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2021/6/11 「バラバラ」

バラバラにしたい。一個一個丁寧に、バラバラにしたいのだ。一語一句間違えないように音読するし、その後でもう一度、指先で文章を追いかけてノートに映していく。

二段階目の行いはまとめているわけではなく、感じようとしているのだと最近になって気が付いた。音読段階では声を通して文章を感じ、ここでは書く営みを通して、全体の世界観と、一語一句それぞれの持つ温度を感じようとしているわけだ。

正直とても愉しい。共感が得られるとは思わないが、それでも声を大にして伝えたくなった。とても愉しいのだ。音読の滑らかさは日によって変わり、文章と自分の息とが合わない時は本を投げ出したくなることもあるが。それでも息がぴたりと合った時の快感には敵わない。すんばらしいくらいにぴたりと合うのだから、私自身も驚いてしまう。歯車が段々と合わさっていき、やがて合体、そして加速し、最後には美しい滑らかな速さを保ち回転する。

この合体がいつ起こるのか、なぜ起こるのか。なぜ日によって違うのか。現象の起る条件の正体がわからないから、その時を待つしかない。私はそこにも惹かれている。条件を揃えるという事前準備みたいなことができず、その日の互いのコンディションに任せるしかないところ、そこがいい。変態なことを言っているだろうか。

でも、わかってもらえる人にはわかってもらえるはずだ。なぜならこの感覚は、音読を始める以前から味わったことのあるものだったから。スポーツ、音楽、美術、そういうときに「のっている」と感じたことはあるだろうか。まさにあれだ。説明のしようがないあの感覚。あの感覚はすごく愉しい。

すごく愉しいことには代償が付き物なのか困っていることがある。バラバラにしたものを、バラバラにしたまま、力尽きてしまうのだ。

例えば今で言えば、三島由紀夫の金閣寺。これを音読した後で、ノートにまた映していくのだからかなりの時間と体力を費やすことになる。映すのはすべてではないものの、それをしながら、その一語一句の温度を同時に感じ取っていかなくてはならないのだから、これは物凄く大変だ。小さい子たち、一人一人の面倒を見ている時のようなもの。中学生の頃に行った職場体験を思い出す。初日の一日で、幼稚園の先生になることを諦めた。

これだからノートの上はバラバラに散らばったまま、放置されっぱになっているのだ。私にだってバラバラにしてしまった者たちをもう一度、綺麗に組み直してあげたいという情はある。本当はそうしてあげたいし、バラバラになったままだと彼らも私も、さらにはそれを読んでくれる人たちも困ってしまう。十分にわかっているし、どうにかしたいと強く強く思っている。

しかし、私はかなりの完璧主義者みたいで、バラバラにする行いを途中で手放すことはできない。音読も、言うまでもない。だからといってこのままでは、伝わってほしいこともなんだかよくわからない状態で、私の身体の中に居座り続けてしまうし、それどころか体力がいつまで続いてくれるのか、という問題に頭を悩まされている。そこにも体力が必要であるし。

無駄にも見えるこの葛藤に苦しみ始めた。久しぶりに涙が出た。伝わってほしいことがそうならず、自身の中に残り続けるというのはすごくしんどい。大事にしたいものだけど、大事にしたい奴だから余計に体重を懸けてくるし、こういうのは重なっていくから押し潰されそうになる。

どうしたらいいものか。


またね👋



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