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アラフォー中間管理職が、復職後の半年間を振り返る

 季節も、そろそろ夏が終わろうとしている。気がつけば、復職して、もう半年だ。本当にあっという間だった。

 その間、まあ、それなりにいろいろあった。ようやく打ち解けてきた年上の部下社員(オジサマ方とかお局様とか。)。前任者の不作為(またかよ!)による会議での恥かきやチームの立て直し。支店の引っ越し。私自身がリーダー格からさらに上に上がれるよう、上長からの推薦。部下社員の無断欠勤やメンタル疑い。私自身のしょうもない失敗やちょっとした桃色ごと。自分と同じ氷河期世代の面接を担当した話――仕事自体も、忙しすぎず……むしろ暇な方ではないだろうか?

 いや、もはや私の感覚がおかしくなってしまっていて、実は今が普通で、旧勤務先の忙しさが異常だったのだろうか?

 旧勤務先では、雨漏りがするような家に住んでいても、決して屋根修理をさせてくれず、床の拭き掃除も追いつかず、床も腐る状況だったのだが(ここ、たとえ話)、当時の上長は、
「でも、床拭き掃除するしかないよね?」
という、その場しのぎの指示しか飛んでこない。そして、ついに屋根が崩壊した際には、
「今すぐ修理しろ。(言い訳はいいから)できるのか? できないのか? どっち?」
などというような脅迫もあり、部下社員は日に日に病んでいき、休職どころか退職まで出るような状況だった。

 私自身も、毎日深夜までの残業で、少しでも睡眠時間を確保するために、その2年間は、入浴は1日おきだった。こんなパワハラ野郎は、我社から駆逐すべきと、妙な正義感の元、内部通報をしようと計画するが、なんと! 実は、そんな通報先が、まさに自分がいる総務人事部門。つまりは、通報先の責任者がパワハラの張本人。他のしょうもない案件でさえもみ消したのに、仮に通報してももみ消されるだけだ。ていうか、総務人事部門の内部の問題は、どこにも相談できないということか? これはもう、組織の作りからおかしいだろ? 構造的な問題だ!

 そして、こういうことをお見通しなのか、全ての出来事を半笑うかのように、上しか見ていない体育会系の上長が、なぜか出世しては逃げていく……。

 この辺は、以前の繰り返しになるので、ここでは割愛する。詳細は、次の休職中の記事を参照されたい。

 それに比べ、今の勤務先は、たとえ雨漏りすることがあっても、それはアルバイト清掃スタッフが全てきれいにしてくれるし(ここも、たとえ話)、年間計画どおりに、予め定められたメンテナンスを施していけばいい。そこには、万が一の不慮な事故があっても対応できるように、ある程度の余裕がある。しかも、過去の経緯からか、どうもうちのチームは、他の支店の同チームと比較しても1人過剰要員のようであり、ぶっちゃけ私なんかいなくても、部下と上長で対応できる程度の業務量ではないだろうか、と思っている。

 ただまあ、これが、いわゆる窓際族というものなのか……?

 

○贅沢な悩み

 しかし、何とも贅沢な悩みとは充分に理解しているし、過去の自分が知ったら怒るのではないかと思うのだが……今は、正直、日々「なんだか物足りない」。

 いや、まだまだ勉強することもたくさんあるし、そろそろ本格的に忙しくなるのは分かっている。とはいえ、それはイベントごとだから忙しいのであって、そのイベントが終われば、また、こんな平穏な日々に戻ることが予想されている……。ていうか、そんなイベントも、昔、別の支店で経験済みだし、なんとなく全貌も分かる。

 なんだろう。とにかく、今の私の状況をゲームで喩えるとすれば、いわゆる「イージーモード」とでも言えようか。別のたとえをするとすれば、高校生にもなったのに、こそっと中学に潜り込んで授業を受けているというか……とにかく、日々、余裕というか、切羽詰まった感がないのだ。これは、もしかしたら、今まで私がリーダー格になってからずっと、プレイングマネージャーの立場で仕事をしてきたことに対し、今回初めて、完全にマネージャー業務に徹しているからかもしれない。

 その結果、プライベートも充実し、何の不満もないのだが……これであの暗黒の2年間――旧勤務先と同じ給与をもらえるのだから、さすがの私も違和感をぬぐえない。

 

○給与の時給相当額の算出

 さて、そんな今の私は、果たして、本当に給与をもらいすぎなのだろうか――これは、給与の時給相当額を算出すれば、実感しやすくなる。そして、それは、実は意外と簡単に計算できる。

