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小春に逢う。

 何年も咲いていなかった庭の椿が久しぶりに色づきを見せたのは、あなたがいなくなった年の冬でした。
 あなたとの最初のお出かけも冬の初め頃でしたね。あなたが「上野駅に朝9時」としか教えてくれないものだから、どこで待てばいいかもわからず、いい大人が迷子になってしまいましたよ。それなのにあなたは人混みのなかから私を見つけてくれましたね。
 合流してからもあなたはどこへ向かうのか教えてくれず、しつこく行き先を尋ねる私に「いいから、ついてきてください」なんて格好つけていましたね。でもね、本当はどこに連れて行ってくれるのか気づいていましたよ。あの頃、上野に呼び出すなんて行き先はひとつしかなかったのだから。案の定、あなたの足は上野動物園へまっすぐ向かいました。今思えば、方向音痴なあなたがあんなに迷うことなく向かうことができたのは、前もって何度も予習してくれていたんですね。
 でも、あの日は残念でしたね。まさかパンダの公開がお休みになるなんて。あの時のあなたといったら、この世の終わりのような顔をしていましたね。あなたがあんまりにも困り果てているものですから、思わず私、声をあげて笑っちゃった。いつも肝心なところが抜けていて、それなのにいつも誰より優しくて、そんな春のようなあなただから一緒にいることにしたんです。
 あなたと過ごす凪のような日常が好きでした。あなたの隣で過ごす、平熱の日々が私の幸せでした。ただ、時々ふと不安になったものです。あなたの人生に後悔はありませんでしたか?私が子どもを産めないとわかった時、「ずっとふたりで居られますね」と言ってくれたけれど、本当にそれでよかったのですか?あなたの隣に立つ女性は私でよかったのですか?そんな乙女じみた不安を溢すたび、いつもあなたは静かに私の手を取ってくれました。冷え性なあなたの手から伝わってくるやわらかいあたたかさが、私のささくれだった心を肯定してくれるから、ついつい甘えてしまいました。
 そうやって甘えていた私だったから、あなたがいなくなったことから逃げようとしてしまいました。朝何を食べたかとか、何をするために出かけたかとか、そういうちいさな物忘れが増えてきて、不思議と安心したんです。ああ、このまま全部忘れたら楽になれるのかしらって。
 そんな半ば夢のなかにいるような日々を過ごしていた時でした。もう存在すら忘れかけていた庭の椿が気恥ずかしそうにちいさな蕾を実らせていました。そっと指で摘んでみると、無骨な萼の冷たさとその内側にあるやわらかい花びらの存在を確かに感じられました。
 会いにきてくれるのならもっと目立つように来てくださいよ。私はあなたと違ってすぐ迷子になってしまうのだから。だからもう少しだけ、そうやって甘やかしてくださいね。そして、もっとわがままを言っていいのなら、いつか私も花になることができたらその時は、またあなたの隣で咲かせてくださいね。

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