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読書感想  『妻はサバイバー』  「生きていくこと」

 ラジオで、出版社主催のノンフィクション賞の話が流れてきて、なんとなく聞いていた。

 結果としては、知られざる事件を丁寧に取材し、事実を知りたいという志を貫いた作品が選ばれて、それは「ノンフィクション」の賞として自然なことだし、その作品も素晴らしいと思ったが、他の候補作のことも当然ながら話題になった。

 その中で、ノンフィクションとしてはページ数が少なく、しかも、基本的には家庭の中だけの「個人的」な出来事を描いた作品が、特に若い人からは高い評価をされて、といった話まで進んで、その評価がどこかで意外というような微妙な響きを話者から感じたので、気がついたら、その本のタイトルをメモしていた。


『妻はサバイバー』  永田豊隆

 基本的には、個人的な話だと思う。

 だけど、20年の年月の間、これだけ緊張感の高い時間が続いたことを思うと、病気に襲われながら戦っている妻も、その傍で看病し生活をしている夫も、どれだけ大変なのか。それが想像できにくいことはわかる。

 その年月を、抑えた表現で、記録し続けている。

 妻に何が起きているのか、理解できなかった。
 大量の食べ物を胃に詰め込む。すべてトイレで吐く。昼となく夜となく、それを繰り返す。彼女が心身に変調をきたしたのは結婚4年目、2002年の秋。私は34歳、妻は29歳だった。 

(『妻はサバイバー』より。以降も、引用は基本的は同著より)

 摂食障害、という「病名」は普及してきた。街中でも、そうではないか、と思える人を見かけることもあるし、話として聞くこともある。

 だけど、もしも、本格的に関わろうとするならば、命に関わる状況もあるので、責任を持っての介入がとても難しい症状であることも間違いない。

患者数が多いわりに専門医の数が少なく、十分な治療を受けられない人が多いという。

 だからこそ、残念ながら、患者にとって安心できる環境が提供されにくい。

 摂食障害は身体面でいくつもの合併症を引き起こす。彼女の衰弱や疲労感、腹痛などはその一部とされ、過食嘔吐が原因である可能性が高かった。
 しかし、彼女は「摂食障害のことは絶対に知られたくない」と言って、主治医に隠し続けた。強引に退院を繰り返したのは「食べ吐きしたくてたまらなかったから」だと、のちに本人が打ち明けた。

 その過食嘔吐をやめさせたい、というのが周囲の目標にもなりがちなのは当然かも知れないけれど、それを止めることがとても難しいから、専門医が少ないということにもつながっているし、夫は、妻と共に病気と闘いながら生きていく生活の中で、その「食べ吐き」の「意味」も理解していく。

西日本の町で生まれた。きょうだいはいない。彼女の話によると、父親は機嫌が悪くなると暴力をふるった。彼女は物心がついたころからいつも顔や体に生傷が絶えなかった。母親は見て見ぬふりで、「あんたさえいなければ離婚できるのに」と娘を邪魔者あつかいしたという。  

 この辛さを何らかのかたちで少しでも解消しないと、おそらくは生きていくのが、もっと難しくなりそうだ。

 深夜、両親が寝静まってから過食と嘔吐を繰り返した。その効用はダイエットにとどまらなかった。胃の中のものを一気に吐き出す瞬間、暴力も心ない言葉も忘れることができたからだという。
 気がつくと、過食嘔吐はなくてはならない「部屋」になっていた。その後の人生でも、困難を乗り越える支えになったという。

 こうして安直にまとめるのも失礼なのだけど、過食嘔吐によって、生き延びてきたとすれば、それを「止める」ことは、返って、さらに危険なことにもなりかねない。

「食べ吐きは、たった一つの私の部屋なの」
 つらい気持ちでいっぱいになった時、いつでも逃げ込める。そこにいる間だけは安心できる。秘密の場所だから、誰も立ち入らせない。――摂食障害という疾患は、彼女にとってそんな「部屋」のようなものだという。

症状と診察

 過食嘔吐だけではなく、感情もかなり不安定になり、夫は罵声を浴びせられるようにもなった。さらに、大変さがましていたのだろうけど、その中で、何とかしようと病院にも行っている。

 帰宅は午後10時をまわることが多かった。
 その時間から、妻の罵倒が始まる。
 叫ぶ。泣く。悲鳴を上げる。私の襟首をつかむ。家を飛び出す。深夜から明け方まで怒鳴り続けることもあった。
 私は黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。疲れて反論する気力すらなく、火に油を注ぐのが怖かった。失踪や自殺というかたちで彼女を失うことも恐れていた。

