ゴールデンエイジ(笑)
「フォローとリツイートで全員に100万円配布します!」なんて投稿に必死にアピールしているかつての同級生を嘲っては安心している。自分はこいつよりはましなんだと。まだ、現実を見据えた行動ができているだけ、価値があるのだと。
憧れの強い人生を過ごしてきた。足の速かったクラスメイト、顔立ちの整った先輩、自分にないものを持っている人に強く惹かれてきた。そのたびに、その羨望と自分という現実との間に深い隔たりがあることを認知しては苦しんできた。
学生の時分は、少しでも、外側だけでも、その羨望に近づこうとしてブランド物に身を包んでみたこともあった。生活費を削って、バイト代をほとんどつぎ込んで一着数万もするシャツを購入したこともあった。そのシャツを着て食べるカップラーメンは、汁が跳ねないようにするのに必死で、味もよくわからなかった。
憧れが可視化できる時代になってきたのを痛感する。SNSを通じて誰かのきらびやかな生活を目にするたびに、自分のいる六畳半の部屋が異様に狭く感じた。書面上の見栄だけが欲しくて、都心に部屋を借りたものだから、こんな部屋でも家賃を払うのに四苦八苦している。それでもこの部屋を捨てるわけにはいかなかった。地元に帰ったとき、自分の住んでいる地名しか胸を張れるものがなかったから。
そんなこじんまりとしたプライドにすがる僕には、当然のように誇れる経験すらもなかった。部活や勉学で輝かしい成績を残すこともなかったし、就職してからも優秀な動機の陰で、せこせことした業務で日々を溶かしていた。日常の楽しみといえば、SNSで自分より下の人間を探しては安堵することだけだった。
特にあきらかに詐欺じみた「お金配布」系の投稿には、そういう人々が群がっていた。ほとんどが自分のせいでお金がないと困窮していながら、誰かに無償の救済を求める。そんな人々の姿を眺めるだけで、自分はまだ大丈夫だと言い聞かせていた。
いつものようにそんな投稿のリプ欄を眺めていたときのことだ。見知った名前を見つけた。大学時代の友人、橋本だった。
橋本は能動性が具現化したような男で、長期休みのたびにバックパックひとつで様々な国へ繰り出していた。そんなことをする勇気も、そのためにお金を貯める計画性も持ち合わせていなかった僕には、そんな彼の姿が異様に光って見えていた。当然のように誰もが知っているような企業に就職したと聞いていたし、たしか数年前には独立して会社を立ち上げていたはずだった。そんな彼が、浅ましい投稿のリプ欄で必死に物乞いをしていた。
どこか寂しいような、そのはずなのにどこか勝ったような気持になった僕は、すぐにスクリーンショットを撮って共通の友人に送信した。この感情を誰かと共有したかった。誰かにこいつより自分の方がましだと認めてもらいたかった。
そのはずだったのに。僕の嘲笑にみちた送信に返ってきたのは想像とは違うものだった。
『橋本、必死に生きてんじゃん。笑うなよ』
意味が分からなかった。ああ、そうか。こいつがどんな人間だったか覚えてないんだな。
『いやいや、大学時代あんなにイキリ散らかしといて、今こんなことしてんだよ?』
『海外行って新しいビジネスしたいとか言ってたじゃんwwwww』
『てかせっかく入った会社辞めてまで夢追いかけた結果がこれってwwww』
友人を説得しようと連投する手が止まらなかった。そんな僕の連投を遮るように友人からの返信が届いた。
『やめろよ、ださいよ』
訳が分からなかった。ださいのは橋本のほうだろ。そう言い返した僕に友人からの返信はなかった。
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