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休職してさらに四半期が経過して、これまでを振り返る

◇厚生労働省「こころの健康相談統一ダイヤル」0570-064-556(電話をかけた地域の公的な相談機関に接続)

 

 「さらに四半期」とは書いたが、前回の四半期の記事の投稿が大幅に遅れ、実は、あれから1ヶ月しか経っていない。今回は、遅れることがないよう、前回の投稿が終わるとすぐに下書きに取り掛かったのは、ここだけの話だ(笑)。まるで、某有名 RPG が、発売前後頃には、すでに次回作に取り組んでいたとか聞いたこともあるが……まあ、そんな感じだろうか。

 ということで、あれから1ヶ月しか経っていないので、前回のように、項目ごとに詳細を振り返ることはしない。

ほとんど何も変わっていないし。変わったのは、パソコン周りだけだろうか(いや、しかし、この辺は本当に快適になった。)。

 いずれにしても、休みが終わって半年が経過したのだ。正直、あっという間だ。まだ、やりたいことのほとんどに手を付けられていない。いや、健康になって、自宅が快適になって、それだけで充分なのかもしれないが、他にもまだ、やりたいことはたくさんある。あと半年で、これらをどこまで進められるのだろうか。この調子でいけば、転職活動ができるとは到底思えないし、資格取得もできる気がしない。まだ、自分自身の気分が乗ってきていない……これは、単なる甘えなのだろうか。

 振り返れば、私の世代は、いわゆる就職氷河期世代だ。就職活動の時も、古い先輩方から聞いていた話とは全然違う状況だったし、受けるたび、ことごとく落とされ続けた私は、大学院の試験を受けるべきか、公務員試験を受けるべきか、特にやりたいことも見つからないまま、月日ばかりが経過していき、そして、何の結果も出せないまま、全てが……終わった。

 就職浪人を決心した頃に届いたのは、一通のダイレクトメール。地元の小さなコンピューター関係会社からの、会社説明会の案内だったのだが、ゴールデンタイムにバンバン CM を流していた会社で、勢いは感じられていた。
(そういえば、コンピューター関係の会社は一社も受けていなかったし、一度全滅した身、ものは試しに……。)
と受けてみたら……初めて受かった会社から届いた合格通知は、私ではない全く別人の名前。喜ぶに喜べない。

 この辺から、やや不安を感じていたのだが、実際に入ってみたら、まあ、いわゆるブラックというか、大学のサークルのような雰囲気にうまく馴染めず、ちょうど1年で退職。その後、それから1年半で、なんとか今の会社にすべり込むことができたのだが、今思えば、その時の努力は我ながら並大抵のものではなかったと思う。親が貸してくれた、生活費30万円のありがたみは、今でも忘れることができない。今からそれと同じレベルの努力をしろと言われても、正直できそうに思えない。

 そう。今の会社は、何だかんだ言って、そんな苦労と努力の結果に、ようやく勝ち取った会社であることには間違いないのだ。その過去の努力を、たったひとりのパワハラ上長がクソすぎたというだけで、踏みにじっていいものだろうか? 今ここで、今の会社を辞めたら、過去の私が憤慨したりしないだろうか?

 そう思うと、まだ今の会社にしがみついておいた方がいいのか……とも思う。しがみついていれば、今後、いい上長と巡り会えるかもしれない。いい仲間と巡り会えるかもしれない。そういう気の合うメンバーと、独立してもいいかもしれない。

 ……本当は、こんなエッセイだけを書いて食っていければいいのだが(笑)。

 ということで、おそらく、このまま残り半年をズルズルと過ごし、何事もなかったかのように、今の会社に戻ることになるのだろう。休みに入る前に、会社の同期や後輩に、
「まあ、転職するか……自分で起業していると思うから。」
などと、啖呵を切って出てきたのが恥ずかしい……(笑)。まあ、所詮、私はその程度の人間だったというだけなのだが(いや、実を言うと、その時は、本当に何でもできそうな気持ちだったのだのも事実だ。)。

