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「大人になっても友達ができる、という希望」---岡村靖幸+斉藤和義

 しばらく見ていなかった深夜の番組を録画したのは、ベテランで、とても音楽家らしいミュージシャンが二人で出る、ということを知ったからだった。

 あのちゃんが、ゲストを招くというスタイルで、そこにネコに扮した粗品もからむ。最初は毎週見ていたのが、そのうちに見なくなってしまっていたのは、どうしてだか自分でもわからないのだけど、失礼ながらちょっと飽きてしまっていたのかもしれない。


岡村靖幸と斉藤和義

 自分が情報に弱いだけかもしれないけれど、岡村靖幸と斉藤和義が二人で、このあのちゃんの番組に出る、というのは不思議だった。もうどちらも長く音楽活動をしていて、そして、二人ともテレビでそれほど多く見るわけでもなかったせいだ。

 だけど、その深夜の番組には、その二人でフラっと現れていた。

 どうして、この番組に出ようと思ったんですか?といった最もな質問にも、この番組が好きなんです、と岡村が答えていた。

 どんな相手にも基本的には丁寧な言葉を使い、だけど、硬すぎないで、近づきすぎないけれど、遠すぎないような距離感を、ここでも保っていて、それは、ちょっと疲れたような、だけど、少し柔らかな表情での斉藤和義も、言葉遣いは違うものの、人との距離感の保ち方は似ているとも思った。当然のようにレジェンド扱いをされていたが、それをさりげなくスルーする感覚も近い感じがした。

 そして、話しているときより、やはり、3人でセッションとなって、音楽になると、やっぱりなんだかすごかった。あのちゃんも、思った以上に適応力があるのを改めて知った。

 何より、この2人のミュージシャンが一緒に組んで、そして岡村和義、というユニットとして曲も出しているのを、恥ずかしながら初めて知った。

 意外だったのだけど、自然にも見えた。

ソングス

 そのあとに、今度はNHKの「ソングス」という番組にも、岡村和義として出演していて、当然ながら、このユニットが本気なのだと思わせた。その番組のタイトルが「最強のともだち」というタイトルになっていて、だから、視聴者としてはかえって気持ちが構えてしまう部分もあったのだけど、でも、この番組は曲を演奏し歌うだけではなく、短いドキュメンタリーのような映像もはさまれていた。

 そこでは、二人が、まだ将来がどうなるかわからない若い時に、音楽への気持ちだけは強かったのだろう、ということが推測できるような話を二人でしながら、吉祥寺のまちを歩いていた。

 そのことで、当時はお互い知らなかったけれど、それこそ、ほとんどご近所と言えるような近い距離に住んでいたことを初めて知ったりもしていて、そこに静かな感動のような、偶然だけど必然のような空気が画面越しでも流れていたように見えた。

 その映像の中で、岡村が、大人になっても友達ができる、といったことを、ずっと感情を抑制しているように話すスタイルで、同じように語っていたのだけど、それは、全く関係ない人間にも、よかったと、少しうれしくなるような言葉だった。

 それが、本当に感じたせいだ。

 二人とも50代後半で、30年のキャリアを持っている。とてもその年齢には見えないけれど、かといって年齢よりもこれみよがしに若く見える、ということでもなく、昔は高齢者という概念がなく、その仕事で活躍していればずっと敬意を持たれるということがあったらしいが、彼らはプロのミュージシャンであり続けて、そこでは年齢はあまり関係がない、ということを見せてくれているように思えた。

 だから、二人は若い時から、ずっと変わらないように感じる。

岡村靖幸

 岡村靖幸がデビューしたのは、1986年だから、バブル前夜のことになる。

 それほど音楽に詳しくない人間にまで「岡村ちゃん」と言われるような、そして、その呼び名にどのような意味合いがあるのかわからないものの、その音楽を聴くと、おしゃれでかっこいいけれど、何かそれだけでない独特な作品、というのは伝わってくるような気がした。

