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初恋

 わたしの初恋は間違いだったのでしょうか。
 人魚姫が声を失い、泡となって、王子様の幸せを願ったように、わたしの約束もただしくこの海に届いていたのでしょうか。送り出した小舟の軌跡を泡のなかから眺めていると、そんな祈りにも似た感情が浮かんでくるのでした。

 父とわたしがあの港町に越してきたのは、梅雨がはじまるすこし前のことでした。母を亡くしたわたしを気遣ってこの町に越してきたと父は言っていましたが、それがうそであることは、あの頃のわたしはすでに気がついていました。
 母は美しい人でした。
 狂おしいほどに美しくて、どうしようもなく寂しい人でした。
 記憶のなかの母は、いつもお酒と、香水と、知らない煙草の香りに包まれていました。夜になるたびに見知らぬ男性の腕に抱かれながら帰ってくる母は、きまって上機嫌で、わたしたちには向けることのない恍惚とした笑みで、その男性たちへ甘い言葉を囁いていました。
 当の男性たちはというと、わたしや父の姿を視認するやいなや、ばつの悪そうな表情を浮かべて、こそこそと逃げ出していくことがほとんどでした。そうして玄関に置き去られた母は、その怒りを、哀しみを、わたしや父に、汚らしい言葉にしてぶつけてきました。
 それでも、そんな母を、父は決して責めることもせず、「風邪ひいちゃうよ」と言って毛布をかけながら寝室へと連れて行くのでした。
 それが、父から教えられた人の愛し方でした。
 どんなに傷つけられようと、母があるがまま、美しくあれるように尽くすことが父の喜びでした。そうして守られた美しさを、いつまでもそばで見ていることだけが、父の祈りでした。
 だからこそ、父はこの町へ越してきたのでしょう。
 母が、父でもわたしでもない、所在すらわからない男と沈んだ海が見えるこの町へ。

 わたしという存在は、はっきりいってあの町にとっては異物でしかなく、同年代の子どもはおろか、大人たちでさえも、意地の悪い、薄暗い感情をわたしへむけているのが感じられました。それが、母の死に起因するものであることはすぐにわかりました。
 海を汚した女の娘。
 あの海に浮かんだ見知らぬ女の遺品と、それを追いかけるようにこの町へやってきたわたしたちの関係性は、あっというまにひろがり、わたしたち親子が虫けらのような扱いをうけるのに、それほど時間はかかりませんでした。
 ただ、それでも父は幸せそうでした。昼中は慣れない漁港で日銭を稼ぎ、夜はほとんどの時間を縁側ですごし、ただそこから海を眺めていました。そうしてときおり、うわごとのように母の名前を海へ呟いては、返ってくる波音に満足そうな表情を浮かべていました。
 その波音が父を、わたしを嘲笑っているようにしか聞こえなくて、わたしはあの海がどうしても好きになれませんでした。

 そんなわたしを海へと連れだしたのはKでした。
 Kはあの町で唯一わたしのことを傷つけない存在で、わたしたち以外で唯一の、あの町の異物でした。
 Kの日常が壊れたのは、わたしたちがこの町にくる前の年の、入道雲がはるか遠くに昇る夏の日でした。
 雨に恵まれなかったその年は、海がすっかり凪いでしまい、魚の捕れない日が続いていました。漁港は夏の快晴がそこにだけ陰をおとしたかのように静まり返り、町全体がその陰鬱な矛先を向ける相手を探しているようでした。
 そんなとき、無人になったKの父親の漁船が、漁港からすこし離れた、“禁域”でみつかりました。
 禁域といっても、どんな云われや理由があってそうなっているのかもとうの昔に忘れ去られた、形骸化した掟だけが残っているだけの場所でした。きっと普段なら咎められることもない、そんな他愛もない掟だったのでしょう。
 ただ、そのときの町にとって、その禁域に浮かぶ無人船は、宛先のみつからない恨みを積み込むための方舟としてこれ以上ない存在となりました。
 人々は、Kの父親の捜索もろくにせず、いなくなった人間の贖罪をその家族に求めました。家には腐った海藻や海鳥の死骸をはじめとする汚物が、罵声とともに投げ込まれ、Kの躰には日ごとに痣が増えていきました。その罪は、夏が終わっても赦されることはなく、その年の冬を迎えるころには、Kの母親の心は完全に壊れてしまっていました。
 おまえの父親が海で罪を犯したから海が死んだんだ。
 母親が狂ったおかげでおまえも、この町も、赦されたんだ。
 そんな、無責任で妄言じみた町の声を増長するかのように、Kの父親の漁船が見つかって、Kたちが異物として扱われるようになってからすこししてから、海には雨が、波が、魚たちが戻ってくるようになりました。
 海を汚せば町が死ぬ。
 そんな暗黙の禁忌が町へ浸透しきったころ、あの海に沈んでいったのが、わたしの母でした。

