃあるまいし、単に「社長になりたい」だけでは、やはり不十分で、じゃあ社長になったとして、何をしたいかという話なのである。

 まあ、当然に、社長になってみてやりたいことが見つかったという話もあるとは思うが、いずれにしても、私には、そのような「何をやりたいか」というのが……ない。もともと、小さい頃から優柔不断で、欲もなく、周りに流されるだけの生き様だった、というのもあるのだろうか。私は、兄弟構成上「三男」であり、自分の主張が通らないどころか、兄には絶対服従だったので、小さい頃からそういった生き様が体に染みついている気がしている(私はやはり、スターフォースではなく、スーパーマリオが欲しかった……。)。

 

○小さい頃の将来の夢

 思い返せば、子どもの頃の将来の夢は、学校の先生だった。これは、実は幼稚園から高校まで一貫してそうで、具体的には、小学生の頃は小学校の先生になりたかったし、中学生の頃は中学の先生になりたかった。理由も明白で、これも幼稚園の頃から、
(こんな場面では「こう」すれば、もっとうまくいくのに……。)
という、やったこともないのにそんな根拠のない自信だけはあった。

 しかし、高校の担任から、彼の実体験に基づいた説得力のある話で反対される。要は、教室で授業を教えるという、私が見えている部分というのは、教師という仕事のほんの一部に過ぎず、それ以外にも私が知らない仕事がたくさんある、ということだった。そして、そんな仕事こそが、私に向いていないというのである。具体的には、手のかかる生徒や、そんな保護者とのやり取りなどだった。

 その頃、同様に、私が教師を目指すことについて、友人からも反対されていた。理由は、この担任とは全く異なるものだったが、
「先生になったら、もう絶交する!」
と強く言われたので……そこまで言うんだったら、私も教師にならなくてもいいかと思うようになってきていた(はい。流されるだけの生き様。)。

 ただ、今になって思うと……やはり教師にならなくてよかったとは思っている。

 これは、結果論だろうが、私がなりたいと思っていた頃の先生像と、今の先生では、いろいろ状況が違いすぎている。もはや、私がやりたいと思えるようなことはできない気がしているし、既に時代が変わったというか、生徒の反応、保護者からの求められるもの、国の教育方針なども、私が在学していた時代と随分変わっている。昔よりも自由な裁量もなさそうで、私の好きなようにできそうにない。今や、古き良き牧歌的時代ではなくなった……。

 まあ……当時から「先生の暴力はおかしい。私が先生になったら、あんな理不尽な暴力などはしない。」と思い続けていたが、私が教師にならなくても、そういうのが駆逐されていっているのは、本当によかったと思っている。

 話を戻すが――ということで、私は、将来の夢が宙ぶらりんのまま大学生活が始まった。当時は、教育実習だけでも……という想いもあったが、結局、教職課程は取らなかった。教師をあきらめた以上、未練を残したくなかった、というのもあるが、大学生活というのが想像していたよりも忙しく、時間的余裕がなかったのもある。

 とはいえ、漠然と教育関係の仕事をしたい、という想いだけは残っていた。なので、教育関係の出版社を中心に就職活動をしていたが……当時は、まさに氷河期時代。ことごとく落ちまくった。某ファミコンソフトも作っている教育関係出版社も受験し、結構進んだのだが……途中で連絡が途絶えたのは、本当に残念だった。

 まだまだ、今ほど簡単に会社の情報にアクセスできなかった時代。ちょうど、就職活動関係のインターネットサイトができ始めた頃だっただろうか。経済学部の友人などは、そういう情報が周りから自然と入ってくるようだったが、私は理系ではあるが、工学系でもなかったことから、積極的に就職情報が舞い込んでくる訳でもなく、むしろ、研究室でも教授からは大学に残るよう促された(この辺は、後ほど詳細を記す。)。私の親も、私の就職活動に、あまり興味がなかったのも大きかっただろうが(日々、遠方に出ているのに、いざ、結構面接が進んでいる話をすると「地元で探せ。」とか水を差してくる……。)、とにかく、私は、就職試験の対策など何もせず、ただただ素人が自分の感覚のみで突き進んでいただけだった。