 会社に戻るとしても、その不安は大きい。さすがに、前と同じ部署(私以外は皆エリートコースまっしぐらの総務人事部門)に戻ることはないとは思うが……いずれまた、どこかでパワハラ上長に遭遇することもあるだろうし、その場合にどう対処すべきかについては、未だ解が分からない。その時、同じことを繰り返してしまわないだろうか……。

 パワハラをする奴らはどこにでもいる。これは、転職しても同じことだ。今回は、パワハラに対する駆け込み先が我が部署というのもあって、もみ消される以前に「パワハラをしている張本人が相談相手」という、もう、組織の作りからおかしいと思って仕方がなかったのだが、今後も同様の事案が発生した際に駆け込んだとしても、私が満足できる結果が得られないかもしれない。

 結局、「働かせてください」ということで、私の自らの意志によって、この会社で働かせていただいている、という「かたち」なのである。「かたち」というか、実際そうなのである。それに、労働基準法により労働者は守られているというが、それでもやはり、このような「かたち」の関係上、なんだかんだいって雇い主の方が立場が強いのには間違いない。言葉は悪いが、要は、
「嫌なら辞めたら?」
ということにしかならないのだ。これは、皮肉にも、私自身が総務人事部門にいたからこそ、特に体感できる部分もある……。

 また、産業医だって、とっても形式的で、とても私の立場に立って親身に話を聞いてくれる感じでもなかった。基本的には、毎回決まって、形式的に、
「食事は食べられてますか? 睡眠は取れていますか?」
と、こちらの顔も見ずに、手元の資料を見ながら定まった質問を繰り返すのみであり、こちらからいろいろ話しても、
「……病院(精神科?)に行ってみては?」
の一点張り。私も、物を言う性格だから、
「そんな対処療法ではなく、このような環境にならないように、産業医として会社への働きかけとかやらないのですか?」
などと問うが、ポカーンとした表情のあとに、逆ギレされたのも記憶に新しい。この程度の産業医なら、AI に置き換えてもいい……というか、私でさえもできそうだ(笑)。

 組織の中に埋もれる以上、この辺の問題は今後もずっとつきまとう。なので、この辺の問題を解決するためには、結局は起業するしかないのだろう。

 先日、久々、某巨大掲示板の我社関係を閲覧したが、そこには、社員が書き込んだと思われる会社の情報が……あった。やはり「どんより」としているし、それに目を通すと、今のうちに真面目に転職活動に取り組むべきか……と、改めて思う。いずれにしても、いい刺激を与えてくれたので、今後も定期的に見続け、会社に戻るとしても、今のうちから徐々に免疫をつけていきたい。

 

 さて……もし、もう1年間休みが取れるのであれば、また、何か変わるのだろうか、とも思う。まあ、それ以前に、もう1年無給となると、金銭的に厳しいのだが……。

 自分の終わり――自分の寿命が、いつまでかが事前に分かっていれば、この辺、いろいろと計画も立てやすいのだろうが……それは、誰にも分からない。まあ、最悪、それを自分で決めることで、分かるといえば分かるのだろうが、そうなると、なんかもう本末転倒だ……。

 それ以前に、私が、自分の寿命が来るまでにやりたいことというようなものは、一体何なのだろうか。寿命が来れば、何もかもが終わりである。水の泡だ。一生懸命積み木を積み上げたとしても、その作品の評価を、私は見聞きすることもできなければ、自分自身で振り返ることもできない。

 だったら、仮に自分がやりたいことがあったとして、それをやり遂げたとしても、その寿命に直面したとき、そのやり遂げたことということは、その時の私にとって、何か意味があることなのだろうか? それに、人間、どうせいつか寿命が来る。みんな必ず寿命が来る。それが、ちょっとくらい早かったって遅かったって、そんなに変わらないのではなかろうか。

 そもそも、人は何のために生きるのだろう。どうして生きているのだろう。種の保存? だとしたら、人間はいつまで種の保存を続けるのだろう。どうして、続けなければならないのだろう。神様のため? 地球のため……? にはなっていないだろう(笑)。じゃあ、どこか他の惑星のため? いずれにしても、どうせ50億年も経てば、太陽系も消滅する。その時、地球が……本当に、何もかも全てが終わってしまうんだから、別に、今すぐ終わってしまっても、そんなに変わらないんじゃないだろうか……? それとも、この50億年の間に、太陽系から抜け出して生きていく方法を考えていくことが使命なのか……? だとしても、そこまでして、人間という種を保存する意味は? その先にあるものは?

