新しい辞書が、ウチにやってきた。
テレビがあって、こたつがあって、本棚もある。ラジオもある。
広くない4畳半の部屋に、いろいろな情報があふれているような気もするけれど、分からない言葉があると、妻は、本棚に横向きに置いてある辞書をすぐに引く。
そういう習慣がついたのは、ここ何年かのはずだったのだけど、それなりの年齢になって、そういう行為を繰り返しているのを見て、私は、どこかおっくうになっていて、すぐに検索をしてしまうから、やはり素直に敬意も感じている。
新明解国語辞典
家にある中で、小型版で使いやすいと思って妻に渡したのが「新明解国語辞典」だった。それは、「広辞苑」のような分厚くて、正統派のものとは違って、独特の辞書、というような意味合いが強かった気がするが、それでも、日常的に使うには問題がないはずだった。
ただ、毎日のように使っている辞書は、気がつくと、相当に古くなっていた。
表紙は、ちょっとめくれているし、最近は、載っていない言葉が目立つような気がしてきた。
奥付を見る。
昭和四十九年の文字が見える。
こんなに古かったことに、微妙に驚く。
辞書を引く習慣がついている妻に申し訳ない気持ちにもなり、新しいのを買おうと思い、検索すると、「新明解国語辞典」が、最近、全面改訂していることを知った。
欲しくなった。
辞書の必要性
同時期に、この本↓を読んでいて「辞書の必要性」を改めて知ったのも、購入の動機につながっているのを、「買おう」と決めた時に、改めて思い出した。
良い批評探偵になるためには、まず虫眼のかわりに辞書を用意しましょう。小説でも戯曲でも映画でもよいので作品をひとつ選びます。読んでいる本や映画の台詞、字幕などに知らない単語があったらその都度、辞書を引きましょう。これは初歩的なことですが、実はとても重要で、実はよくわかっていない言葉があるのに気がつかないうちに読み飛ばしてしまっていることがあります。
辞書を友達のように身近に置いておきましょう。友達よりも頼れます。
ここで挙げられている言葉に、思った以上に影響を受けていたようだった。
注文
そんなことを思っていたら、なるべく早く欲しくなり、年末年始は、宅配便の会社も大変だと聞いたこともあったし、その頃にアルバイトをしたこともあったので、なんとなく、ちゅうちょする気持ちもあったのだけど、でも、できたら、新しい年は、新しい辞書を準備したい気持ちになったので、迷いながらも、やっぱり、頼むことにした。
最初に検索をしたら、卓上版が出てきて、それでは、そばに置くのは、ちょっと大きいし、できたら、今使っているのと同じにしたいので、もう一回だけ探したら、「小型版」が見つかり、注文をした。
数日経って、気がついたら、メールがきていて、すでに「配送済み」の内容が伝えられていた。
立っていた箱
ここのところ、「置き配」されることが増えていた。その手間を考えたら、当然だろうという気持ちもあって、そして、玄関の外にある古い机の上に置いてあることが多いので、階段を降りて、ドアを開けて、そこを見たら、何もない。
あれ、と思って、何かの手違いなのかと考えて、視線を少し遠くへ移したら、鉄製の門の内側に、ダンボールの箱が立っていた。
門は、昔、隣の方に作ってもらった、鉄の棒が並んでいるので、そのすき間から、その箱を差し入れて、そして、庭にある「飛石」がわりのコンクリートの四角いところに、置いてあるようだった。
ただ、少し遠いところから見たら、地面からそそり立っているように見えて、ちょっと新鮮な光景に見えた。
そこから、いつも「置き配」される机まで2メートルくらいしかないのだけど、門を開けて、荷物を置いて、また戻って、門を閉める。その時間がないくらい、忙しかったのだと思い、やはり年末年始の注文は申し訳ないような気持ちにもなった。
それでも、もちろん中味には問題がなく、箱を開けると、新しい赤いカバーが、ちょっとうれしかった。
考えたら、これまで使っていた辞書は、50年くらい前に印刷されたもので、古くなって当然だし、やっと代替わりができたということになるのだと思った。
白湯
年末に人が集まった時に、「白湯」の話題になり、それは、蒸気の白さのせいではないか。などと、色々な説が語られ、その上で、家に帰ってきて辞書をひいたら、約50年前の「新明解国語辞典」には、語源的なものは書いていなかった。
〔お茶などに対して〕ただ沸かしただけの湯。
さらには、「素湯」から「白湯」になったのではないか。といったことも、何かで聞いたから、そのことも含めて、もしかしたら、新しい辞書には書いてあるのかも、といった期待があったので、妻はさっそく「白湯」をひいていた。
飲用のための、沸かした湯。
やはり、新しい辞書にも、語源的なものは書いていなくて、昔と比べると、さらに必要最小限のミニマルな表現になったように思った。
こういう変更に対して、どのような検討があったのだろう。お茶などと比べることなく(比較は差別的な表現につながりやすいし)、ただそのままの存在を表現している、ということに変えたのかもしれない、と想像する。
辞書
ウチに新しい辞書がやってきた。
そして、本棚に並んでいる。
すでにある本やマンガや英和辞典と一緒になって、よく見ると、新しさはあるものの、すでに、周囲となじんでいるように思う。
すでに何回も使われていて、これから先もずっと使い続けていることを想像すると、辞書の「体力」や「耐久力」の凄さみたいなものも、考える。
辞書ほど、使われる本はないと、バカみたいだけど、改めて気がつく。
これからも、よろしくお願いします。
そんな気持ちになる。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただけると、うれしいです)。
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