 当時、古い先輩からのアドバイスがあった。
「同じ日に複数の会社を記念受験して、それぞれから交通費をもらって、余りで観光もしていたよ! なので、興味がなくても、近くの会社をいくつも申し込んだがいいよ。」
 私の就職活動の頃は、既に時代が変わりつつあったのかもしれないが、それでも、先輩の言葉を信じていた私は、とある会社で、
「え!? 特急代は出してくれないんですか? 始発でも間に合わないんですけど?」
などと、食いついたりしていた。こんなので受かるはずもない。

 塾の先生への憧れもあったが、決まった時間に寝ないとつらい私にとって、勤務時間が不規則なのが耐えられないだろうと思ってパスした。要は、私にとっての教師に対する熱意とは、その程度のものだったのだ。とはいえ、大学時代や再就職するまでの間に、アルバイトとして個別指導や塾の講師をし、それなりに満喫できた。念願だった教壇にも立てた。悔いはない……だろう。

 

○とりあえず就職した会社

 大学に4年もいれば、何かやりたいことが見つかるだろうと思っていたが、結局、大学4年生になっても何も見えていなかった。なので、とりあえず、大学院や公務員の試験準備をしながら、同時に就職活動……と、日々右往左往だけはしていた。

 そして、運良く滑り込めた、某ソフトウェアの会社。SE という募集枠だったが、仕様書(いわゆる設計書)もなく、各人がそれぞれ思い思いにプログラムを組むというような……その辺のサークル活動の方がしっかりしているのではないかというような開発体制の会社であり、振り返ってみれば、単なる PG(プログラマー)に毛が生えた程度だったような気もしている。まあ、よくいえば、個人の裁量が大きすぎたのだろう。

 私の場合、もともとパソコンはその辺の人よりも得意だったし、当時には珍しく中学生時代から BASIC を慣れ親しんでいたこともあって、意外と重宝された存在でもあったのだが……基本的には、私の苦手とする「体育会系」な組織であり、上からのパワハラだけでなく、会社に入った順による特権意識も根強く、卒業式の関係でたった半年早く入社しただけの専門学校卒の年下から上から目線で命令されていたのも、ずっと違和感があった……。

 その他、年が変わるまで年休はない(入社説明会で総務からはっきり言われた。)、忌引も使えない(「どうしても出てこれないのか」という部長に「葬式で出てこれない」と言ったが、欠勤扱いで減給されていた。)、タイムカードは押すものの残業代は一切出ない――といったのは、まあ、どこでもある話かもしれないが、使うソフトは違法コピー(ソフトウェア会社なのに!)、そもそも、自社が販売しているソフトを自社が使わない(バグだらけなので。)といったような、企業モラルというか、コンプライアンスもへったくれもなかった。

 一応、朝9時始業だが、まず、朝礼が良くなかった。それぞれが、順に今日の目標を語るが、みな下を向いてボソボソ言うだけで何も聞こえない。葬式の受付か! 部内全員なので、毎日毎日10分程度無駄にしていた。私は、目を開けて、立って寝ていたが……。午前中は、チームリーダーも頭が回らないのか、よく船を漕ぐ(居眠りをしている)。午後もそうだ。そして、夕方5時の終業のチャイムが鳴ると同時に、ミーティングが始まり「今日は今から何をするのか?」という内容だった。要は、定時で帰るなということだ。その後は、夜10時のチャイム、夜中0時のチャイムとなり、段々と人が減っていく……。みんな、いつ寝ているのだろうか……と思っていたが、まあ、仕事中に寝ていたのだろう。

