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九号室

 Kさんが大学生の時のことだ。当時一年生だったKさんは吉祥寺のカラオケ店で夜勤のアルバイトをしていた。
 そのカラオケ店は二階建てになっており、各フロアで右手前を一号室としてぐるりとコの字を描き、左手前に九号室がくるという造りになっていた。営業は早朝の五時まででそこから一〇時までの五時間は閉店時間となっていた。必然的にKさんの一日の業務は全部屋の掃除で締めくくられることになる。
 Kさんがある程度業務に慣れてきた頃のことだ。その日は普段はシフトが被らない先輩との営業だった。ふたりで他愛もない会話をしながら業務をこなすうちに閉店時間となり、Kさんが締め作業に取り掛かろうとしたときのことだった。先輩がふいにぼやきだした。
「ここの締め作業嫌いなんだよなぁ。ここ、でるだろ?」
突然わけのわからないことを言い出した先輩にKさんはいぶかしげな視線を向ける。その視線に何かを察したのか、先輩は話をつづけた。
「聞いたことないの?ここのカラオケ、でるんだよ。しかも二部屋。」
そう言って、俗に言うお化けのポーズをとってみせた。Kさんはなにをバカなことをと笑い飛ばそうとしたが、ふと思いとどまった。
「二階の九号室ですか?」
Kさんが聞き返すと、先輩はにやりと笑った。

 カラオケの部屋の清掃作業というのは大まかなマニュアルが決められている。Kさんの店舗で言えば、最初にエアコンの電源、次にモニターの電源を消し、机、床の順番で拭き掃除、最後に椅子を壁際に寄せて終わりという流れだった。無論、Kさんもこのマニュアルに則ってすべての部屋の清掃を行っていた。
ただ、どうも一部屋だけ様子がおかしい。それが二階の九号室だった。前述の流れで清掃を終えたにも拘わらず、いざ部屋を出ようとすると、最初に消したはずのエアコンがついているのだ。一度や二度なら勘違いで済むだろうが、どうもそうではない。さして気にするほどのことではないかもしれないが、何となく奇妙に感じていた。
「ああ、やっぱりわかる?ひとつ言っとくけど、あの部屋で絶対にモニターはみるなよ?」
何かを含んだような笑みを残したまま、そう言い残して先輩は一階の清掃業務を始めてしまった。
 この流れで二階の清掃をさせるのかよ、と思いながらKさんは二階へと向かった。だいたいモニターを見るなというのもおかしな話だ。カラオケ店でモニターを見たらいけないなら客も全員その禁忌を犯すことになるじゃないか。半分自分に言い聞かせながら清掃を始める。
 一号室、二号室と業務を終わらせ、三号室の業務に取り掛かった時のことだ。電源を落とし暗くなったモニターに自分の姿が反射していることに気づいた。その瞬間、自分の血の気が引くのを感じた。モニターを見るなとは映像のことではなく、モニターそのもののことだったのか?
 そう思いいたってからというもの、Kさんはすべての部屋で顔を上げないように業務をこなすようになった。九号室のエアコンにいたっては、電源のオンオフにおびえたくないため、最後に消すようにした。少しでも不気味な何かを遠ざけようと必死だった。

 そうこうしているうちに気づけば二年の月日が経っていた。Kさんにもようやくバイトの後輩ができた。後輩といってもKさんより年上で、長年フリーターをやっている人だった。
「いやあ、ここみたいに夜勤多めに入れるとこ探していたんですよぉ」
年下のKさんにも先輩として敬語で接してくれる人当たりのよさそうな人だった。フリーター歴が長いだけあって業務内容の覚えも早く、研修という研修も必要なかった。
 やりやすい人が入ってきてくれたなぁ、とKさんも上機嫌だったそうだ。そんな後輩の入店初日は忙しく、Kさんと後輩は時折雑談を交わす程度で閉店時間を迎えた。
 Kさんが一階の角部屋を使って簡単に清掃の流れを説明すると、
「前働いていたカラオケとやり方同じです!」
と、後輩は早々に業務内容を理解してくれた。さすがだなぁ、と感心したKさんは、
「じゃあ、僕はこのまま一階締めちゃうんで、二階お願いしてもいいですか?」
と言ってその後輩を二階に送り出した。その時、例の部屋のことは頭にあったが、自分が怖い体験をしたわけでもないのに、無駄に怖がらせる必要もないか、とモニターの件は黙っておいた。

 やがて一階の清掃を終えたKさんはロッカールームで後輩が戻ってくるのを待つことにした。しかし、てきとうに時間をつぶしながら待っていても一向に後輩は戻ってこない。おかしいなぁ、そんなにかかるか?Kさんはさすがに不審に思い二階を覗きに行った。
「え、」
思わず声が漏れた。フロアには誰もいなかった。呼びかけてみても応答がない。まさか。嫌な予感がしてロッカールームに戻り、後輩の使っていたロッカーを確認する。ああ、予感が的中した。ロッカーは空っぽだった。バックレか。
 こういう人って本当にいるんだなぁ。どうするんだよぉ。なんて一人でぼやくが、どうしようもないので店長に連絡することにした。
「あ、もしもし、あのぉ、新人の人なんですけど、バックレたみたいです…はい…はい、いやもう荷物とかもなくて」
「まじかぁ、俺から連絡してみるから、今日のところはKくん締め作業任せてもいいかな。ごめんね、ほんと。」
電話の向こうで申し訳なさそうな店長が気の毒で、Kさんはそれ以上電話口でぼやくのをやめた。
最悪だ、理不尽だとぶつぶつ言いながら二階へ向かう。もう気にしても仕方がない、さっさと終わらせて帰ろう。憂鬱な気分で二階の清掃を始めたKさんだったが何かがおかしい。いくつか清掃が終わっている部屋がある。三号室まで確認したとき、先ほどとは別の悪寒がKさんを襲う。四号室、終わっている。五号室、終わっている…八号室までの部屋がすべて完璧に清掃されていた。そして九号室に入った瞬間、Kさんは立ちすくんでしまった。
 九号室はエアコンとモニターの電源が消された段階で放置されていた。一から八号室までがすべて清掃済みであった事実と目の前の異様な室内を結びつけるのに時間はかからなかった。すぐに一回に駆け下り、身支度を済ませ、店を閉め、逃げるように帰路についた。

 現在Kさんはそのカラオケ店でのアルバイトをやめてしまっている。件の後輩ともその後連絡がつかないため、彼があの日九号室で何を目にしたのかわからずじまいだという。
「気持ちの悪い話ですね」
と私が言うと、Kさんは複雑そうな顔をしながらぽつりとこぼした。
「そのこともね、気持ち悪いんですけどね。もっと気持ち悪いのが、危ない部屋は二つあるって言ったじゃないですか。その部屋がどこか教えてくれる前に先輩がバイト辞めちゃったんですよ。」
 どこかはわからないその部屋でのトリガーとなる行為は何だったのか、自分はその行為をせずにすんだのか、ずっと抱えているのだという。

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