 まず、給与明細から、基本給(給料月額)と諸手当を合算する。ただし、通勤手当は、実費的性質があるから、ここでは除いておく。その額に、年間の月数である12をかけたい……ところだが、ボーナスが出る場合は、12にその月数を加えた数をかけたい。例えば、ボーナスが年間4ヶ月分出るのであれば、その額に16をかける、ということだ(ただし、ボーナスの計算の基礎に、諸手当が含まれない場合は、より多めに計算されてしまうことに注意したい。)。

 ただ、年収なら、
「昨年分の源泉徴収票があれば、わざわざ計算しなくていいのでは?」
という声が聞こえてきそうだが、ここでほしいのは、いわゆる残業代を除いた年収であるから、全く残業がない場合は、確かに源泉徴収票の額でいいだろう。

 そして、その年収の額を、年間における1週間の数である52で割れば、1週間あたりの給与が算出され、それを週の勤務時間(40時間など)で割れば、いわゆる時給相当額が算出できる。

 以下、具体的に計算してみる。

 例えば、給料が月額20万円の場合で、その他には手当がなく、ボーナスが4ヶ月分出る場合は、

 20万円 × 16月 = 320万円

 これが、いわゆる年収にあたり、週の勤務時間が40時間の場合は、

 320万円 ÷ 52週 ÷ 40時間 ≒ 1,538円

 というような感じだ。そんなに難しい計算でもないだろう。

 ここでもまた、
「年収に、退職金の年額相当分も加えた方が、より正確な額が出るのでは?」
という声が聞こえてきそうだが、それが計算できる方は、加えていいだろう。

 

○自分の時給を知ることの意味

 アルバイト募集などの待遇面や最低賃金の表記でも、時給はよく用いられるし、時給が分かると、自分の仕事に対する対価としての給与が、さらに見やすくなる。

 例えば、転職を考える場合は、現在の仕事の内容と給与を鑑みて、その給与が低い場合に転職すべきだ、と聞いたことがある。要は、今の環境が、給与的に恵まれているかどうかを判断したあとに転職活動すべきであり、この辺をよく考えずに転職してしまうと、仕事の内容も待遇も悪くなってしまうことがある、ということらしい。

 そして、私自身の今の給与だが――。

 旧勤務先でいうと、明らかに割に合っていなかったが、今の勤務先では、明らかにもらいすぎになるだろう……か。ただ、まあ、平均すればトントンというくらいか。いずれにしても、振れ幅が大きすぎる……。これは、ある程度の大きさの組織にいる以上は、仕方がないことなのだろうか。

 ただ、今回、出世路線から外れたとしても、私の場合、今の方が絶対的に満足度は高い。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、ある意味、人生の勝ち組と言っても言い過ぎではないと思っている。

 ……ちなみに、余談だが、時給ならぬ「分給」、すなわち1分当たりの給与額を算出しても面白い。先ほどの例でも、ちょっとトイレで踏ん張っている時間だけで、缶コーヒー1本買えるくらいの給与が発生するのが分かる。アラフォーにもなれば、安いコンビニ弁当1つ買えるくらいになる方もいるのではなかろうか。そう考えると、トイレに行く時間すら、もったいないと思えてくる私は、もはや社畜になってしまったのかもしれない……。

 

○挫折も悪くはない

 さて、今回、出世のキャリアパスから大きく外れ、窓際族となった私が、特に落ち込むことなく、比較的謙虚でいられるのも、上記の給与的な理由もあるだろうが、それ以外の理由としては、今回、今までの人生の中で最大級の挫折を味わったことも大きいと思う。

 特に、今回の休職期間中は、本当に、自分なんて生きる価値もないと思っていた……。これは、もともと、自分自身の自信のなさが大きな要因かもしれないが、いずれにしても、そんな大きな挫折を味わって、少し時間が経って客観視できるようになった今、改めて思うのは、
「適度な挫折も悪くはない。」
ということだ。これは、自分自身を本当に謙虚にさせてくれる。

 

○挫折ばかりの人生

 過去を振り返れば、私の人生は、挫折の連続だった。だいぶ本題からそれるが、せっかくのいい機会なので、この際、私の挫折体験を記しておきたい。

 私が初めて挫折を味わったのは、中学時代だ。私は、いわゆるお受験して、公立ではない中学校へ入学した――と、こう書き出すと、
「どこが挫折の話なのか?」
という声が聞こえてきそうなのだが、実は、入学後に大変な思いをしたのだ。