 また、飲み会での暴力事件(私は、初対面の先輩から「俺の名前を知っているか?」とたずねられ「知りません。」と回答しただけで、突然げんこつで殴られた。また、同期は、その飲み会で酔い潰され、意識をなくし、道路に寝転がっている状態だったことから、2次会が中止となったのだが「お前のせいで2次会がなくなっただろうが!」と、意識がないのをいいことに、同じ先輩からボコボコに蹴られていた。そして、そういう雰囲気をみなが見過ごす雰囲気があり、部長も見て見ぬ振りをしていた。まあ、止めなかった私も同罪だろうが。)……などなど、私の耐え難い苦痛は、上げればキリがない。まだまだ分煙なども進んでいなかった時代というのもあったのだろうが、社員旅行のバスの中で、半分くらいがタバコを吹かせ、煙たくて仕方なかったのも悪い思い出のひとつだ。

 初めて入った会社なんだから、どこもこういうものだろう……と思っていたが、今ならば(当時でも?)、いろいろとアウトなものばかりだろう……か。

 それでも、パソコンもコンピューターも好きだったし、なんとかこなしてきたのだが……明らかにリーダーの勘違いにより起きたちょっとした事件が、なぜか私のせいにされ、その尻ぬぐいに大量のタダ働きをさせられたこと。全く別の調査案件の部長報告の際、突然、フロア全体に響き渡るくらいの大声で怒鳴られたこと(これは業務ミスでも何でもなく、単なる調査結果という事実の報告で、大声で怒鳴るような案件でもない。単に、部長がその調査結果を気に入らなかっただけなのかもしれないが、まあ、理不尽な理由で叱責を受ける、罵声を浴びせられる――という、間違いなくパワハラに該当するやつだ。その数時間後に、突然、私の肩をもみに来たのも、気持ち悪くて仕方がなかった。というか、今なら立派なセクハラだ。)。そして、徹夜で残業したのに、それに気づいた先輩から、フォローどころかバカにされ……こういうことが本当にタイミング悪く、全て同時期に重なってしまい、結局、
(あ。私は、いらない子なんだな……。)
と、ある日突然、会社を辞めることに決めた。今思えば、単に、年度の代わりという時期が、そういう気分にさせたのかもしれない。その半年も前から、毎日胃薬を飲まないと生きていけない体になっていたし、午前中は、よく、幼少の頃の思い出(幼稚園でのカビパンの実験での、パンに浸した牛乳が臭かった思い出など)が走馬灯のようによみがえっていたし、今となっては、退職の決断は遅かったくらいだと思う。

 その日、親よりも友人よりも早く、チームリーダーに退職の話をする。ここで、引き止められれば、私の考えも揺らいだのかもしれないが、なんと! 引き止められるどころか、歓迎ムードだったので、より確信に定まった。まあ、当時、1年で全社員の2割が退職し、それを新入社員で賄うような人事管理の会社だったので、誰しも特に驚くべきようなことでもなかったのだろう。

 何の話だったかな……まあ、もうこんな辞めた会社の話なんてどうでもいい。とにかく、私は不誠実や理不尽なことが極端に耐え難いのだ。

 

○そして転職へ……

 その後に入ったのが今の会社なのだが、周りからの評判で、不誠実なことはなく残業もない、などと聞いていたのだが――まともなのは、やはり部分的であり、その中心部であるはずの総務人事部門が一番腐っていたというか、不誠実で理不尽な上長及びそのラインに嫌気が差し、一体全体、私は今まで何のために働いてきたのだろう……という気分になってしまったのだ。結局、上長もその上も……その上も、総務人事部門に行くような人というのは「自分の出世」にしか興味がなく、例えば、とある事業を将来に渡ってどうしようか……などという視点などは皆無で、みな、自分が所属している時に、事件などが起きないように、そつなくこなそうというような働き方が標準なのだ。例えば、今までずっと逃げに逃げていた部長が、次の人事異動で転勤することが分かったとたん、
「ん。それは、やろう。」
などと、突然、方針を変えたりもする。

 それに、私は、人事異動の度に、毎回、前任の尻ぬぐいから始まっている。私は、いつも「来たときよりも美しく」の精神で、後任者が仕事をしやすいように整理して出ていっているが、新しいところでは、また焼け野原からばかり。直近の私の前任もそうだ! いろんな課題問題に蓋をして、見なかったことにしていた。そして、毎年のように病気社員を出しては、挙げ句には優秀な社員を退職までさせている! 表向きは「自己の都合による退職」となっていたが、それまでの病気のやり取りの記録も残していたではないか? 社員の耳には一切傾けず、とにかく病院に行けの一点張り。いらない社員は、また採用すればいい――これが、総務人事部門のやることか!?

