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読書感想 『黒い海 船は突然、深海へ消えた』  「取材の意味。証言の重さ」

 この作品についての紹介は、たまたま、ラジオで聞いたのだと思う。

 そのとき、自分でも少し驚いたのは、17人も犠牲になった海難事故だったのに、まったく記憶にないことだった。

 その事故は、すでに15年ほど前のことだったし、どうして、今さら、という気持ちにもなったのだけど、その自分の感想も含めて、もしかしたら、そうした感覚が、重大な事実を埋もれさせ、忘れさせるのかもしれない。

 そんなことも感じ、読もうと思った。

『黒い海 船は突然、深海へ消えた』 伊澤理江

 その事故は、2008年6月23日に起こった。千葉県銚子市犬吠埼沖。漁船「第58寿和丸」が転覆して深海へ沈んだ。しかも、17人も命を落とすことになってしまった。

 これだけの大事故なのに、個人的には記憶に全くない理由の一つは、「秋葉原通り魔事件」が、同じ月の6月8日に起こり、この事件は、その動機や背景も含めての報道が長く続いていたから、視聴者の勝手な都合なのだけど、その印象に埋もれてしまっていたのだと思う。

この事故より2週間ほど前の6月8日には東京・秋葉原の歩行者天国で白昼、無差別殺傷事件が起きている。6月末になっても新聞やテレビは秋葉原の事件を繰り返し報道していたが、23日に起きた第58寿和丸の事故は早くも主要ニュースから消えた。

 その海難事故についての記憶の薄さは、おそらく読者にとっても、共通の感覚という著者の判断もあったせいか、冒頭は、その転覆事故の現場と、救助までの描写が50ページ近くも続いている。

 それは、生存者や関係者など多数の人に対して、かなり丁寧な取材をしなければ、不可能なことなのはわかるし、取材した時点が事故から10年以上経ってからのことだから、より困難さがあったのも想像できる。

 ただ、その丁寧な描写によって、この転覆事故から、救助に至るまでの間に起こったことが、どれだけ「異常」なことだったのかが、海にも船にも海難事故にも、ほぼ知識がない人間にも伝わるようになっている。

 船員にとっても、なじみのない衝突音や衝撃。
 信じられないほど、早く、転覆しただけではなく、海の中に沈んだことの異様さ。
 海に広がった、通常では考えられないほどの油の量。

 それらは、読者にも、印象づけられた。

情報の厚み

私が第58寿和丸に関する取材を始めたのは、事故から11年後の2019年秋だった。

そもそも漁船の事故のことをほとんど覚えていない。それはたぶん、多くの人も同じではないかと思えた。 

 著者も、その状態から取材を始め、そして、この作品が出版されたのが2022年12月だから、約3年の時間をかけているのだけど、読者としては、もっと長い時間をかけたような情報の厚みを感じた。

 この事故に関しては、それまでにもいろいろな報道があったはずだ。だけど、もしかしたら、今回の取材で初めて語られたかもしれない事実も多いように感じた。

 例えば、生存者の一人の「証言」。

事故の数ヶ月後、石巻港で陸に上がり、初めて入った居酒屋で一人で飲みながら食事をしていた時のことだ。
 隣の人と会話をしていくうちに第58寿和丸の事故の話題になった。相手は「塩釜の海上保安部かどこかで教官をやっている人」だったと豊田は記憶している。(中略)
 豊田は、自分が事故の生存者だということを伏せたまま相手に尋ねた。
「あれは事故なんですかね?事件っぽいようなウワサもありますけど、衝突した相手がある事故なんでしょうかね?どうなんでしょうね?」
 教官を名乗るその相手は「なんか、だいぶその可能性が高いみたいなんだけど、緘口令が敷かれているんだ」と言った。
 緘口令?
 なんだ、それは?
 豊田はそう思い、そのタイミングで名乗り出るようにして打ち明けた。
「やっぱりそうですか。実は溺れかけて助かったやつの1人なんです」
 すると、相手の顔色が真っ青になり、唇がワナワナと震え出した。以後、口を固く閉ざし、一切話をしなくなったという。

 こんなことがあったのか、といった印象的なエピソードだけではなく、関係者たちには、こうした思いもある、ということまで記録されている。

事故原因をめぐって国の調査に応じたときの話である。
「最初に自分の取り調べをした調査官は、確かに俺にこう言ったよ。『事件の可能性が高い』ってね」
事件の可能性ありと言いながら、なぜ、波による事故という結論に至ったのか。

なぜ、国は体験者の話をきちんと聞こうとしないのか。
私の質問に答える豊田の口調は一段と強くなった。一気にまくし立てるように、憤りを含んだ言葉が次から次へと飛び出した。 

