「悪い結果」は、存在できなくなっているのだろうか。
いつの頃からか、スポーツプレーヤー達は「結果」は出すもので、しかも、「結果」=「いい結果」だけ、と思っているようだ。
試合で勝った後、活躍したプレーヤーがインタビューされると、少し高揚した様子で、こうしたコメントをする。
「結果を出せて、よかったです」。
特定の誰かとか、ある種目だけではなく、いつの間にか、こうした言葉使いが当たり前のようになった。
「結果」の意味
今年の1月に購入した辞書で「結果」をひく。
他にも、すでに、こうした意味も「運用」としてあげられている。
この辞書は、2020年の末に第八版が出版されたので、ここ数年では、辞書の世界でも、「結果」=「いい結果」が定着しつつあるようだ。
この記事は2022年のものだけど、ビジネスでも、はっきりと「結果」は「いい結果」であり、「悪い結果」は存在しないように扱われている、ようにも感じる。
「結果」と「評価」
この「結果」の意味合いの変化に関しては、すでに、2002年のこの記事↓でも触れられている。
この記事では、「結果」の意味合いの変化だけではなく、「評価」に関しても、「評価」=「高評価」ということになっていることと同様に書かれているのだけど、「評価」については、「評価する」は、「良い評価」だけの意味合いに思えてしまうほど、すっかり定着してしまったことにも改めて気づく。
ただ、「結果」=「良い結果」として定着したことで、この記事の中で危惧されていたような「柔軟性が世の中に少なくなっている」現象が、現在に至っても、起こっているような印象はない。
「悪い結果」は存在を許されていない?
少し理解から外れているかもしれないけれど、『良い成績だけが「結果」であるとすれば、反省や批判は縁遠いものとなりはしないでしょうか』という、この著者の疑念は、強者の論理への警告に思える。
もう少し推測を進めれば、それは、結果についてのごまかしへの監視が緩んでしまう、という危機感のようにも思える。
だけど、それから20年ほど経った現在は、「結果」を出す人は肯定的に「評価」され、成果をあげられない人は、「結果」を出せない、と「評価」もされず、どちらかといえば、多くの場合、「いい結果を出せない人」は、存在そのものを否定されているような意味合い、になっているように思う。
それは、「生産性」だけが重視される2020年代の現在にマッチした、まるで「新自由主義」的な言葉のようにさえ思えている。強者だけが「結果」を残せて、「弱者」の行いは「結果」さえ残せない、というイメージに近い。
そう振り返ると、この2002年の時の記事が、この「結果を出す」という表現を、スポーツプレーヤーが使うようになった、ということも、スポーツ界は、ある意味で、勝った者が正義である、新自由主義的な世界でもあると言えるから、そういう意味では「結果を出す」という言葉と、元々相性が良かったのかもしれない。
「いい結果」以外は「結果」ではないとすれば、「いい結果」が出ない場合は、その人の行為自体が無かったことにされる残酷な表現のようにも思え、それは「ブラック企業」の「経営者目線」のような感じまでする。
「結果を出す」という表現が、現代に相性がいいとすれば、それは、少し怖いことのようにも思える。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。