 まあ……以下、余談だが。実は、この退職した優秀な社員は、以前私が想いを寄せていたお方でもあるので、その辺の私情があるのは否定しない。ただ、あと数年、何かのタイミングが違っていれば、彼女は、私の直属の部下となっていた訳だし、彼女の性格や、彼女の過去をよく知っている私たからこそ「私だったら、こうしたのに!」と、私なら彼女の退職を食い止められただろう、と悔やまれて仕方がない。こんな彼女との桃色話(?)は、また、別途記事にしたい……。

 話を戻すが、結局は、この会社も、根底にあるのは、前の会社と同じだったのだ。

 

○仕事ができる社員ほど潰されていく会社

 そういえば、同期のメンバーは、今頃何をやっているのか……。

 入社時のトップは、地元の大手地銀からの転職組で、東京の某有名私立大学も出ている、非常に優秀で貫禄もあるお方だった。ただ……我社とは肌が合わなかったのだろうか、何か歯車がずれてきたのか……。大きなことをやりたいのに、そういう部署に行けない自分と、大きなことをやりたくないのにそんな部署に行ってしまった私とで、ちょっとした衝突というか、私は、仕事で彼から大きな声を上げられたこともあった。そして、彼は入社10年目ぐらいから病気がちで姿を見せなくなり、私が出向先から戻ってきたときには、既にもう辞めてしまっていた。

 また、入社後にメキメキと頭角を現した別の社員は、私のような関連下請け会社への出向ではなく、親会社というか、普通とは逆方向の出向をしていた。しかし、まだまだ、長時間労働が当たり前だった時代。毎日が、タクシーによる帰宅の午前様で、あまりの激務により免疫力が落ち切ってしまったのか、昔からの免疫系の持病が悪化し、その後しばらく闘病生活を続けていたが、結局は帰らぬ人となってしまった……。

 もうひとり。同じく、入社後一番に肩書が上がった彼は、それ以降は、上長と肌が合わなかったのか、あまりいい評判を聞かず、私のようにしばらく休んだ時期もあったようだ。その後は、完全に出世競争から抜けてしまって、今や、同期の中でも一番遅いところにいるし、現在の担当業務も、新入社員がやるような接客業務が中心の部署だ……。

 私は、彼らと比べても仕事ができる方ではない。入社時もギリギリだった。出向で飛ばされもしたし、出世も早くない。ただ、多くはない同期の中でも、総務人事部門にいた私が丸1年も休んでいる訳だから、もしかしたら周りも「またひとり潰されたか。」くらい思っているかもしれない(むしろ、思っていてほしい。)。

 

○能力のない上長

 本来、会社の中枢で、しっかりとしないといけない総務人事部門。ここにいた間、オカシイと感じてきたことは、たくさんある。ただもう、今となっては、ことさら詳細にオカシイことをダラダラと書き記していくのに意味を見いだせなくなっている。今の心境は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というような心境に近く、もはやいろんなものが嫌いになってしまった……。