 なお、私がお受験をした理由というのは、単に、地元の公立中学校が市内一荒れていて、体も小さく気も弱い私は、そんなところに通ってしまえば、確実にいじめの対象となるだろうし、ここは避けるべきだと本能的に察してしまっただけであり、また、当時の私の住まいは、いわゆる「市営住宅」で、比較的貧しい家庭環境だった……というのを申し添えておきたい。

 貧しくはあったが、当時から、勉強にはそれなりに自信があり、中学お受験も、小6の夏期講習と冬期講習に行った程度で、一応、希望の学校に合格できた(これは、住んでいたところが田舎だったり、今とは時代が違うこともあったりすると思う。)。

 しかし、入学後、自分が井の中の蛙だったことを思い知らされる。というのは、勉強に自信のあったこの私が、周りの理解の早さについていけないのだ。例えば、ある日、授業の導入で何気なく先生がみんなに質問をしたことに対し、クラスメイトのひとりが全てを語ってしまい、5分で授業が終わってしまった(クラスメイトが独壇場で授業を完結させた)こともあった。当然に、私は全く理解できなかった(授業が完結したことすら分かってなかった)。

 テストでも、自分が解き終わって、顔を上げると、今までと違う光景が目に入る。小学校時代は、まだみんな黙々と問題を解いていたのだが、ここでは、みんな顔があがっている。そう、もうすでにみんな解き終わっているのだ。

 勉強だけではない。運動にもかなり力が入っていて、運動会は年2回。うち1回は、姉妹校と合同で開催される。この時期は、全校生徒、所属部活に関わらず、朝練と称して、朝早くからグラウンドを何周もさせられた。部活動も強制で、基本的に運動部しかない。唯一の文科系は、ブラスだったのだが、運動音痴な私は、ブラス一択しかなかった。とはいえ、ブラスも基本的に体育会系だったのは……入ったあとに分かったことだ。同じく朝練もあれば、土日は、数時間ものロングトーンで、唇が腫れ上がって、今でも肉厚唇が、その勲章として残っている。

 小学校時代には絶対的に自信があった算数については――さすがの中学の数学でも、これだけはクラス一番取れるかも? くらいの自信はあったが――たまたま入学後最初にお友達になったその辺の友人に1点差で負ける。今まで平均以上だった他の科目も、「3」が取れればいい方で、美術は「2」、体育で「1」をもらったのは、今でも忘れられない思い出だ。

 というか、体育に至っては、一度も見学をせず、全て真面目に授業に出たのに「1」だったのだ。当時、プールの授業で足が底につかず溺れそうになったことがあり、小学校低学年と間違われるくらいに体が小さかったのだが、それでも人並みに努力はしていた。しかし、体が小さいというハンディキャップなどは考慮されず、あくまで「結果だけ」しか評価の対象とならなかったのだろう。

 小学校低学年といえば、当時、勉強が分からない友人を小馬鹿にするように、上から目線で勉強を教えていたこともあったが、
(その時の友人は、こんな気持ちだったのか……。)
と、いたたまれない気持ちになった。

 クラスメイトの中にも、私以外にも学校に居づらい人がいたと思う。私の場合は、自ら選んだ道でもあり、地元の中学校に行ったとしても、日々カツアゲに怯えるくらいならまだマシだと思い、身も心も小さくなって、苦行のような3年間を過ごしていたのだが、クラスメイトの中には、やはり、自分のやりたいこと(習い事?)ができないからという理由で、転校する友人もいた。

 

○自分の能力を逸脱した高い能力を求められ続けた結果

 これを皮切りに、高校でも、大学でも――要は、中学時代に変にお受験なんてしたもんだから、それに見合った高校に行く羽目になり、その流れで、大学もそれなりのところに行くことになる。世間的には喜ばしいことなのだろうが、その間、とにかくそこには「自分」がなく、青春時代にやりたいことなど、とにかく自分の時間を犠牲にしては、ただひたすら勉強勉強の毎日であって、結局、自分の人生というのは、周囲に合わせ続けた結果でしかなかった。

 家庭環境もさらにそれに拍車をかけたのかもしれない。というのは、私は3人兄弟の末っ子。兄弟でゲームを買うにも、どこに行くにも、自分の意見が通ることなんて、まず、ない。絶対王政の一番上の兄に逆らうことなどは許されず、兄が反抗期の時には壁に穴が空いたこともあったし――今でこそ、兄もすっかり別人のように丸くなってしまったが――当時は、近づける存在ではなかった。そして、そのうち、私自身、自分自身の意見や考えを持つことに意味をなさなくなり、周りに合わせるのが標準となったのだ。