 

 ……相変わらずな思考習慣は、休みに入って半年経っても、何も変わっていないようだ(笑)。あと半年間休んだら、こういうことも考えなくてすむようになるのだろうか……。昔は、こんなこと考えたこともなかったのだがな……。単に、時間があるからこそ、いろいろと考えてしまうだけなのだろうか。

 ただ、これは仕事のせいにするわけではないが、結局、仕事において、極端に、その過程よりも結果ばかりを求められてきた私は、結果主義が体に染み込んでしまったのも事実だ。上長に、いかに理論的にできないことを説明しても、
「そういう理由はいいから。で、できるのか? できないのか? どっち(笑)?」
と言われるだけ。要は、何事も結果だ。過程ではない。結果が大事だ。

 ちなみに、この時、物を言う性格の私は、上長の対応がどうしても我慢ならなかったので、次のように答えてしまっている。
「逆です。上長が指示してください。(この悲惨な状況にも関わらず)ヤレと言われれば、やります。その代わり、他のことは犠牲になるでしょう。優先順位、取捨選択は、上長で決めてください。」
それに対し、上長は言う。
「ふーん。俺が決めろってことか……。」
上長の凄んだ目つき。ここで、上長がキレれば、私の勝ちくらい思っていたのだが……。上長は続ける。
「じゃあ……全部やって。」
で、何も解決されず、要は、私は、上長との戦いに破れたのだ……。

 話が随分とそれたが、人生の結果とは何だろう……という話だ。結果ばかり求めることが体に染み込まされた今、人生の目的とはなんだろう……と思うわけなのである。

 それを探すことが人生の目的だ、という話も聞いたことがある。なるほど。非常に上手で、興味深い回答だ。ただ、まだ、私はそれを見つけられていない。だから、ただただ、ダラダラと生きているし、今後もそうやって生きていくしかないのだろう……。

 まあ、結局、未だに、青春のモラトリアムから抜け出せていないというか、ピーターパン症候群というか、今風に言えば、中二病なのだろう……か。

 

 思えば、私が小学生の頃は、本当に毎日が楽しかった。生きることなどについて、何も考えていなかったし、(私だけでなく周りも貧しかったけど)何不自由ない生活だったし、そこには、楽しい小学校生活、愉快な友達付き合い、近所や地域、大人社会からの守られ感があった。泥団子に満足し、牛乳瓶のフタを集めてはニヤニヤできていたのである(笑)。

 ファミコンも面白かったが、そのファミコンの時代背景というか、取り巻く環境というか、ファミコン雑誌や攻略本などに顔出しをする大人の開発者たち、ドラクエの音楽を真面目に演奏する交響楽団など、こんな子どものおもちゃに対して、大人が一生懸命になって、深く関わっていることに対して妙な興奮を覚えたし、ゴールデンタイムに流れるファミコンウォーズの宣伝やドラクエ3発売による行列のような社会現象など、自分の世代のおもちゃが、大人世代を動かすだけでなく、社会や世の中を動かしていることが、自分たち世代も世の中の一員だというのを感じることができ、嬉しくて仕方がなかった。ファミコン雑誌のあの独特なノリも好きだったが、日本がバブル期でもあったし、そういう雰囲気も手伝っていたのかもしれない。

 大学時代も楽しいことには楽しかったが……取り立ててあまりいい思い出もなく、時間や周りに流されて終わった感じだ。この時期から、日本の景気が悪くなってきたり、就職や将来に対する不安などもあったりしたのかもしれないが、振り返れば、私の場合、特に時間やお金の使い方が上手ではなく、充分に青春を謳歌できた気がしない。そして、自分自身があまりにも幼く、周りの友人やら後輩の方が自分よりも年上に感じたりもしていた。分かりやすく言えば、高校生が、大学内に潜り込んでいるような感じとでもいえようか。卒業のその日まで、よそ様と言うか、大学生活を自分の「もの」にできていなかった。

