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母、祈り。

 この子の見る夢はどんな色をしているのだろう。この世界に舞い降りたばかりの我が子の寝顔を眺めながらふと考える。夢には普段の生活で脳に蓄積された情報を整理する役割があると聞いたことがある。そうなると目に映るものすべてが新鮮さに満ちたこの子の夢はどれほどの彩りをしめすのだろう。

 私に父親はいない。生まれてからずっと、いや、生まれる前から私の世界にはママしかいなかった。ママは娘の私からみてもずいぶんと抜けたところのある人で、若いときはかなり派手な遊び方をしていたらしかった。ママの両親、つまりおじいちゃんとおばあちゃんは厳格な性格をしていて、ママにはそんな生活が息苦しかったらしい。その反動は大学進学をきっかけに実家を離れたことで爆発した。
 初めて親の目の届かない世界にいけたママは自由だった。自由すぎた。生活費やバイト代はすべて遊びに溶かし、それでも足りない時は、体を売ることもあった。名前も知らない男と寝ることなんてざらだった。男から向けられる色欲にまみれた好意を愛情だと思い込んでいた。いつしか男から求められることがママにとっての生の肯定になっていた。そんなママが私を妊娠したのは21歳の時だった。父親が誰かなんてわからなかった。
 もちろんおじいちゃんたちは出産に反対した。産むなら親子の縁を切るとさえ言われた。それなのにママは私を産むことを譲らなかった。なにがママをそうさせたかはわからなかったけど、母となった今ならその気持ちもなんとなく理解できる気がする。理性や感情といったものよりもっと本能的なところで私を守ろうとしてくれたのだ。その結果、私やママ自身が大変な人生になることがわかっていても。

 おじいちゃんたちは最後まで反対していたけど、最低限の援助はしてくれた。二度と実家に顔を出さないことを条件に、ママと私が飢え死にしないだけの金額を、ママが仕事に就いて生活が安定するまで、毎月送ってくれた。それが愛情によるものなのか、貧困に喘いでママが犯罪に手を染めないようにするためだったのかはわからないけど。
 とはいうものの、私たちの生活はやっぱり厳しいものだった。周りの子が持っているものを私だけが持っていないなんてざらだったし、そのことでいじめられたこともあった。私が泣いて帰るたび、ママは私以上に大声で泣きながら謝ってくれた。私はそれが辛くてまた泣いた。

 それでも私はママが大好きだった。勉強が他の子から遅れないように塾にも通わせてくれたし、どれだけ忙しくて疲れていても私との時間をしっかりとってくれた。少しでも私が周りと違わないように、違うことで負い目を感じなくていいようにしてくれた。
 休みの日は遊園地にも連れていってくれた。帰り道、疲れて眠る私を抱えた母の背中は、どんな場所よりも安心できた。
 ママのオムライスが大好きだった。ママは不器用だから、いつも卵が崩れていたけど、それでも少しでもきれいなほうを私にくれた。
 二人で暮らす六畳半のアパートはママの愛情で満ちていた。

 私の結婚式の日、入場はママと歩いた。私側の親族はママだけだったけど、私はそれでよかった。それがよかった。夫も、夫の親族もそんな私たちを家族として受け入れてくれた。
 結婚式の間中、ママは私よりも泣いていた。私のことで私以上に泣いて、怒って、喜んでくれるママは私の誇りだった。ママが私の生を肯定し続けてくれたから、私は今日まで美しい世界で生きてこれた。

 そんな私も母になった。ちいさなちいさな、吹いたら消えてしまいそうなこの命。この子に私はママがくれたものをあげることができるだろうか。この子が見る世界が美しいもので彩られるよう、この子の見る夢が光り輝くように、そう祈りながら、この子の名前を呼んだ。

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