取材の基本

 そして、生存者や漁船関係者や調査側にとどまらず、「日本で一番、油に詳しい人」「潜水艦のプロ」にまで、著者は取材を広げている。

 だからこそ、特に終盤に向かって、その推論も含めて説得力を増していく。その過程で、その取材手法についても少し触れられているのだけど、それは、とても基本を大事にした方法に感じた。

 誰に取材すべきかを調べる。メールなどで連絡を取る。応じてくれない場合だけではなく、必要な時には手紙を(複数回でも)出す。そして、実際に会えたときに、誠実に対応する。そうしたことの繰り返しで、初めて密度の高い取材が可能になることが伝わってきたように思った。

 1979年生まれ。英国ウェストミンスター大学大学院ジャーナリズム学科修士課程修了。その後、英国の新聞社、PR会社を経て、フリージャーナリスト。そうした著者の経歴の中で、こうした高い取材の能力を養ったのではと考えると、その経験自体も伝える価値があることだと思う(だから、大学でも教鞭をとっているのだと思いますが)。

取材の意味、証言の重さ

 さらに、読み進めることによって、どうして国側は、これだけ情報を公開しないのだろう、という著者や関係者の思いにも、読者も少しだけれども共感できるような気持ちにもなってくる。

 例えば、重要な関係者の一人は、この船の事故だけではなく、福島県の住民でもあるので、この年月の間に、原発事故に関しても、「責任者」として国と関わってきたことを、こう語っている。

第58寿和丸の問題にしても原発事故の対応にしても、自分は全てを引き受けるつもりで腹を決めて、敢然と問題に立ち向かおうとした。納得できないことは納得できないし、地元に根を張るしかない自分たちに他の道はなかったからだ。ところが、腰を据えて相手方と向き合おうとしても、かわされていくような感覚が拭えない。少なくとも、第58寿和丸の事故調査に関わった国側の人たちは、誰も真剣に自分たちと向き合ってくれたとは思えなかった。対話はいつも入り口で閉ざされた。

 そして、その状況が、おそらく今も変わらないのは、実は、国側の問題だけではないのでは。というように読者としても考えてしまうのは、例えば、著者が、取材を進めていく中で、「取材の意味」に関しての戸惑いや、もしかしたら怒りまで、伝わってくるように感じるせいかもしれない。

私は取材の相手から、すでに国が結論を出しているような古い事故をなぜ今さら蒸し返すのか、という問いを何度も受けてきた。同業者であるジャーナリストからは「新事実があれば書けるけどね」とも言われた。

 今でも日本だけではなく、アメリカ側にも、著者は情報公開を請求しているから、まだ究明自体も終わってはいない。ただ、どれだけ時間をかけても、原因の特定に至らないかもしれない、とどこか諦観と共に記したあとに、「証言」の重さと価値について、著者は、改めて書いている。

 それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた。事故や事件にまつわる記録はいつも〝強い者〟が作成する報告書や捜査記録、訴訟記録などによって「正史」として記され、後の時代に伝わっていく。しかし、これらの公的記録から排除されてしまった事柄は山のようにある。第58寿和丸に限定して言えば、運輸安全委員会の報告書の中に埋もれさせていいのかという疑問を拭えなかった。  
 「原因は波」という運輸安全委員会の調査の方向性が決まった途端、出来事への関心を失った者たちが、「新事実があれば記事になるけどね」と言っている。そこにも私は小さな反発を覚えた。

 決定的な新事実がなければ、第58寿和丸にまつわる事柄は書くに値しないのかといえば、そうではないはずだ。たとえ公的な記録から外れていたとしても、関係者の声に耳を傾け、事実を丹念に拾っていけば、記録に残す価値のあるものは、はっきりとした輪郭を伴って浮かび上がってくる。
 もちろん、それは第58寿和丸事故にのみ当てはまるわけではない。事故・事件に限ったことでもない。断片的に散らばったままの事実と記憶を丁寧に拾い集め、全体像を浮かび上がらせていく。その作業を必要とするものは、おそらく無限にある。

 これは「証言の価値や重さ」だけではなく、「報道の意味」まで、再確認を迫るような言葉だと思う。

おすすめしたい人

 報道に関して、興味がある人。

 ジャーナリズムについて、改めて考えたい人。

 事故報道の意味について知りたい人。

 社会的な問題について、考えたい人。

 ノンフィクションが好きな人。

 謎を追っていく緊迫感に興味がある人。

 やや重い読後感ではあるのですが、しっかりした取材をもとに書かれた作品ですので、今回の紹介で、少しでも興味を持った方には、ぜひ、読んでいただきたいと思っています。


(著者の所属している調査報道グループ「フロントラインプレス」のnoteです)。



(こちら↓は、電子書籍版です)。

 


(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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