「なあ、人魚見に行かん?」
 わたしが教室の窓から校庭の隅に咲いた紫陽花を眺めていると、ふいにそんな声が聞こえてきました。その声が小風のように軽やかでしたから、そしてなにより、この町でだれかに声をかけられることなどありませんでしたから、わたしはその声に反応することもなく、そのまま窓の外へ意識を向けていました。
 すこしのあいだそうしていると、隣の窓からだれかが顔を覗かせ、わたしの視界に飛び込んできました。それがKでした。
「なあ、話しかけとんやけど」
 Kは薄茶色の瞳をまっすぐにわたしに向け、そう問いかけました
「え、あ、ご、ごめん」
突然のことでしたし、そもそも会話自体が久しぶりでしたので、声が喉につっかえて、うまく言葉が出ませんでした。それでもKは、わたしのそんな様子を気にもとめず、
「いや、ごめんやなくて。人魚、見に行かん?」
そう繰り返しました。
 そのときになってようやく話題の異様さに気がついたわたしが、
「に、人魚って?」
と聞き返すと、Kはすこし呆れたような顔をして、
「人魚知らんの? ほら、上が人間で下が魚のやつやん」
そう言いながら掌を腰のあたりで上下にひらひらとさせていました。
 もちろん人魚がなにかということはわかっていましたし、それが空想上の、非現実的な生物であることも充分理解しているつもりでした。
「人魚は知ってるけど、いないでしょ。現実に」
 わたしがそう返すと、Kは、
「おるよ。めっちゃ綺麗なんやで。な、見たいやろ?」
そう言って悪戯っぽく笑いました。
 その笑顔がとても眩しくて、なにより、誰かに声をかけられたことが嬉しくて、気づけばわたしはKの言葉に頷いていました。
 Kはわたしの反応に満足そうな顔を浮かべ、
「そしたら、今日の夜、十時くらいやな。防波堤の先の灯台まで来てな」
それだけ告げて、教室を出て行ってしまいました。
 こちらを振り返ることもなく離れていくKの姿は、異物として扱われているという、そんな悲壮感や劣等感を感じさせない、むしろ爽やかな風に包まれているように軽快で、わたしはしばらくのあいだ、Kの残した軌跡を呆然と目で追っていました。

 その日の夜、あいかわらず縁側で海へ向かって笑いかけている父をおいて、わたしは防波堤へ向かいました。防波堤までの道、わたしはKの言葉をぐるぐると反芻していました。
 いくらなんでも本物の人魚ということはないだろう。でも、わたしをからかっているようにも見えなかったし。もしかしたらKもまた、彼の母親のように心が壊れてしまっているのかもしれない。そうなってもおかしくない仕打ちをこの町で受けてきたのだから。
 そう思うと、自分のなかで、Kに対する同情とも共感ともつかない感情が湧き上がってくるのを感じました。
 そんなことを考えていると、やがて防波堤が見えてきて、その先の灯台の下で誰かが立っているのが見えました。その影はわたしに気がついたのか、大きく手を振りながら駆け寄ってきました。それがKであると視認できるだけの距離までくると、
「おお! 来てくれた!」
そんな声が聞こえてきたので、わたしもぎこちなく手を振り返しました。
「いやあ、来てくれんと思ってたわ」
 そう笑うKの顔は、昼中のそれよりすこしだけ優しさが増しているように見えました。
「そしたら、さっそくやけど、行こっか!」
 Kはそう言うと、漁船の並びのなかの、ひときわ小さな手漕ぎ舟に乗り込みました。その様子にわたしが戸惑っていると、Kが手を差し出してきて、
「大丈夫やから」
と笑いかけてくるものですから、わたしもつい、その手をとってしまいました。Kの手は、わたしよりすこしだけ大きくて、それでいてまだ幼さを残した不思議な暖かさを帯びていました。

