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あの子

初めて食べた蚯蚓はひどい土の匂いがした。

ぬるりとした粘着質な湿り気と、つるつるとした舌触りが、口の中のそれが異物であることを再認識させた。私が我慢できずにそれを吐き出すと周囲の子どもたちは罵声や嘲笑を浴びせてきた。そのなかで「あの子」だけはただただ無感情に私を見つめていた。いや、見つめているような気がした。

他の子の顔ははっきり見えるし、ひとりひとりの名前もしっかりわかった。ただ「あの子」だけはその顔に黒いもやがかかったようになっていて、その名前も知っているはずなのになぜか思い出せなかった。

私がげえげえと嗚咽していると、その顔を覗き込むようにして「あの子」の声が聞こえた。
「ねぇ、今日のはどのくらい怖かった?」


スマホのアラームで目が覚めたのはその時だった。頭の中が少しずつ整理され、今までの光景が夢であると理解してもしばらくは動悸がおさまらなかった。この夢を見るのはこれが初めてではなかった。これまでの人生、ずっとこの夢に、いやこの過去に苛まれながら生きてきた。

小学五年生の夏休み明け、私に対するいじめは突然始まった。はじめは無視されるくらいだったそれも、いじめに加担する子の数が増えていくにつれ残虐性を増していった。誰がどれだけ私を苦しめられるかが一種の競技性を持ちはじめていったのだ。

給食の上で雑巾を絞られるといった精神的なものから、太腿にホッチキスを突き刺されるといった肉体的なものまで、私が苦しい顔をすればするほど彼らの醜悪な結束は固まっていくようだった。そして不思議なことに私がいじめを受けている場にはいつも必ず「あの子」がいたことは覚えているのに、その顔や名前だけは夢が覚めた今でもどうしても思い出せないでいた。

今日の夢のそのひとつだった。

あの日、課外学習で近隣の山へ出向いていた彼らはいつも以上にはしゃいでいた。私はというと、彼らの興味が自分へ向かないようにひたすらに存在感を消すことに徹していた。はじめはそれでうまくいっていた。

彼らのうちの一人が、
「ミミズだ!ミミズがいる!!」
「うええ!気持ち悪い!」
と騒ぎ始めたとき、さっと血の気が引いたのを今でも覚えている。来る。逃げなきゃ。そう思いはするものの、慌てて逃げ出して周囲の視線を集めることは私にはできなかった。

そうして私が動けずにいると、案の定彼らはニヤニヤとした表情を浮かべながら私の方に向かってきた。その先頭には「あの子」がいて、その手にはうねうねと蠢くミミズが握られていた。私がいよいよ逃げ出そうとしたとき、別の集団の子どもたちが嘲笑うようにその行く手を阻んだ。
「だめだよ、だめだって」
興奮しすぎているのか歪な言葉を吐きながら、逃げようとする私を押さえつけようとしてくる。そうこうしているうちに「あの子」は私の髪の毛を掴み、その手に握ったものを私の口に押し込もうとしてきた。

口をしっかりと閉じて抵抗する私にお構いなく押し付けてくるものだから、その手と私の顔に擦り潰されたミミズからぬめりのある液体が溢れ出してきた。その液体が固く閉ざした端から口内に染み入ってきて、その気味の悪さに私は思わず声を上げてしまった。

その隙を彼女は逃さず、もはやぬめぬめとした塊となったそれを私の口に突っ込んできた。あまりの衝撃に暴れようとする私を押さえつけながら周囲の同級生たちは歓声を上げていた。
「食べた食べた食べたぞ!」
「こいつまじか!気持ちわる!気持ちわる!」
私の口に完全にそれが入ったことを認めると彼らはようやく私を解放した。口の中の異物感や、与えられた辱めに耐えきれず私は嘔吐と共にそれを吐き出した。その瞬間、彼らはまた大笑いしながら、
「おい吐くなよ!もったいないだろ!」
「拾ってもう一回くえ!」
そう言ってより一層はしゃいでいた。そんな彼らを尻目に「あの子」は私の横にしゃがみ込み、あの質問を投げかけてきた。

「ねぇ、今日のはどのくらい怖かった?」

その問いに私が答えずにいると、「あの子」は小さくため息をつき、
「こういうことじゃないのかなぁ」
と訳のわからないことを呟いて離れていった。

不思議なことに、その日以降私へのいじめは完全になくなった。なくなったというより、もとよりそんなものなかったかのような空気感さえ流れていた。私を押さえつけて、下卑た笑い声を上げていた子たちが、本当に同じ人間かと疑いたくなるような穏やかな笑顔を浮かべながら私に接するようになった。

それ以上に気味が悪いのは、私自身がその状況をなんの抵抗もなく受け入れたことだった。明らかに異質な同級生たちの変貌に、ただただほっと胸を撫で下ろすだけだった。そもそもあの期間、どうして私は転校はおろか学校を休むという行為すらしなかったのだろう。


それ以降の私の人生は絵に描いたような順風満帆さだった。望んだ進路に進み、就きたい仕事をすることができた。職場では運命とも呼べるような素敵な人に出会い、今私はその人との子どもを孕っている。あの地獄のような時間は私の人生の不幸の総量をひとつに凝縮していたのではないかとすら思えた。そう考えると、ごくたまに見る今日のような悪夢も我慢できるような気がした。

それにしても、この時期にあんな夢を見るなんて。もうすぐ生まれてくるこの子のこれからへの不安からだろうか。自分では幸せに包まれているつもりでも、やっぱり拭えない怯えでもあるのか、それともこれがマタニティブルーというやつなのだろうか。そんなことを考えながら支度を済ませ、定期検診へ行くため家をでた。

多少の運動は必要とわかっていても、この頃駅までの道を歩くだけでもそれなりに体力を消耗するようになった。ただそれもお腹の子が元気に育っている証拠だと考えると、愛おしくてたまらなかった。駅前のロータリーのベンチで少し休憩しようと腰を下ろそうとしたときだった。誰かの叫び声が聞こえると同時に、後ろから激しい衝撃に襲われた。


目の前に広がるそれが自分の血液だと気づいた瞬間、これまでにない絶望が私を襲った。
「だ、だれかっ、人、だれかっ」
助けを求めようとしても体の痛みと最悪の考えが邪魔をした。必死に周囲に人がいないかと顔を上げると、電柱に突っ込んだ軽自動車が視界に入った。その車から目が離せないでいると、そこから這い出るように初老の男が降りてきた。男はよたよたと立ち上がると、足をもつれさせながらその場から遠ざかっていった。

行かないで、お願いだから、この子だけでもいいから助けて。言葉にならない叫びを上げていると、誰かが近寄ってくる音がした。

足音の主は私の後ろでぴたりと止まり、じっと私を眺めているようだった。
「助けて、赤ちゃん、お願い、お願い」
ひゅうひゅうと息を交えながら私が懇願していると、その人物はそっと私のお腹に手を添え囁いた。

「ねぇ、今日のはどのくらい怖かった?」 

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