 さらに、過食によっての出費も負担になってくる。

 妻がクレジットカードで購入する過食用の食糧費は少ない日で5千円、多い日は1万5千円ほどにのぼった。私の月給とボーナスでは足りず、独身時代からの貯金を」取り崩していた。
 もう少し過食代を抑えることができないか。彼女に相談してみたが、逆効果だった。「私のせいであなたを苦しめている」。自分を責め、過食に拍車がかかった。

 そうした中で、医師の診察には、夫が通っていた。

月2回、仕事の合間を縫ってM医師の診察を受けた。診察といっても、患者本人である妻は来ない。本人に代わって私が彼女の状態について報告し、アドバイスを受ける。もちろん診察料も支払う。精神科の病気では、本人が治療を拒否することは珍しいことではない。そんな場合、まずは家族によるこうした代理受診から始めることも有効だ。家族が少しでも楽になれば、本人にゆとりをもって向き合えるようになる。

 そして、その医師は、妻の症状に理解しようとしてくれたようだ。

「幼いころから暴力にさらされてきた奥さんは、常に緊張と恐怖のなかで生きてきたでしょう。ところが、永田さんと一緒に暮らすようになって、生まれて初めて安心できる環境におかれたわけです。言ってみれば、安心して症状を出せるようになったんですね」
「奥さんはいつも、『自分が見捨てられるのではないか』という不安を抱えています。本人は意識していませんが、感情を爆発させるような行動には『夫が自分を見捨てないでいてくれるか』を試す意味があると思います。こうした『試し行為』で安心感が高まるのは一時的。本人の安心感はザルに入っているようなもので、溜めても溜めてもすぐになくなってしまいます」
 わけの分からないふるまいにも、彼女なりのメッセージが込められている。M医師の言葉はいつも腹にすとんと落ちた。

 ただ、こうした病気などで大変な人たちへの治療や支援の話が出るたびに、それが十分に受けられないという話題に触れる機会も少なくなく、今回も、そうした出来事が語られていた。

 ただ、すべての公的機関が十分な役割を果たしているわけではないという声も聞く。かつて取材した首都圏の男性は、長女の摂食障害について相談に訪れた公的機関で「家族で抱え込むしかない」と突き放されたという。その後、男性も長女も苦しんだ末、栄養失調で救急搬送された先で専門医を紹介され、回復の道を歩んだ。それを聞くと、公的機関でM医師に出会えた私は幸運だったのかもしれないと感じる。

 とても個人的なことだが、ささやかながら自分も支援の仕事を続けている。とても他人事のようには語れないのだけど、素晴らしい支援自体は、とても難しいから、そう簡単にはできないし、ごく限られた優れた人にしかできないとは思うけれど、逆に、少しでも油断すると、ひどい支援になってしまう。
 だから、少なくとも、相手を傷つけない、という原則だけでも、きちんと心がけようとはしている。

 苦境にいる人が、助けを求めてたどり着いた、支援をしてくれるはずの場所で受けた、適切でない対応は、その傷つきが返って大きくなるのは、私自身も家族の介護をしていた頃の経験で少しは知っているから、それを忘れずに生かしたいとは思っているけれど、こうした書籍を読むたびに、偽善的に感じられるかもしれないけれど、今の自分の行為も振り返ることになる。

入院

 著者の配偶者は、摂食障害だけでも大変なのに、そこに、さらに本人には落ち度がないのに被害を受けることによって、その精神状態は、さらに悪化してしまう。その結果、危険な状態になり入院を勧められ、3通の紹介状を持って病院を回った。

 1カ所目。診察した若い女性医師は「あなたにいちばん必要なのは休息。ここは重度の患者中心の施設だから安らげないだろう」と入院を勧めず、私たちは引き揚げた。
 2カ所目は異様な雰囲気だった。白衣を着た若い男性が待合室にいて、ぞんざいな態度で患者たちに指示をしている。診察室からは、医師の怒鳴るような大声が響いてくる。これでは患者のプライバシーなどない。
 私の同席が断られ、仕方なく妻ひとりを診察室に送り出すと、大声が聞こえてきた。「何されたって?それでどうした?」。こわばった表情で出てきた彼女に、私は「もう帰ろう」と言った。   
 3ヶ所目は大学病院。「消えてしまいたい」と訴える妻に、男性医師が「それはつらいですね。でも、自分を傷つける行為だけはしないと約束してください」と語りかけた。ここに決めた。数日後にベッドが空き、初めての精神科病院での入院生活が始まった。