 まあ、いずれにしても、実は、その渦中にいるときは、楽しかったとは感じていない。当たり前である。というのは、良かったとか、悪かったとか、そういった感想は、あとからついてくるもので、その渦中から抜け出して「今」と比較することで初めて、その時代がよかったことに気づく。

 高校時代に、友人がポツリと言った。
「テレビでも、よく『女子高生』とか、特別扱いしているけど、オレらそんな『女子高生』と、毎日半径1メートル以内で過ごしてるわけよね……こんなもんなんかね?」
 当時、私も同様の感想だったし、そんな青春のありがたみも分からず、毎日勉強や部活動に追われ、惰性で過ごしていた。しかし、今になって思う。あの時、もう少し、クラスの女子……だけでなく、いろんな人たちともっとバカ騒ぎができていたら、今頃、また違った人生を歩めていたのではないだろうか。

 それに、今まさに、私自身、毎日が日曜日のような生活をしているが、これに慣れてしまった今、そのありがたみも薄れてきてしまっている。今から歳取って、老後になったとき……というか、そんな未来でなくても、来年春に会社に戻って数日経ってすぐに、
(あの頃はよかった……あの頃に戻りたい!)
と、今の生活をうらやむのではないか。だとしたら、今のうちに、もっともっと「今」を楽しんでおきたい!

 いずれにしても、物事を宇宙規模で考えたら、私の悩みどころか、私の存在自体がちっぽけ過ぎるのだ。私の人生がどのように転んでも、宇宙には、ほぼほぼ何の影響も与えないだろう。その辺の石ころどころか、砂かホコリ程度だろうか……。だとしたら、楽しまないと損である。生きているだけで丸儲けの考えだ!

 そういえば、ファミコンの「たけしの挑戦状」において、そのクリエイターである(当時の)ビートたけしが主張したかったことは何か。プレイヤーに伝えたかったことは何だろうか。それは、そのエンディングで、たけしが吹き出しで言うセリフに込められている……と思う。
「こんなげーむに まじになっちゃって どうするの」

 「たけしの挑戦状」というゲームは、かなり難解なゲームだ。攻略本があってもクリアできない人も多く、攻略本の発行元にクレームが殺到したのも有名な話である。よって、このメッセージを見るためには、かなり必死になって取り組まないといけない。そこにはもう、娯楽を楽しむといったような、ゲームの主たる目的を忘れ、クリアそのものが目的とならざるを得ない。そうしないと、拝めないメッセージなのだ。だからこそ、このメッセージ性が生きてくるのだが……。

 ひるがえって、このことは人生にも当てはまらないだろうか。何のために生きているのだろうとか、人生の結果である寿命ばかりを考えることがその主たる目的ではなく、その人生そのものを楽しむことがその目的ではないのだろうか、ということである。

 併せて、このたけしからのメッセージは、次のようにも解釈できないだろうか。上にも書いたとおり、当時はファミコンが社会現象となっていた頃なのだが、当時のたけしも実際にファミコンに触れてみて、
(こんなもの大したものではない。世の中には、こんなものよりも楽しいことはたくさんある!)
と思い、特に子ども達に対しては、こんなゲームだけでなく、若く今のうちにしかできないようなこと、ほかの遊びとか、ほかのことにも目を向けたら? というようなことだったのかもしれない。これは、高橋名人の、あの有名な発言である「ゲームは1日1時間」と同様の趣旨を含んでいるのではないだろうか。

 いずれにしても、いろんなことに視野を広げ、自分が楽しいと思えることを探し続け、人生楽しめ! ということなのだろう。私は、すでにアラフォーであり、人生も折り返し地点なのだが、これからも日々、楽しめることを探し続け、いつ寿命がきても悔いのないよう、精一杯、毎日を楽しんで過ごしていきたい。

 なんとも、とりとめのない文章となってしまったが、とりあえず、休みはあと半年間だ……。

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