 そういえば、高校時代に友人から言われたことがある。どこに行くにも、何を食べるにも、毎回「どこでもいい。何でもいい。」しか言わない私に、「ちゃんと自分の意見をもって!」と怒られたことがあった。当時は、どこに何の問題があるか分からず、寝耳に水だったのだが、今ならその意味も分かる。

 また、私の父親も、いわゆる亭主関白な「昭和の父親」で、加えて短気だったので、いわゆるちゃぶ台ひっくり返しのような場面を何回か見せつけられた。そして、私の志望高校は、真っ向から否定され、その理由を聞いても、ダメだからダメだというだけで、中3の私でも、そんな理論的でない回答に納得がいかなかった。

 今でも、もし、あの時の志望校に行けていたら、私の人生も変わっていたのでは――と思うこともあるが……結局、一応記念受験こそするものの、受かっても行くことができない学校の受験なんて身が入る訳がなく、事前の合格判定がA判定だったにも関わらず、補欠合格しかもらえなかったのは、自分自身で蹴りをつけたかったのかもしれない。

 そして、社会人になって、いよいよ自分の人生は自分で切り開きたいと思うようになっても、時すでに遅し。自主性のなかった人間が、急にそれを取り戻すのは簡単ではなく、社会人になってブラック企業に努めては、何も主張・反論できなく、会社・組織の言いなりで、結局は潰されてしまった……。

 転職して、少しは自分を取り戻せたものの、結局は自分が変わらなければ同じ。今回の休職でも、「えいやっ!」と衝動的に休むことになったが、結局こんな状態になるまで、自分を出せないのは、昔から変わっていないのだ。

 いつになったら……自分のペースで過ごせる人生がくるのか? と、思っていた矢先の今なのだ。

 

○挫折と謙虚さと、そして、現在と未来

 だいぶ話がそれてしまったが、こんな挫折の連続の人生だったからこそ、私は、私と同じく、人生につまずいている人の気持ちが分かるし、共感でき、いろんな物事に謙虚でいられる気がしている。それこそ、大人になって急に性格が変わった私の兄も、もしかしたら、そういう「何か」があったのかもしれない。

 ただ、こういう謙虚な人ほど、私の中学校時代や我社の本社の総務人事部門のような意識高い系の中に埋もれてしまうと、逆に、この謙虚さが仇となり、いわゆる「できない子」や「いらない子」というレッテルが貼られ、周りからもそういう目で見られ、差別されたり仕事を押し付けられたり、それが余計に自分自身の自信のなさにつながり、悪循環にはまってしまうことがある。

 要は、この謙虚さというのは、その自身の置かれた環境によって、いい面にも悪い面にも働く、ということなのだろうか。適材適所とはよくいうが、自分が適した場所に配置されるかは運の要素も強く、神頼みであって、要は、個人で対策が立てられるような性質のものでもなく……結局、どうしようもない。今回は、単に運がよかっただけなのか……まあ、そんなところだろうか。

 とにかく今は、過ごしやすい。そして、そんな私の元で働く、私の部下も過ごしやすそうだ。上長からも、
「リーダー(私のこと)が変わって、チーム全体の雰囲気がよくなった!」
とも言われた。

(もしかして仕事っていうのは、やはり楽しいものなのか?)
(単に旧勤務先が異常なだけだったのか?)

 繰り返しになるが、旧勤務先では「いらない子」だったこの私が、現勤務先では、少しでもお役に立てているようで、それなりに満足度も高い。

 ただ、私自身、今の上長から昇進をほのめかされているし、現勤務先にも、そんなに長くはいれないかもしれない。そして、いずれまた、激戦地へ放り込まれるのだろう……。それまでには、もう少し休んで体力や自信をつけておきたい。

 というか、もしかしたら、そんな体力と自信をつけるために、今の部署に配置されているのだろうか? いや、でも、正直なところ、もう定年まで今の場所、今の地位のままでいいので、今の仕事が継続できれば、それでいいかな……とも思っている。

 これは、甘えなのか? いや、これこそ適材適所だろう。

 しかし、それは、人事も許さないのではないか? 現状に満足しては、成長がないのか? いや、そもそも成長する必要があるのか? どうせ、頑張っても報われない時代。今まで死ぬほど頑張ってきたのだから、もうそろそろゆっくりしてもバチは当たらないとは思うんだが……。

 もはや、何が正しいのか分からない。とりあえず、明日も私は、会社へ向かう。

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