 アイドルのような、スターのような印象があった。

 小室哲哉の全盛期と言える1990年代にミュージシャンを招いてトークをするという番組をしていて、それは、小室が何も言わなくても、出演したミュージシャンが音楽のことを本気で話をしている気がして、興味深かったのだけど、そこにも岡村靖幸が出演したことがあった。

 その時の岡村は、プリンスのことを熱心に語っていたことが印象に残った。
 それも、その華やかな生活について、その夜ごとにパートナーを指名するようなことについて、話していたように思えた。

 岡村自身も、女性にもモテそうで、そういう人間にはモテない人間は勝手に警戒心を持ってしまうのだけど、不思議とそれほどうらやましい感じがしなかったのは、その話への熱量がよくわからないせいだった。

 ただ、岡村には、その後、いろいろなことがあった。

 ただの視聴者に過ぎないのだけど、才能があって繊細で、だから、不安定になってしまうこともあるのだろうか、などと思えていた。

 それはとても勝手な印象だけど、でも、2010年代に、急に深夜番組で歌う姿を見たときは、才能は変わっていないように見えた。どこか艶のある曲と声のままだった。独特の存在、という表現が似合うミュージシャンのままに見えた。

 どんなことがあっても、音楽を続けている人に見えた。

 同時に、孤高の人なのだろうかとも勝手に思っていた。

斉藤和義

 斉藤和義は、うらやましい存在だった。

 最初は「ポンキッキーズ」で使われた「歩いて帰ろう」で歌っている姿で知ってたが、その後も、さまざまな楽曲を発表し、気がついたら、知名度が圧倒的に高くなっていた。

 1993年8月25日にシングル『僕の見たビートルズはTVの中』でデビュー。
翌年にリリースされた『歩いて帰ろう』で一気に注目を集める。
代表曲である『歌うたいのバラッド』『ウエディング・ソング』『ずっと好きだった』『やさしくなりたい』は様々なアーティストやファンに愛される楽曲となっている。
 自他共に認めるライブアーティストであり、弾き語りからバンドスタイルまで表現の幅は広い。
 また自らの音楽活動に加え、様々なアーティストへの楽曲提供、プロデュースの他、他ミュージシャンとの活動も積極的に行っている。

(『SPEEDSTAR RECORDS』より)

 プロのスポーツプレーヤーと、ミュージシャンというのは、個人的には若い時の夢や思いをそのままかなえた存在だと思っていて、それだけで輝かしいあり方だと思っていた。

 さらに、何より作品の質とポピュラリティのバランスもいいように思えたし、しかも同業者の評価も高い。それに、インターネット上の無責任な噂かもしれないけれど、ミュージシャンの中でも、かなりモテるというようなことを知った。

 その上で、それほどたくさんの発言をしているわけでもないのだけど、有名になったとしてもさまざまな制約がありそうな業界の中で、比較的、自由度が高く生きているように見えていた。

 だから、うらやましい存在だった。

2011年には稀代のドラマー、中村達也とのロックバンド「MANNISH BOYS」を結成、
2018年には寺岡呼人・奥田民生・浜崎貴司・YO-KING・トータス松本と共に「カーリングシトーンズ」も結成。
さらに2024年からはソロアーティストとして30年以上に渡り独自のスタイルを歩み続けてきた岡村靖幸とのユニット「岡村和義」の活動もスタート。
デビュー30周年を迎え、なお、多岐に渡るスタイルでの精力的な活動が続いている。

(『SPEEDSTAR RECORDS』斉藤和義プロフィールより)


 本当のところはわからないけれど、音楽への取り組む方が、ずっと変わっていないし、老けるわけでも、無理に若くあろうともしないけれど、でも、ずっとプロの気配があるミュージシャンだと思っていた。

