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竜胆をゆく。

 正しいことをしなさいというのが散歩中の父の口癖でした。警官だった父は私にも正義を求めました。犯罪はもちろん、若気の至りと呼称されるような、青さを孕んだ失敗すら許されませんでした。私自身、そういった環境を疑いはしませんでした。幼少からそうでしたし、父の言う世界こそが正義だったから。父との散歩道は竜胆の咲く道でした。
 結婚相手は見合いで見つけました。私たちの世代では珍しいことではなかったし、素性もわからない女性と0から恋愛をするより効率がいいように感じていました。実際、妻は素晴らしい女性で、理知に富み、背筋のしゃんと伸びたような人でした。父も彼女の性分をいたく気に入り、私たち家族の関係はとても良好でした。
やがて私たちも子どもを授かりました。男の子をひとり。私は彼らに、かつて父が私にそうしたように接しました。公的秩序に準ずるように、快楽を優先して道を違わないように。
 息子は私のように育ってくれました。曲がったことをせず、勉学に励んでくれました。将来は警察官を志望しており、父もそんな孫のことを誇らしく感じていたようでした。親戚の集まりや、かつての同僚との会合のたびに自慢をしていたようでした。

 そんな私たちに歪が生じたのは、息子が大学2年生の時でした。親元を離れ下宿生活をしていた息子は毎日ではないにしろ、定期的に連絡をくれました。私たちに心配をかけまいという彼なりの配慮だったのでしょう。本当に優しい子でした。
 秋も深まってきた時期でした。仕事をしていると妻から何度も着信が入っていることに気が付きました。珍しいなと思いつつ折り返すと、慌てたような、泣いているような様子の声が聞こえました。
 息子が逮捕されたという知らせでした。

 当日、仲間内で酒を飲んでいた息子たちはずいぶんと酔っぱらっていたようでした。その騒ぎが大きすぎたのか、ほどなくして友人のひとりが隣席の客と口論になったようでした。口論は次第にヒートアップし、やがてつかみ合いの喧嘩になったそうです。最初は制止しようとしていた息子でしたが、隣客のひとりが友人を殴ったことでかっとなり、手を出してしまったようでした。
 先にもめ事を起こしたのは息子ではありませんでしたが、駆け付けた警察官の目にはそうは映らなかったようでした。警察官を目指していただけあって、息子は体格にも恵まれていましたし、傍目には息子が一方的に暴力をふるっているように映ったことでしょう。

 幸いにも相手方との同意もあり、起訴はされず、3日程で息子の拘留は解かれましたが、私たち家族にはこれまでなかったような溝が生じました。私も妻もそんな世界とは無縁の人生を送っていましたし、なによりも父がそういった人種を嫌悪していました。前科はつかなかったので、警察官になることは可能でしたが、父はそれを許しませんでした。正しいことができない人間が警察官になる資格はないと。
 私は息子になんと声を掛けたらいいのかがわかりませんでした。もちろん彼のしたことを叱責することはできましたが、その原因を否定することは私にはできませんでした。友人を傷つけられたことに激昂することは間違ったこととは言えない気がしたのです。ましてやそのことで彼の夢見ていた道が閉ざされてしまったことになんと慰めの言葉を掛けられるでしょう。

 息子は一時的に実家へ帰ってきました。父は相変わらず息子と話そうとはしませんでした。息子は息子でふさぎ込んでおり、生気を失ったかのようでした。
 息子が下宿先へ帰る前日、私は息子を散歩に誘いました。私自身、今回のことに対する正解はわからないままでしたが、その正解を一人で見つけることはできそうにありませんでした。
 散歩中、お互いに無言なままの私と息子を、沿道に割く竜胆が見守っていました。

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