 詳細は以前書いたとおりだが……、

改めて読み返すと、我ながら、何を言いたいのかよく分からない(笑)。何を言いたいのか、一言でいえば、要は、私の上長の「管理能力のなさ」に尽きるのだろう……か。

 雨漏りがする家に住んでいるようなボロボロの状況なのに、どうして、屋根修理の提案を承諾せず、毎日床拭き掃除に追われる我々を見てみぬふりして「(忙しいのは)どこも一緒。」の一言で片付けるのか? 残業時間は、数字ではっきりと全チーム出ているではないか? 数十年に一度と言われる改革があったのに、どうして、その業務を適切に采配できなかったのか? 「各リーダー同士で調整して。」と言うが、どこもいっぱいいっぱいだし、押し付け合いにしかならないし、声が大きい者が勝つ仕組み。怒号が飛び交うのに、どうして、見て見ぬ振りするのか? 新旧システムの切り替えが、業務的にもうまく行かないことが予見されていたのに、どうして何も手を打たなかったのか? 私は、1年も前から提案し続けていたが、どうして、それをガン無視し、直前になって「どうしてそれを早く言わなかったのか?」などと、寝言みたいなことを言うのか? 実際に業務が崩壊し、損害を受けた社員から「マスコミへ垂れ流すぞ!」という脅しも受けたが、その程度の脅迫に怯え「今すぐどうにかヤレ」の一点張り。システムだと一瞬だが、手作業だと特殊処理となり、どうしても数日かかり、結局、前月分の処理が終わらないまま当月分の処理が始まる。よって、このひとりを救うことが、翌月、全社員全滅へとつながるのだが、どうしてそう説明しても理解できないのか? 挙げ句には「全部ヤレ。できるのか? できないのか? どっち?」などと言う。お前こそ脅迫だろうが!

 どうして「数字は適当でいい。」というのか……。適当な支払いとかできる訳がなく、実際のお金と伝票が一致しないと、支払いそのものができないことを理解できないのか? 適当で良ければ、簿記などの資格の存在意義もないことに気付けないのか? 数字というのは、それこそ数学的で、合っているか間違っているかの二者択一しかなく、こちらは、数字が合うまで永遠と戦わなければならないのに、どうしてそれを、どんなに説明しても理解してくれないのか? こちらは、新システムがクソすぎて、数字の調整が毎月手作業になり、期限もなく毎月ピリピリしているのだが、全体像が見えていないのか、まだまだ3合目過ぎくらいの中間報告に、
「よかったな! じゃあ、今からみんなで(飲みに)行こうか?」
などと言えるのか?

 業務相手に対し、上長からガツンと言ってほしい場面においても、四の五の言って、会議に出ようともせず、全て任せるの一点張り。クレーム対応ならそういう心境も分からないでもないが、ビジネスパートナーに対してまでもその態度。先方は、結構上位の方が来るのに、ビジネス上も失礼にしか当たらない。どうにか会議に出てもらっても、そもそも自分の立ち位置が見えておらず、こちらに一切非がないような相手方の契約不履行により厳しく突っ込むべき場面においても、始終、のらりくらりとどっちつかずの対応で、むしろ、我社にとってマイナスの方向に話を持っていく。
「もう、いる意味ないよね。」
 最初にそう口に出したのは、私ではなく、私の部下社員だった……。

 

○更にひどいその上

 上長の上に至っては、それ以上に問題外だ。存在する文書をなかったことにしたり、総務人事部門の内部の不祥事ももみ消した。外に示しがつかないし、あえて自ら自身の首を締めることをしたくなかったのだろうが……要は、権力を持ってはならない人物が、大きな権力を持ってしまっていたのだ。

 ちなみに、彼は、どうにか私たちのガス抜きをしたいと思いついたのはよかったが、その飲み会の席で、私がいろいろ意見を言うものだから、彼も、
「もう、今日は無礼講(笑)! 何でも、いろいろ言おう(笑)!」
とは言ったものの、私が理詰めで追い詰めていくと、ついに我慢の限界を越えたのか、突然、ツバを撒き散らしながらキレ始め、チーム全員に大きな醜態を晒してくれたのも記憶に新しい。そして、なぜかそんな人間ほど出世して出ていく。

 彼だけでなく、私の隣のチームリーダーもそうだ! 上からの考えを、そのまま周りや下にパワハラで押し付け「上長を補佐しています!」みたいな態度が見え見えだったのだが、結局、彼も出世して出ていった……。