 うちにもベストがあるのは、妻も好きなせいだ。

岡村和義

 音楽そのものにもそれほど詳しくなく、その情報も多く知っているわけではないから、岡村靖幸と斉藤和義の二人が組んだことは、あのちゃんの番組で初めて知った。

 だから、それほど知らない人間が思う資格もないのかもしれないが、違う道を歩いていた、どちらも優れたプロフェッショナルが組んだ、というような、意外だけど、それに自然さを感じたのは、やはり、二人で制作した楽曲を聴いたからだと思う。

 作詞・作曲・編曲はすべて岡村和義名義になっているけれど、当然ながらいっしょにつくっているといっても、いろんなパターンがあるはずで、『ソングス』で二人が語っているのを聴いた時は、この楽曲は、岡村靖幸がアレンジをしたら、それによって、「一瞬で」歌詞を書いたのが、斉藤和義のようだった。それに対して、岡村は「感動した」と表現していた。

 そして、この「サメと人魚」は、視聴者としては、昔からあるようで、でも、聴いたことがないような楽曲に感じて、不思議だった。

岡村 やっぱり僕らがもともと友達だったのがデカかったんですよね。最初に会ったのは10年ちょっと前ですけど、それからいろんな夜やいろんな朝を2人で重ねてきて、2人で作った思い出もたくさんある。僕は斉藤さんのこと本当の親友だと思ってるんです。それくらい仲良しじゃないと顔を突き合わせて曲を作るなんてできないですから。

斉藤 最初はただ飲んでただけだったんですけどね。あるとき飲み屋に置いてあった楽器でセッションみたいなことを始めたら2人でずっと遊んでいられて。俺はフリーでジャムセッションしてそこから曲の形にしていくのが昔から好きなんですけど、そういう人は意外と多くなくて、特に歌を歌って詞も書いてみたいな人はあんまりそういうことをしない。でも岡村ちゃんと出会って「一緒にやれる人がいた!」という喜びがあって、そこからさらに仲よくなっていって。それが7、8年前ですかね。

(「ナタリー」より)

 インタビューでは、その制作方法も語っている。

──作詞・作曲・編曲のクレジットはすべて「岡村和義」名義になっています。実際の制作はどのように行っているんですか?

岡村 けっこう本当に半々で作ってます。僕がAメロを作って斉藤さんがサビを作ったり、歌詞も2人で顔を突き合わせながら書いたりとか。2人で往復書簡みたいにして作るときもありますし。

斉藤 普段1人でやってるとやっぱり手癖というかね、「メロディの傾向としてこっちにいっちゃうよな」とか「この続き全然浮かばねえな」みたいなことがあるんですけど、今は相手に「次の展開ないかな?」と投げてみると「おお、その発想はなかったな」ってことになる。思ってた以上のものが返ってくるのが面白いんですよね。

──お互いを信頼してるからこそできるスタイルですね。

斉藤 あの岡村靖幸だからなんの心配もないぞ!みたいなところはありますね。多いときは週に2、3回スタジオで飲みながら、馬鹿話もしながら、ああだこうだと朝6時、7時までいろいろ録ったり、それを持ち帰って楽器足したり整えたり、次に会ったら別のアイデアが生まれたり。そんなことをゆるゆるやってたら何曲もできて、それをこの1年半くらいずっとやってた感じですね。

──それはすごく楽しそうですね。
岡村 うん、すごく楽しいです(笑)。「I miss your fire」のミュージックビデオでも「2人が楽しそう」っていう感想を見かけましたけど、仲が悪かったらあれは撮れないですから。
斉藤 2人で作ってると「なんだ、曲作り簡単じゃん」なんて気にもなったりしてね(笑)。

(「ナタリー」より)


 お互いがプロで、長年同じ仕事をしていて、大人になってからかなりの年月が経ってからでも、こうして仲のいい友達になった上に、一緒に仕事もできて、その仕事の質も高い。

 それは、とても希望が持てることだと思う。



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