吉田六

黒い投稿は怖いのです。

吉田六

黒い投稿は怖いのです。

最近の記事

初恋

 わたしの初恋は間違いだったのでしょうか。  人魚姫が声を失い、泡となって、王子様の幸せを願ったように、わたしの約束もただしくこの海に届いていたのでしょうか。送り出した小舟の軌跡を泡のなかから眺めていると、そんな祈りにも似た感情が浮かんでくるのでした。  父とわたしがあの港町に越してきたのは、梅雨がはじまるすこし前のことでした。母を亡くしたわたしを気遣ってこの町に越してきたと父は言っていましたが、それがうそであることは、あの頃のわたしはすでに気がついていました。  母は美し

    • エレベーターは五階で

       かわった物件を見つけた。都内5階建ての新築マンションで、最寄り駅まで徒歩5分という好条件にもかかわらず、家賃が同地区の格安アパートとそこまで差がなかった。それだけでも十分に珍しいは珍しいのだが、この物件の奇妙な点は別にあった。上層階と下層階の家賃が相場と逆転していた。  いわゆるタワマンというものをはじめ、物件というものは階数が上がればそれだけ賃料も上がるのが一般的だ。そのはずがそのマンションは、1階から階を追うごとに家賃が1万円ずつ下がっていた。最上階の部屋なんて郊外でア

      • 光とよんだものたち

        絵を描くことにした 花瓶にうつる陽の光がやわらかいから 歌をうたうことにした 公園であそぶ子どもの声が軽やかだったから 物語を紡ぐことにした 海をみて涙をながすことができたから そうして切りとった世界の一瞬は、 すぐにその色を失ってしまって ああ、わたしが触れなければ、 わたしが見つけなければ、 もうすこしは輝いていたのかもしれないのに ふと気がつくと、 手垢にまみれたうつくしかったものに囲まれて、 どうにも息ができなくなっていた 可能性という ひどく甘ったれた、おそろし

        • あの子

          初めて食べた蚯蚓はひどい土の匂いがした。 ぬるりとした粘着質な湿り気と、つるつるとした舌触りが、口の中のそれが異物であることを再認識させた。私が我慢できずにそれを吐き出すと周囲の子どもたちは罵声や嘲笑を浴びせてきた。そのなかで「あの子」だけはただただ無感情に私を見つめていた。いや、見つめているような気がした。 他の子の顔ははっきり見えるし、ひとりひとりの名前もしっかりわかった。ただ「あの子」だけはその顔に黒いもやがかかったようになっていて、その名前も知っているはずなのにな

          卵を焼いても、ひとり。

           卵焼きが好きだった。なんの飾り気もない、少し焼きすぎたあの卵焼きが好きだった。母が褒めてくれたから、初めて父の役に立てた気がしたから。  小三の夏休みのことだったと思う。たまたま早起きをした私がリビングへ向かうと、母が朝食の準備をしているのが目に入った。ちょうど卵焼きをつくろうとしているところだった。その所作を眺めていると、なぜかはわからないが、急にやってみたくなった。  母ははじめこそ驚いていたが、快く受け入れてくれた。手伝いなど一切やってこなかった私が家事に興味をもった

          卵を焼いても、ひとり。

          小春に逢う。

           何年も咲いていなかった庭の椿が久しぶりに色づきを見せたのは、あなたがいなくなった年の冬でした。  あなたとの最初のお出かけも冬の初め頃でしたね。あなたが「上野駅に朝9時」としか教えてくれないものだから、どこで待てばいいかもわからず、いい大人が迷子になってしまいましたよ。それなのにあなたは人混みのなかから私を見つけてくれましたね。  合流してからもあなたはどこへ向かうのか教えてくれず、しつこく行き先を尋ねる私に「いいから、ついてきてください」なんて格好つけていましたね。でもね

          小春に逢う。

          ゴールデンエイジ(笑)

          「フォローとリツイートで全員に100万円配布します!」なんて投稿に必死にアピールしているかつての同級生を嘲っては安心している。自分はこいつよりはましなんだと。まだ、現実を見据えた行動ができているだけ、価値があるのだと。  憧れの強い人生を過ごしてきた。足の速かったクラスメイト、顔立ちの整った先輩、自分にないものを持っている人に強く惹かれてきた。そのたびに、その羨望と自分という現実との間に深い隔たりがあることを認知しては苦しんできた。  学生の時分は、少しでも、外側だけでも、

          ゴールデンエイジ(笑)

          九号室

           Kさんが大学生の時のことだ。当時一年生だったKさんは吉祥寺のカラオケ店で夜勤のアルバイトをしていた。  そのカラオケ店は二階建てになっており、各フロアで右手前を一号室としてぐるりとコの字を描き、左手前に九号室がくるという造りになっていた。営業は早朝の五時まででそこから一〇時までの五時間は閉店時間となっていた。必然的にKさんの一日の業務は全部屋の掃除で締めくくられることになる。  Kさんがある程度業務に慣れてきた頃のことだ。その日は普段はシフトが被らない先輩との営業だった。ふ

