卵、自尊心。

 卵焼きが好きだった。母が喜んでくれたから、初めて父の役に立てた気がしたから。夏休みのことだったと思う。たまたま早起きをした私がリビングへ向かうと、母が朝食の準備をしているのが目に入った。ちょうど卵焼きをつくっているところだった。その所作を眺めていると、なぜかはわからないが、急にやってみたくなった。
 母ははじめこそ驚いていたが、快く受け入れてくれた。手伝いなど一切やってこなかった私が家事に興味をもったのがうれしかったのだろう。私の面倒を見ることで、家事の進みは滞っただろうに。
 母に言われるとおりに手を動かしてみるが、箸で巻こうとすると卵が切れてしまう。「最後がきれいやったらわからんよ」と後ろで母が笑っていた。実際その通りで、最後のひと巻きを母が担当すると、それはいつも見る卵焼きのていをなしていた。
 私のつくった卵焼きはそのまま食卓に並び、いくつかは父の弁当にも入れられた。「今日の卵焼き、この子がつくったんよ」と母は父に報告してくれた。父はただ一言、「そうか」と言ったきりだった。自分の感情表現をあまりしない人だったので、別に気にはならなかったが、自分のつくった卵焼きが父の弁当に入っていることに、なんともいえない高揚感を感じたのを覚えている。それからというもの、卵焼きは私の中で大得意な料理になった。

 ただ、現実は朝ドラとは違う。このことをきっかけに私が料理人を目指すということはなかった。大学も経済学部に進学したし、アルバイトも塾の講師をすることにした。一人暮らしをはじめたばかりの時期は自炊もしていたが、次第にその頻度は減っていった。時間がないからなどと、あれこれ理由づけをしてみたが、本当のところはつくった料理を食べるのが自分だけなことに意味を見出せなかっただけかもしれない。意気込んでそろえた調理器具は戸棚の奥にしまわれたし、いろとりどりの調味料は半分も使わないうちに駄目になってしまった。
 ときどき思い出したかのようにチャーハンづくりにはまってみては、狂ったように凝りだすこともあった。汎用性のない調味料に手をだしてみたり、なんなら鉄鍋の購入を検討したりもした。それも今思えば、「チャーハンを極めた自分」を誰かにアピールしたかっただけだった。誰かに褒められたいのに、何も持ちえないことを自覚していたから、いつかのきれいな記憶から無理やり引っ張り出すしか、自分を肯定することができなかった。
 別に料理じゃなくてもよかった。この根拠のない自尊心が満たされそうなことであればそれでよかった。ただ、私にはその自尊心を賭けるだけのものがなかっただけだ。

 心の内では稚拙な希望を描きながら、外面は現実を受け入れている大人を演じている。身の丈をわきまえているふりをして、SNSのなかでもがく人々を嘲笑している。そうすることで自分の空虚さに蓋をすることができるから。
 ある日、たまたま見かけたYouTuberのコメント欄が荒れていた。「至高のチャーハンレシピ」というタイトルの動画で、自称チャーハン通がコメント欄で激論を交わしていた。いつかの自分の姿がそこにいるような気がして、何とも言えぬむず痒さを感じた。動画をひと通り見終えた後、小腹がすいたことに気づく。そういえば夕飯を食べていなかった。
買い出しに行くのも億劫な時間帯だったので、あるもので済ませようと冷蔵庫を開く。卵がふたつだけあった。

 卵焼きをつくるのは随分と久しぶりな気がする。かといって別につくり方を忘れるほどのものでもない。なにも考えなくてもできるはずだった。
 そのはずなのに、できあがったのは、ぼそぼそとして妙に味の濃い卵焼きだった。せめて薄味ならどうとでもなったが、変に味付けをしてしまったせいでもうどうしようもなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?