 上長の上の上も同類で、特に彼は、クラッシャーというあだ名で有名であり、いろんな社員を潰して、蹴飛ばして、踏み台にして、昇り詰めたような人種なのだ(ただ、我が上長も、彼に対してはヘコヘコしていたし、そういう姿を見るのは楽しかったが……。)。

 そういう状況の中での耐え難い長時間労働……。そもそも、私が、この会社を選んだ理由のひとつが、残業がないことだったのだが、蓋を開ければ、残業がない部署は、最初の部署だけで……それ以外は、残業があるところばかりだ。

 特に直近の総務人事部門では、ほとんど毎月残業が100時間を超え、これを2年連続で達成した。人によっては、これぐらいの残業くらいどうってことない、という人も多いとは思う。ただ、私は前述したとおり、そもそも、この会社に求めていたのが「残業なし」だったのである。そういう人が、土日もなく、年間1,000時間を超える残業をするのは耐え難いのだ……。いずれにしても、この2年間の残業の合計が1年間の標準的な勤務時間に相当していたため、私自身、1年間休んでもバチは当たらないだろうと言い聞かせることができた。

 じゃあ、まあ、この組織が嫌だとして、また会社を辞めたとして……私は、一体何ができるか?

 

○改めて、私にできることとは?

 ……何もできないだろ(笑)?

 じゃあ、転職が厳しいなら、自ら経営者になれるか? というか、経営者になって、何をやりたいの? という話なのである。話は振り出しに戻るのだ……。

 ……例えば、商店街の本屋の店主くらいはなれそうな気もする。細かい気配りはできると思う。事業として成り立つか成り立たないかというのは別だろうが。まあ、私の場合、生徒会会長というよりかは、班の班長向きというか、組織の頂点に立てるような人ではなく、小さな集合の長に向いているというか、個人経営向きだとは思う。いろいろ何でも細かく気づいてしまうし。

 ただ、いずれにしても、何をしたいのか……である。

 例えば、ここに3億円あったら――という話なのだが、事業家であれば、自分がやりたい事業にそのお金を投資するだろう。

 私の場合は……旅行? 寄付? よく分からないが、まあ、確実に仕事は辞めるだろう。

 じゃあ、仕事を辞めて何をしたいのか……音楽はしたい。語学も、もう少し極めたい。ある程度、スポーツもやりたいし、適当に家庭菜園もしたい。まあ、この辺は、過去にも書いてきたようなことであり、まさに今そんな生活を満喫しているところだ。

 じゃあ、これらをそれぞれ極めて何になるのか……? いや。これは、意味のない質問で「そこに山があるから登る」のと同じであり、その過程そのものが楽しいのだ。例えば、車の運転に対し「目的地までの移動のための作業」と捉えるか「運転そのものを楽しむためのドライブ」と捉えるかの違いというか。

 でも、今のこんな生活のままでは、今後生きていけない……。

 もはや、年齢的にも実家で家事手伝いという訳にも行かないし、親の年金を食い潰す訳にも行かない。自分の年金も、まだまだもっと先だ。

 

○こんな話の帰着先は、いつも決まって……

 周りにこういう話をしていたら、
「また、深く考えてたら、また『何のために生きていんだろう?』となるんじゃない? これ以上考えないがいいよ。」
と、冷たく言われてしまう……。

 いやぁもう。私は本当に病気だね(笑)。

 しかし、今は本当に生きづらい世の中だと思っている。そう感じているのは、私だけではないはずだ。そんなことを思っていると、少し前に読んだプレジデントオンライン(以下「プレジデント」。)に共感できる記事があった。

 そう。別に、男性だからといって、必ず働く必要がある訳でもなければ、大黒柱である必要もないのだ。では、働かずに生きていく方法はあるのだろうか……。そんなプレジデントには、次のような記事もあるが、

私には真似できそうにない。

 