          九号室

          竜胆をゆく。

           正しいことをしなさいというのが散歩中の父の口癖でした。警官だった父は私にも正義を求めました。犯罪はもちろん、若気の至りと呼称されるような、青さを孕んだ失敗すら許されませんでした。私自身、そういった環境を疑いはしませんでした。幼少からそうでしたし、父の言う世界こそが正義だったから。父との散歩道は竜胆の咲く道でした。  結婚相手は見合いで見つけました。私たちの世代では珍しいことではなかったし、素性もわからない女性と0から恋愛をするより効率がいいように感じていました。実際、妻は素

          竜胆をゆく。

          セーラー服と希死念慮

           死ぬ機会を探している。なんでかなんて自分でもわからない。どちらかといえば恵まれた生活を送ってきたような気さえする。両親はぼくのことを愛してくれたし、友人も、恋人だっていた。もしぼくの人生に、映画の世界みたいにドラマチックな絶望があれば、ぼくは死にたい自分を肯定できたのかもしれない。でもそれは叶わなかった。絶望すらも、ぼくは持ち得ていなかった。ただ死にたい心だけを抱えていた。  最初は電車に飛び込もうとした。大勢の人の前で死ぬことは、ある種ドラマチックな気がした。電車がホー

          セーラー服と希死念慮

          サラソフォビア

           海洋恐怖症の魚に会ってみたい。自分を取り囲む世界のすべてが恐怖の対象なのはどんな気持ちなのだろう。もしそんな魚がいたとして、私と会話ができたのなら、この気持ちを吐露することができたのだろうか。  最初に違和感を覚えたのは、授業中だった。教室の中のざわざわとした音が妙に大きく、不快に感じた。そのざわつきは耳をふさいでも目をつむっても収まることはなかった。隣の席のユカちゃんが心配してくれたけど、その声が大きすぎて耳が壊れるかと思った。  その不快感は、すぐに頭痛にかわって、そ

          サラソフォビア

          母、祈り。

           この子の見る夢はどんな色をしているのだろう。この世界に舞い降りたばかりの我が子の寝顔を眺めながらふと考える。夢には普段の生活で脳に蓄積された情報を整理する役割があると聞いたことがある。そうなると目に映るものすべてが新鮮さに満ちたこの子の夢はどれほどの彩りをしめすのだろう。  私に父親はいない。生まれてからずっと、いや、生まれる前から私の世界にはママしかいなかった。ママは娘の私からみてもずいぶんと抜けたところのある人で、若いときはかなり派手な遊び方をしていたらしかった。ママ

          母、祈り。

          醜形恐怖症

           写真が嫌いだ。自分の笑い方が嫌いだ。会う人すべてが自分の顔を馬鹿にしているようで、いつからか人前でマスクが外せなくなった。一年中マスクを着けているので、周囲からは変な目を向けられることもあったけど、この顔を見られるよりはましだった。  化粧を試みたことはあった。ネットでいろいろ調べることができたし、簡単なものなら自分の手持ちでも買うことができた。最初は苦戦したけど、はじめてビューラーを使ったときは、まるで魔法みたいだった。  でも、そんな魔法は長くは続かなかった。パパにば

          醜形恐怖症

          卵、自尊心。

           卵焼きが好きだった。母が喜んでくれたから、初めて父の役に立てた気がしたから。夏休みのことだったと思う。たまたま早起きをした私がリビングへ向かうと、母が朝食の準備をしているのが目に入った。ちょうど卵焼きをつくっているところだった。その所作を眺めていると、なぜかはわからないが、急にやってみたくなった。  母ははじめこそ驚いていたが、快く受け入れてくれた。手伝いなど一切やってこなかった私が家事に興味をもったのがうれしかったのだろう。私の面倒を見ることで、家事の進みは滞っただろうに

          卵、自尊心。

          指輪、独白。

           いつまでたっても君の薬指は空白のままで、いつまでたっても僕はそのことに気が付かないふりをして。いつかの帰り道、どこかの家から漂うカレーの匂いに涙した君の姿を美しいと感じてしまったから。こんなに壊れてしまった僕だから。  デートはいつもチェーンの居酒屋で、隣席の学生のはしゃぐ声で君との会話もおぼつかない。水みたいに薄められたお酒を飲みながら「おいしい」と笑う君の顔は泣いているみたいだった。会計の時、君はいつも前もって多めに僕に渡してくれて、この矮小なプライドを傷つけまいとし

          指輪、独白。

          電気こうたろう、生きること。

           これまで生きてきて、失ったものとまだこの手に残っているものを比べてみる。考えてみると、随分と多くの喪失を経験してきたことに気が付き、心がどことなく重くなる。どこかに忘れてきた玩具、春になれば会えると信じていた親友。もしも私がフィクションのなかの主人公のように強い人間だったなら、これらの喪失を糧に自身の世界を大きく変容させることができたのだろう。しかし実際は、大声で泣きわめき、誰かが優しく手を差し伸べてくれるのを待っている。時間にすべてを任せ、平熱の日々が悲しみを希釈してくれ

          電気こうたろう、生きること。