16ビートはやお
自分の人生を振り返って大切なものを考えたり考えなかったりするブログです。
母との思い出の話です。 癌で闘病していた母が自宅で倒れ、旅立つまでの五ヶ月間のお話です。僕の母が生きてきた証として書き残しています。
危険なヤツらの危険なエピソード
SUPER COOLバンド、ZOOZのあれやこれやを綴ります。
人生って何なんでしょうねぇ。分からないけど考えることは楽しかったりしますよねぇ。
[1]忘れられたくない 小さい頃から書き物をはじめとして「後世まで残るもの」をやけに意識して生きてきた。大学に入るとそれは「研究めいたもの」に変わり、図書館の奥深くに入っては、死後数百年経っているのにまるで呼吸しているかのような埃の被った本を拡げて、自分もきっといつかは図書館に眠る本の一冊になるんだと信じていた。そうすれば体は亡くなっても頭は、自分の思考は社会に生き続けるような気がしていたからだった。 学生を終えてから「後世に遺りたい」欲求は文字ではなく、音楽や生き様み
[1]間違っていない人の末路 「自分の判断基準は間違っていない」という考えをなるべく捨てるように心がけている。悩み抜いて導き出した答えだって、振り返れば大きな間違いだったりする。 大事なのはあの時の自分の考えは間違っていた、あるいは最善ではなかった、ここは良かったけど、ここは悪かった、と反芻し続け、柔らかく認め続けることだと思う。 「自分は間違っていない」「悩み抜いたのだから、正しいと認めてほしい」という気持ちからやってくる意固地な自己暗示は、「間違いと認めない限り、そ
【前回-その⑨-】 母の部屋の遺品整理と、その部屋で、かつて元気だった母と話していたことを思い返しています。 [35]未服用の薬 ひとつ、気がかりなことがありました。母の部屋を遺品整理しているとき、癌の薬の一部が、明らかに服用されていない状態で大量に出てきました。なんでこの薬だけ大量に、と思っていると、隣にいた甥っ子が「おばあちゃん、これきらいって言っててん!この細長いクスリ!」と教えてくれました。 僕はそれを聞いて「いかにも母っぽいな」と思いました。終活なんて一切
▶︎各種サブスクリプション [1]気がついたら産まれていたのに難産だった 不思議な話ですが、僕はこのアルバムの曲達ができた過程をあまり覚えていません。もともとZOOZは多作も多作、曲が溢れでてきて困ってしまうくらいなのですが、3rdアルバム『Night』や、4thアルバム『Deneb』に関しては、終盤に所謂「産みの苦しみ」みたいなものがあったような気がします。しかし、今作はそう言った記憶がほとんどありません(メンバーで僕だけかもしれませんが)。 なんだか「冷蔵庫に入って
[1]分かり合えない人たち 分かり合えない人たちがいる。攻撃的な言葉や態度で人を傷つけることを厭わない人がいる。そういった人たちに抗っても、攻撃的な自覚がないものだから、更なる攻撃性を纏った言葉や行動が滝のように溢れてきてしまう。 疲れた。そういった他人と関わることで発生する気持ちのささくれが、電車で隣の人が怪訝そうにしていても脚を広げて座る誰かが、誰が誰を持って帰っただの、大声で話す知らない人が、メールだけだとやけに攻撃的な誰かが、自分が都合良く傷つくには十分すぎる条件
[前回 -その⑧-] 母の葬儀が終わり、忌引休暇の間に母の部屋の整理をしていた話です。部屋を片付ければ片付けるほど、母が居なくなる感覚になりました。 [32]明朝のコンビニ 葬儀から数日が経ち、兄と一緒に母の部屋を整理しました。母が倒れた日、2023年11月5日のまま、部屋の時は止まっていました。母の部屋は整理されていましたが、それはあくまで「普段通り」整理されていて、所謂「終活を意識した」整理ではありませんでした。次のシーズンに着る予定だったタグのついたままの服や、
[1]甘えることができない 甘えることができない。それは小さな頃から、「自分がしっかりしなくちゃ生きていけない」という環境から生まれてくる癖や、思考だったりする。 小さな頃から母は暮らしを成立させるために朝から晩までがむしゃらに働いていたし、兄も早くに自立して家を出ていったので、僕はずっと一人だった。母に迷惑をかけてはいけないと、気を張りながら暮らしていた節があった。勉強もそう、学校生活もそう、心配をかけないというところに重きを置いて暮らしていた。 甘えることで母に迷惑
【前回-その⑦-】 最期を看取ることはできず、仕事を急いで切り上げた僕は、病院に併設された霊安室で穏やかに眠る母と対面したのでした。 その後すぐに母は実家の自室に運ばれましたが、入院中何度も「帰りたいわぁ」と話していた願いは、生きている間には叶いませんでした。話は母が亡くなった日、病院から母を運んで実家に帰ってからバタバタした時間帯からになります。 [28]眠る母 実家に帰ってから兄は、母に線香をあげ、すぐさま喪主として葬儀関係の方と打ち合わせに入りました。その間、