 その小舟は、夜の海を突き進むにはどうにも頼りない存在に思えましたが、そんなわたしの不安を感じ取ったのか、Kはオールを漕ぎながらしきりに話しかけてくれました。
 好きな映画のこと、嫌いな食べ物のこと、そして家族のこと。だれかに伝えておきたかったたくさんを、わたしたちは思いつく限り語り合いました。ふたりの異物を乗せた小舟は、それらを否定も肯定もせず、ただしずかに進んでいきました。
 むかし流行っていたテレビ番組の話がひと段落したころ、
「こっから先、落ちたら危ないけん、しっかり掴まっててな」
進行方向のすこし先を向いてKがそう言いました。つられてわたしもKと同じ方向へ目をやりましたが、そこにはただ暗い海が凪いでいるだけで、いまいる場所となにが違うのかがわたしにはわかりませんでした。
 わたしがそうして不思議そうにしていると、Kがオールをくるくると回しながら、
「このへんの海の底な、変なかたちしとってな、沖に出ようとする波が来る波とぶつかって、陸に戻りよるんよ」
そう言ったかと思うと、また進行方向へと向き直って、
「どこにも行かれへんねん」
と呟きました。
 その声はすべてを諦めた響きがしていて、わたしはなんと声を掛ければいいのかがわからず、
「わたしたちは波じゃないよ」
苦し紛れにそう吐きだしました。Kはそんなわたしの言葉に振り返ったかと思うと、
「うん、そうやな。そしたら、いつかあの向こうに出ていこうな」
そう言って笑いました。
 その笑顔はせいいっぱいにうそをつくときみたいに、いまにも崩れそうで、わたしは黙って頷くしかありませんでした。

 Kが小舟を岩場に停めているあいだ、わたしは岩場のむこうに覗く町の灯りを眺めていました。
 あのなかのひとつで、父はいまも母にむかって語りかけているのだろうか。自分や娘の心を生贄にしてまで守り続けた、愛する人の美しさへ、届くことのない祈りを続けているのだろうか。昨日までは理解できなかったその感情もどうしてかいまは、すこしだけわかるような気がしました。
「ねえ、ここって、」
 わたしが、Kが波の話をしたときから、なんとなく察していた違和感をこぼそうとしたとき、
「父ちゃんの舟が見つかったところや」
と、Kが言葉を被せてきました。
 外へ出ようとする波を呑み込んで押し戻す海域。そんな話はこの町にきて聞いたことがありませんでした。町の人間が触れようとしない海。ほんとうの“禁域”となった場所にいま、わたしとKだけがいる。
「入ったら、だめなんじゃないの?」
 自分でそう尋ねておきながらわたしは、Kがなんと答えるかほんとうはわかっていました。あの町が嫌がることを、いまわたしたちはしている。そんな高揚感がすこしずつ膨らんでいました。
「いまさら変わらんやろ、お互いに」
 Kがそう答えてくれたとき、わたしはKと共犯者となれたことが嬉しくて、こんどはちいさく「うん」と返事をしました。