○やりたいことがなくても問題ない

 そんな中、この年末年始に、そのプレジデントにおいて、強く共感できるひとつの記事に出会えた。

 衝撃だったのは、サブタイトルにあるとおり「やりたいことがなくても問題ない」のだ。今まで、やりたいことが見つからない私は、社会不適合者というか悪だとか思っていたが、ここでは、それとは正反対のことが語られる。

 小見出しだけ並べてみても「適職診断はあてにならない」「自分探しをしてもやりたいことは見つからない」「何を選ぶかではなくどう向き合うかを考える」など、勇気を与えてくれるものばかりだった。

 また、本文中にも「アメリカで提唱されたキャリア理論で言われているように、人のキャリアのほとんどは偶然で決まります。」とあり、タイトルどおり「キャリアの岐路で何を選んでも結果は同じ」であり、自身のキャリアとは「偶然の出会いや別れがあったに過ぎ」ないのである。

 要は、人生、努力だけではどうにもならないところがあり、運やチャンスの波にうまく乗っていかなければ、その先が開けない……ということなのではなかろうか?

 この記事に出会えただけでも、今回、休んだ意味があったと思ったほどである。

 そして、直近での衝撃記事は、これだ。

 「この世は完全な世界ではなく、人間が作り出した不完全な世界である。だから間違いも起こる。不公平なことも起こる。起きてはならないことも起こる。」とあり、また「成功者は皆、大なり小なり理不尽な出来事を乗り越えており、逆にいえばそうでなければ成功者になどなれはしない。」とあるのだ。

 私は……やはり、まだまだ努力が足りないだけなのか……?

 

○とりあえず、まず、何かやってみては?

 そういえば、私の好きなテレビ番組に「ゲームセンターCX」というのがある。どんな番組かを簡単に説明すると、よゐこの有野が、ただひたすらレトロゲームに挑戦する「有野の挑戦」というのがメインの番組なのだが、そもそも有野は、私に言わせれば、レトロゲームの腕前も平凡で知識も少ない方だ。

 最近の分は、見ることができていないのだが、番組が始まった当初は、特に、有野自身も、どちらかというと「仕事でゲームやってます」というか、ビジネス的な印象で、ダラダラと……しかしコツコツと、ゲームをやっていた感じだったと思う。24時間挑戦のときとか、本当にキレていた場面もあった(と私は思う)。要は、彼も、そんなにこの仕事が好きではなかったのかもしれないのだ(今は分からないが。)。

 でも、彼も仕事を選ばずに、言われたとおりに真面目に取り組んだ結果、ここまで番組も大きく成長できたのだろうか……と思っている。

 

○そして、チャンスを逃すな!

 そういえば、振り返れば、こんな私でも、過去、他人に求められた時期があった。それは、大学4年生の時、自分が所属したゼミでの教授からの言葉だった。
「君はこの学問に向いている。是非、大学院生になって私のゼミに入ってほしい。」

 それは、本当に人気がなく、私ひとりだけのゼミだったので、ゼミの存続のためにも、私に声がかかっただけだということは知っている(私は、そんなに成績の良い方でもなかったし。)。

 しかし、これこそがタイミングというか偶然のチャンスであり、私の人生における分岐点のひとつだったんだぁなと、今になって思う。

 当時、私は、会社に内定も決まっていたし、教授の推薦を断り、会社員になることにしたのだが、もし、この時、大学に残る道を選んでいたとしたら、今のような悩みはなかったのかもしれない。とはいえ、結局は、別の悩みに悩まされていただろうし、上の記事の言葉を借りれば、流れ着くところは同じなのだろう。

 なお、この時、教授の推薦を蹴った理由は、自分に敷かれたレールから脱線したいと思ったのもある。「小さい頃から優柔不断で、欲もなく、周りに流されるだけの生き様」を変えたかったというか、切り捨てたかったというか、脱皮したかったというか……。

 もしかしたら、今もまた、そのようなタイミングのときなのだろうか……?