[1]熱量を持って取り組めばなんでも面白い バンドと会社員を行ったり来たりしていると、「人生にかける熱量」みたいなものの高低差にクラクラしてしまうときがある。 最近の人生のテーマは「全部全力だよ!もう!生きてるんだから!!」みたいなところがあり、順調に積み重なる「疲れ」だけが日々問題になるだけで、生きている時間はそれなりに有益に使えている気がしている。 会社員として熱量を持って働くことは、個人的には案外簡単だったりする。会社では熱量を持って取り組む人の母数がバンドよりも
【前回-その⑥-】 [25]病院には入らなくていい 母が亡くなりました。最後の面会から二日後、2024年4月5日のことでした。 朝10時過ぎに兄から連絡がありました。「もはや血中の酸素濃度が測れなくなってるらしい。呼吸器が追いつかない。」僕は仕事を切り上げるために、会社の人たちに引き継ぎをお願いしていました。もう何回も急に休んだりしているのに、皆、優しく対応してくれました。 ようやく会社を出るという頃、兄から再度連絡があり「母の呼吸数がもうだいぶ落ちている」とのことで
[1]気持ちを考える 「本当に、相手の気持ちを考えることができているか。」 相手の気持ちを考えることが「できる」といっている時点でかなり烏滸がましいなと思いながら、それでもできるだけ、相手の気持ちにいかに寄り添えるだろうか、いうことを毎日繰り返し自問している。そしてそういったものを行動に移したり、移せなかったりで時間が過ぎていく。 時に連絡したり、時に敢えてただ見守ることも、相手の気持ちに寄り添う上では必要だと考えたりしながら、一人ひとりの適正な寄り添い方をずっと探して
【前回-その⑤-】 呼吸器をつけ、瞳を動かすことしかできなくなった母との面会の話です。僕はまた、子どもの頃の母との思い出を携えて病院へ向かいました。 [22]二度目のぬいぐるみ 翌日も病院へ行き、呼吸器をつけた母の瞳をじっと見つめていました。言葉を交わさず、そっと、自分のリュックから、倒れる前の母が編んでくれた巾着を取り出しました。僕の好きなドラえもんのお腹を模した巾着で、母からもらう最後のプレゼントになってしまったものでした。 その巾着からおもむろにまた、ボロボロ
[1]他人の欲求を満たすということ 仕事はとても簡単だと思う。人の大半は「誰かが自分の不満や不平を解決してくれるのを文句を言いながら待っている」ことが多いので、そういった類のものを先廻りして解決しておくだけで評価してくれるし、暮らしも保証してくれるし、損失が出たとしても会社が補填してくれたりする。 ある種の他人の欲求を満たすことで、自分の人生がそれなりに上手く回る仕組みができている。ブラック企業はそういった先廻りを全て企業が搾取するけれど。 けれど、プライベートな領域に
[1]命とお金 亡くなった母の財産分与が一段落して、兄が封筒を僕に渡してくれました。僕はシンプルに「お母さんがお金になっちゃった!」と思っていました。 母が癌になって亡くなるまでの間、僕と兄で医療費を折半し続けていたのだけど、ちょうどその累計の医療費よりも少し多いくらい返ってくることになり、母は自分の人生にかかるお金を結局全て自分で払いきったんだなと感じていました。しかも、闘病中は息子達に親孝行をさせてくれるなんて、改めて母はかっこいいなと思いました。 しかしながら、お
【前回-その⑤-】 面会の度に容態が悪化する母。分かっていても受け入れ難い現実から目を背くように、在りし日の母の幻影を求めて街を歩く話です。 [18]現実 春が近づいてきた3月上旬にようやく予約が取れ、3週間ぶりに母の元へ面会に行きました。病院までの道のりは、自分が小中高と過ごした街を通るために90分かけて歩いて向かいます。毎回少しずつ道を変えて、色々な思い出を呼び起こしながら歩くようにしていました。 頭の中を母との思い出にいっぱいにしてから病室にたどり着くと、母はぼ
[1]優しくならない 「歴史は繰り返す」原因のほとんどは、人間の心が進歩しないからなんだろうな、と思う。「進歩」というと少しニュアンスが鈍ってしまうのだけど、人間がいつまで経っても「優しくならない」というと、少し分かりやすくなるかもしれない。 他人の幸せよりも不幸の方が濃い味がするし、自分より下の人がいると安心するし、面倒なことは他人がやってくれたらそれでいいし、自分の幸せはなるべく独り占めしたいし、いかんせん、自分が一歩も動かず周りが堕ちていってくれれば気分が良いという