「あの岩場のむこうや」
 Kはそう言うと、潮に濡れた磯を慣れた足取りでどんどんと進んでいきました。わたしはその後ろを慎重についていきながら、自分のなかに新たな疑問が生まれてしまったのを感じていました。
 Kはどうしてこの場所にわたしをつれてきたのだろう。
 わたしたちにとって、すべてが壊れる原因となったこの海に。
 その疑問がどこかKのことを疑っているような気がして、わたしが必死にその考えを振り払いながら岩場に登ると、そこにはしゃがみ込むKと、白く透きとおる肌をしたなにかが波に揺られていました。暗い海に浮かんだり沈んだりを繰り返す“それ”は、一見すると人間のような形状をしていましたが、いわゆる下半身に該当する部位がなにか黒く長いものに巻き込つかれているようで、その先端は海の暗いところへとどこまでも伸びていっているようでした。
「ここはな、海が約束した相手を忘れんように、大事に仕舞っとく場所やねん」
 言葉の意味がわからず、岩の上で硬直するわたしをよそに、Kは海に踏み入り、“それ”に向かって手を差し伸べました。
「ほんとうはもっと早くあんたをここに連れてくるべきやったんやけどな、なかなか決心がつかんかった」
 Kはそう言いながら、“それ”の上半身をやさしく抱えあげました。
 水死体。
 Kの腕のなかの“それ”を表現する言葉としては、きっとそういった言葉が適切だったのでしょう。でも、わたしはどうしても、“それ”を水死体と認めることができず、Kの言った人魚という言葉で自分を納得させるのが精一杯でした。
  “それ”はまさに、いつか空想した人魚のような美しい表情でKに抱かれており、そしてなによりも、その美しさが、“それ”が水死体などではないとわたしに訴えかけてくるのでした。
 もし“それ”が水死体だというのなら、とっくに腐り果てた肉の塊になっているはずだから。それだけの時間が、“それ”がわたしたちを捨ててからは流れているはずだから。
 Kはそんなわたしの考えを見透かすように、眠っているような“人魚”の顔をわたしにむけ、
「なあ、この人、あんたのお母さんなんやろ?」
そう尋ねてきました。

 Kの言葉にわたしは声も出せずに、その、母の顔をした人魚の美しい輪郭をただ呆然と視線でなぞっていました。そんなわたしをよそにKは、人魚の頬をその掌で包み込みながら、
「町のやつらはな、勘違いしとるねん。去年の夏のことは、父ちゃんが海を怒らせて、母ちゃんがその罪を背負ったけん海が赦してくれたんやない。むしろその逆や。あれはたまたま海の機嫌が悪かっただけで、そんな海に父ちゃんが町のことを祈りながら沈んだけん、海がその約束を叶えてくれたんや」
そうぶつぶつと呟いていました。
「なんで、」
 ようやく絞り出したその言葉が、いったいなにに向けて生じたものなのか、自分でもわかりませんでした。
 なんでそんなことがわかるのか。
 なんで母の死体がここに浮かんでいるのか。
 なんでわざわざわたしにこれを見せるのか。
 どこから消化すればいいのかもわからない動揺がひろがっていき、わたしはつづく言葉を吐きだすことができずにいました。
「なんで、か」
 Kは人魚のほうへ落としていた視線をわたしへと移し、
「そしたら、なんであんたとお父さんはこの町から出ていかんのや?」
そう言ったかと思うと、わたしの返答も待たずに話しつづけました。
「お母さんの死体、見つかってないんやろ?」
「ただそれらしい遺品がこの町の海に浮かんでただけや」
「それだけの理由で、あんたら家族は、なんでこの町にしがみついてるんや?」
 それは、わたしがこの町で生きるなかで、自分でも知らずのうちに蓋をしていた違和感でした。言葉に詰まったままのわたしをKはまっすぐにその瞳で捉えたまま言い切りました。
「全部な、あんたのお母さんがこの海にお願いしたからや」