 

○近頃の私は……

 さて。ひるがえって、現在の私自身についてである。

 最近、自分自身が「変わったかも?」と感じたのは、休みの残りの期間の考え方についてだ。当初は「もう3ヶ月が終わった。あと9ヶ月しかない!」という気分だったのが、最近は「あと3ヶ月もある。」というような感じなのである。

 学生の夏休みだって1ヶ月程度。働いていた頃は、お盆休みすら満足になかった。年末年始だって、たかだか1週間程度。それなのに、現在の私は、まだまだあと3ヶ月も休みがある! というような考えができるようになってきている。こんな数ヶ月の休みとか、もう、間違いなく一生くることもないだろう、このまとまった3ヶ月という期間の休み。これは、有意義に過ごすべきだ……という気分なのだ。

 あとは、やはり年末年始に親戚と会ったりして、みんな当たり前のように働いているし、そういう姿を見ていると、
(やはり、私も働かないとダメなんだろうな……。)
と思うようになってきている。

 そして、またまたプレジデントからの記事なのだが、最近の共感記事はこれだ。

 我社の場合、こんな不適合な管理者が、総務人事部門のヌシとして居座っているからおかしくて仕方がない。

 ただ、私も、復職と同時に転勤だろうし、今後、彼らと接することもなくなるだろう……。

 余談ついでに、もうひとつ。これは、自分が総務人事部門にいたからこそ結果的に知ってしまったことだが、当時の私の残業時間は、全社員の上位0.5%内だった。ということは、こんなに働いているのはごく少数で、次の転勤でも今と同じくらい忙しい部署に行く可能性は、かなり低いだろう……。

 

○まずは、ゆる~くやろうか

 まあ、要は、私自身、嫌だったら全て逃げるのか? という話なのである。

 例えば、彼女と付き合っているとして、嫌なことがあったからすぐに別れるのか……とか、これを突き詰めて極論すれば「嫌なことがあったから、人生辞めるのか?」というような話なのだ。なんでもかんでも、そう二元論で言い表わすのは適当でない。人生とは数学じゃないんだから。

 仕事は嫌である……が、そのまま続けてもいいんじゃないか、ということで、嫌のままでも続けていたら、もしかしたら、その中で何かいいものが見えてくるかもしれない、ということなのだ。

 「仕事を楽しくやろう」と決めたのは、一体誰なのだろうか。楽しくない仕事を楽しくやろうと思うからつらくなる。最初から、つらいものはつらいものとして受け止めればいい。そのつらさ(労働)の対価として、給与が発生するのだから。

 私は、社会人になってからずっと、仕事は楽しくやらないと、会社や顧客のためにならないと思っていた。しかし、そもそも、会社や顧客のために働く必要もなく、まずは、自分のためだけに働けばいいのだ。

 昔、とある部署で、とある先輩がお客さんにキレている場面を見かけたことがあった。
(あ~あ、やっちまったな。いい歳なのに。)
などと、当時は、どうして彼があんなにお客さんに怒ることができるのか理解できなかったが、今なら、その気持ちがなんとなく分かる。自分を押し殺してまでも仕事をする必要がない、という一面もあったのではないだろうか。

 その他にも、再雇用の社員とか、もはや失うものがないのだろう……結構無謀で無敵な仕事のやり方で日々過ごしている人も見かける。要は、私もそれに近い形で仕事ができれば、随分と楽になるのではないだろうか、ということなのだ。いつ辞めてもいいくらいの、ゆる~い感じで仕事ができれば……そして、並行して、転職準備やら起業の準備などができれば……。

 要は、今まで変に真面目すぎたのだ……自分で言うのも何だが(笑)。まあ、過去の先輩方からも「クソ真面目だけが取り柄」と言われてきたからな……。

 ということで、まずは、4月からは、ゆる~く仕事ができれば……と思っている。それに、今のように、貯金を切り崩すような生活と違って、給与も出るようになるので、お金を上手に使って、要領良くストレス発散をやっていきたい。

 あとは、仕事が始まっても、この note を続けることができればいいな。結局、書きたいと思った記事は、ほとんど書けなかったのだから……。

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