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テレビについて(66)「エンディングのノスタルジーについて」---『負けヒロインが多すぎる』・『小市民シリーズ』

 本当は存在しない人物、どころか平面的な人間はこの世にいないし、絵が動いているだけなのに、そこに感情移入までできるのは、実はすごい能力だし、訓練されないと身につかないことではないか、と思うようになったのは、身近な高齢者の反応を見てからだった。


アニメを楽しめる条件

 103歳まで生きてくれた義母は、耳が聞こえなくなっても、テレビ画面の字幕を頼りにしながら、さまざまな番組を見ていて、特に料理に関することはバラエティでも、ニュースでもあらゆるジャンルにでも注意が行っていて、ティッシュの箱の裏などにメモをしていたのだけど、アニメだけはそれがなかった。

 もちろん本人の気持ちを完全に理解することはできないけれど、アニメがテレビ画面に映っていると、完全に関心がないように見えた。というよりも「絵が動いている」ことに興味が全く向かないように思えた。

 21世紀に生きていて、今では高齢者(65歳以上)でも、小さい頃からアニメを見ている人も少なくないから、当たり前のようにアニメは共通言語として語られるのだけど、その一方で、ある年齢までに、この独特のアニメの文法のようなものに触れていないと、関心を強く持つのは難しいのではないかと考えるようになった。

アニメのオープニングとエンディング

 アニメ番組にオープニングとエンディングの映像(楽曲付き)があるのは、どうしてだろうと思うことはある。

 同じように疑問に思う人もいるし、それに対して、さまざまな答えを語る人たちもいる。オープニングで、その世界観に招待するためや、そこに主題歌があることで商業的にもヒットを狙うため、といった説明がされて、どれも納得がいってしまう。

 個人的には、アニメ制作という想像もしにくいほどの膨大な作業を、少しでも減らすためではないかと思ってきた。本編は毎回、本来ならば間に合うはずもないような時間内で制作をしているようで、(その大変さは、深夜アニメでも、特別編など、急に声優さんがストーリーや見どころを語る回があったりすることで、想像してしまうが)、だから、オープニングとエンディングの映像は、一度制作してしまえば、毎回流してもおかしくないし、その分、本編を短くできるから、だと思ってきた。

 それが正解かどうかもわからないものの、オープニングやエンディングが印象的だと、確かにそのアニメ自体を記憶する密度が高くなるような気はする。

学校を舞台にするアニメ

 今は1年を通して放送するアニメはほとんどなくなった。半年でも長い方で、3ヶ月で終わるのがほとんどになった。

 だから、2024年の夏アニメ、というくくりで放送が始まるのだけど、とても全部は見られない量になる。

 それでも、いくつかの作品を見る。

 『氷菓』が良かったので、『小市民シリーズ』も見ることにした。

 自分が小学生の頃、岐阜県に住んでいたから、岐阜市が舞台になっているのは、勝手に身近にも感じた。

 夜中にぼんやりとテレビをつけて、『負けヒロインが多すぎる』というアニメも見た。

 やや変形はしているけれど、ヒロインが多い、というある種のハーレムアニメではないかと感じた。

 
 どちらも高校を舞台にしたアニメであり、自分ではおくれなかった楽しそうな学生生活でもあり、さらにはエンディングテーマの映像が似ていると感じた。

エンディングのノスタルジー

 番組の最後を飾る楽曲が流れ、そして、実写の画像や映像と、アニメの両方が使われている。

 わかりやすい行事などではなく、教室の隅っこや、普段はあまり使わなそうな階段や、ロッカーのそばのゴチャゴチャしたところなどに焦点を当てられ、両方とも実在の高校があるようなので、そこに通っていた人にとっては、「あ、ここ」とすぐにわかるように思えそうだけど、どこの学校に通っていた人にとってもなつかしさを感じさせるはずだ。

 こうした実写の映像とアニメの合成(という言い方がもう違うのかもしれないが)は、昔から使われていて、以前の印象は、アニメ制作の時間を稼ぐために、実写を利用していた、というものだったのだけど、今は、オープニングとは違って、視聴者をゆるやかに実世界に戻すためにそうした映像を使っているように思えるし、さらには実写の映像の方がノスタルジーな気配が強くなるようにも思う。

 それは、一種の映像作品でもあるから、その完成度によって、確かに次も見たい気持ちにはなるので、どちらもよくできていると感じる。
 もしかしたら、他のアニメでも、同じような映像があるのかもしれないが、でも、学校を舞台にしたアニメの方が、こうした作り方をしているのが目立つような印象がある。

学校の変わらなさ

 そんなことを考えるとき、思い出す言葉がある。

 確か、NHKで放送された『ニッポンのジレンマ』の中で、教育の専門家が、こんな話をしていた。


---現在の学校に、保護者の方と一緒に行くと、ほぼ必ず、なつかしい、という。   だけど、考えたらおかしいことではないだろうか。
 
 保護者にとっては、学生時代は場合によっては何十年も前のことになる。

 それなのに、今の学校へ行って、なつかしいと感じさせてしまう、ということは、それだけ、学校という場所が変わっていない証拠ではないか。

 時代が変わって、学校の問題点も指摘されているのに、それだけ変わらないこと自体がおかしくないだろうか---。


   それを聞いたとき、かなり納得したし、今回、アニメのエンディングで、学校の光景が実写も含めて表現されたのも、今も学校という場所が、かなり上の世代のノスタルジーも刺激できるから、という理由もあるのではないかとも思った。

 
 個人的には、特に教室という場所が、もっと流動的でありながら安心できるような設計にできないだろうか、と思っています。昔を知っている人にとって、違和感があるような新しさがあれば、とも願っています。


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