 母が、わたしや父のことを海に願った?
 そんなわけない。そんなわけないと思いたいのに、Kの言葉には不思議な説得力がありました。そして、すぐにそれが、あの愛に飢えていた母の姿によって裏付けられているのだと気がつきました。
 ああ、あの人は、自分が死んだあとも自分のことを思い続けてくれる存在が欲しかったんだ。あの人にとってのわたしや父という存在は、自分が死んだあとに初めて意味をなすものだったんだ。
「それで、わたしをここに連れてきたの?」
 わたしがそう聞くと、Kはすこし申し訳なさそうな顔を浮かべ、
「お父さんと違って、あんたはこの海になるべく関わらんようにしてたやろ?」
そう言って、抱えていた人魚を海へ戻しながら自分もその場でしゃがみ込みました。
「前の約束をちゃんと叶えてからやないと、つぎの約束はできんからな」
 Kがそう言うのと同時に、人魚の下腹部から伸びていた黒いなにかがKに絡みつき始めたのが見えました。それはKの指先から、腕、肩、そして首元とどんどんその先端を伸ばしていき、それにしたがってKの躰も海へと沈んでいくのがわかりました。
 わたしはなぜかその黒について触れることができず、
「つぎの約束」
とKの言葉を繰り返すだけでした。
「そうや、こんどはおれが、あの町を呪いながら海と約束するんや」
 そう言うKの顔は、小舟の上で見せたときとおなじようにすべてを諦めてしまった表情をしていて、やがてそれも侵食してくる黒いなにかに包み込まれようとしていました。
「わたしの、わたしとの約束は?」
 その場に固まったように動けないままわたしが言葉を絞り出すと、Kはまた崩れそうな顔で笑って、
「ごめんな」
そう言ったかと思うと、その躰を暗い海のなかへと沈めてしまいました。

 Kがいなくなった海は、岩場にぶつかる波の音だけが響いていて、わたしはただ、Kを覆った黒が海の暗さのなかに溶けた痕を眺めていました。
 どれだけのあいだそうしていたのでしょう。海のむこうのほうがすこしずつ白みだしたころ、ふいにわたしのなかでどうしようもない衝動がはじけたのがわかりました。
 だめだ。
 そんなのだめだ。
 気づけばわたしは岩場を転がるように駆け下り、Kを呑み込んだ海のなかへ飛び込んでいました。昇りだした陽の光がかえって目先の闇を濃くして、わたしはその暗さのなかで必死になってKの面影を探し求めました。
 あなただけは、ここに沈んじゃだめだ。
 ようやく見つけたKは、名前を呼べばまた微笑みかけてくれそうなほど美しい表情でそこに浮かんでしました。わたしはそんなKのことを抱きしめて、その冷たくなった躰を岩場まで引き上げようとしました。
 Kを抱えて岩場を目指していると、あの黒いなにかが、ふたたびKを海の底へ連れて行こうと、その躰に巻き付いてきました。それを力任せに引きちぎりながら、Kの躰を海の外まで連れ出すと、わたしたちは、あの小舟に向かって歩き出しました。
 岩場を乗り越え、陰を抜けると、背負ったKから滴る海水が、わたしの目から溢れる涙が、海が、朝日を浴びて輝いているのがわかりました。そして、その輝きのさきで小舟がわたしたちの帰りを待っていました。
 わたしが倒れこむようにKを小舟に乗せると、その衝撃に大きく揺れた小舟は、自分の役割をわかっていたかのように、するりと波の上へと滑り出しました。そしてわたしの躰は、それにひっぱられるようにして、ふたたび海のなかへと沈んでいきました。
 いい。これでいい。
 わたしは小舟に戻ることもせず、Kを、舟を、波に逆らうように押し続けました。そうしていると、夏の朝の空気を巻き込んだ爽やかな風がゆっくりと、小舟を包み込んでいくのがわかりました。
 わたしがその風に小舟を送り出すと、なにかが脚に絡みついてきました。それがあの黒いなにかであることはすぐに気がつきました。いや、それはきっと、母や、Kの父親、この海に沈んできたすべての姿をしていたのでしょう。
 大丈夫。
 わたしがあなたのかわりに全部全部呪ってみせるから。
 だからどうか、あなたはあの波のさきを見に行ってね。
 光とともに離れていく小舟の軌跡が、あの海域に差し掛かるのを、わたしは力なく沈みゆく泡の隙間から、祈るように見つめていました。

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