 かなり追い詰められ、入院する本人だけでなく、その付き添いをしている家族も、おそらくは疲れ切った先の困窮にいるはずなのに、3カ所回らなければいけない。しかも、明らかに問題がある病院も、紹介されている現実がある。

「偏見」と「無理解」

 そして、こうした生活の困難さをさらに増大させている要素に、とても理不尽とは思うけれど、どうしようもなく「偏見」と「無理解」があることも書かれている。

 身体医師の間に精神科患者への偏見が存在するのを私は感じてきた。
 妻が救急搬送された際、いきなり、「何で精神病院に入院させないんですか」などと叱責されたことは一度ではない。救急退院が搬送先を探す際、身体状態が悪いにもかかわらず「まず精神科へ行って」と受け入れを拒む病院もあった。

 最も「偏見」があってはいけない場所で、こうした「偏見」が存在する。

日本の精神科救急の草分け的存在である計見一雄医師は「精神病患者に対する差別感情や偏見が一番強いのは、地域の住民ではなく、精神科以外の医者たちだ」と断じていたという。今は違うと言い切れるだろうか。 

 そして、それは、病院や医師だけにとどまらないことを、当事者や、その家族ほど感じている。重い気持ちにもなるけれど、今もはっきりと存在することを、改めて伝えてくれている。

 精神障害者の家族でいると、いやでも直面することがある。
 妻の病気を周囲の人に打ち明けると、「もっと厳しくしないからだ」と見当違いの説教をされる。「閉鎖病棟に閉じ込めておけばいい」と平然と言う人もいる。身体の病気やけがで医療にかかれば露骨に嫌な顔をされ、ときには治療を拒まれる。

 こういうとき、おそらく本当に絶望に落とされるのだろうと、想像する。

 ある家族会で、統合失調症の子を持つ母親が話した言葉が忘れられない。「台所で包丁を持っていると、わが子が不憫で思わず刺しそうになってしまう」。他の家族らもうなずいていた。
 何がそこまで追い込むのか。症状をケアする苦労だけではない。社会の無理解が当事者や家族に希望を失わせるのだ。

思い

 こうした作品を読むたびに気になるのが、書いた人と書かれた人のことだ。

 今回は夫婦とはいえ、ここまで書かないと伝わる力が弱くなるし、だけど、すぐそばでずっと一緒に生きてきた人のことだと考えると、著者は新聞記者だから、書く能力に問題はないとしても、でも、報道に携わっているだけに、余計に配偶者の苦境を明らかにしていいのだろうか、といった迷いが出るのでは、と思っていた。

 ただ、その想像自体が未熟なことが、「あとがき」で明らかにされている。

「奥さんの闘病について、連載記事を書いてみませんか」。かつて貧困問題をともに取材した同僚の清川卓史記者(社会保障担当編集委員)から、2017年にそんな提案を受けたことが、この本の発端でした。
 そのとき、「やる意味はあるが、実現可能性は極めて低い」というのが率直な思いでした。
 患者や家族から見た医療や福祉のあり方、精神障害への偏見、そうした問題について自分の体験を通して提起することは記者として取り組む意味を感じました。しかし、そのた目には、妻にとって思い出したくない過去を表に出さざるをえません。彼女が承知するわけがない。そう思いながら、ダメもとで本人に聞いてみたところ、意外な答えが返ってきました。 
「ぜひ書いてほしい。私みたいに苦しむ人を減らしたいから」
 彼女は続けました。――― つらい出来事の後遺症に苦しむ被害者はたくさんいるけれど、私みたいに新聞記者の夫を持つ被害者なんてめったにいないと思うよ。私は書く力はないけれど、あなたは書くのが仕事でしょう。代わりに発信してよ。
 私は迷いました。幼少期の虐待もあれば、大人になっての性被害もある。「本当に書いていいの?」。半年ほどの間、そう問いかけを続けましたが、「全部書いて」という彼女の思いはぶれませんでした。私も腹を決めました。

 とても理不尽で大変な経験をした上でも、こうして“誰かのために”という強い思いを持つ人がいる。そして、その思いを、覚悟をもとに書いているから、こうして強く伝わる力を持つのだと思う。

 とても優れたノンフィクションで、これを推す人が少なくないのも、当然な気がした。


 老若男女、どんな人であっても、できたら読んでほしい作品です。



(こちら↓は、電子書籍版です)。



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