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分かり合えない人たち

 このエピソードは、NPD(自己愛型パーソナリティ障害)患者ないし精神病質者、いわゆるサイコパスには、わたしたちがまだ知りえない脳神経の異常が隠れているかもしれない可能性を示唆している。しかしこの問題は突き詰めると、「人間に自由意志があるのか」「それとも自由意志は存在せず、自己決定と思っていることも、脳神経の状態が決めているのか」「人間の人格はすべて神経科学で説明できるのか」という哲学的問題に行き着く。〜中略〜、「脳の問題だから、仕方がない」ということで、その社会的異常性を免責できるのだろうか。

西多昌規『自分の「異常性」に気づかない人たち 病識と否認の心理』139頁

[1]分かり合えない人たち
 分かり合えない人たちがいる。攻撃的な言葉や態度で人を傷つけることを厭わない人がいる。そういった人たちに抗っても、攻撃的な自覚がないものだから、更なる攻撃性を纏った言葉や行動が滝のように溢れてきてしまう。
 疲れた。そういった他人と関わることで発生する気持ちのささくれが、電車で隣の人が怪訝そうにしていても脚を広げて座る誰かが、誰が誰を持って帰っただの、大声で話す知らない人が、メールだけだとやけに攻撃的な誰かが、自分が都合良く傷つくには十分すぎる条件が社会には整いすぎている。
 僕は時たま、こういった分かり合えない人たちを「もう脳がそうなっているから仕方ない」と諦めることで自分の気持ちを落ち着けている。もう少し詳しくいうと、「あの人の脳の仕組みは他人を配慮する機能を持ち合わせていないから人を傷つけても何とも思わない。僕たちは距離を置くか、距離を置けないのなら、台風が過ぎるのを待つように、相手の興味が過ぎるのを待つしかない」と諦めることしか解決策がない。
 だからといって、人に迷惑をかけるような、人の心をスパイクで踏み荒らすような行為は、脳の問題だから許されるのだろうか。痛みに鈍感な人たちで構成される世の中は息が詰まる。踏み荒らされた人たちの多くの泣き寝入りで世の中は成り立っている気がしなくもない。

[2]深い反省
 しかしながら、僕はしばしば「他人の気持ちを考えること」を他人に押し付けてしまう。自分が多少そういった部分に繊細なものだから、親しくしたい人がいると、自分の繊細さを相手に強要してしまったりする。「もう少し、周りの人がどう考えて発言や行動してるか、全部汲み取れなくて良いので汲み取る勇気を持ってくれると嬉しいです」と言ってしまったりする。
 しかしこれが脳神経の構造上の問題で、相手が他人の気持ちを汲み取ることが難しい場合、僕は無理難題を押し付けていることになる。自分の正義や住み心地の良い環境を、相手の能力を超えてお願いしていることになる。
 これは果たしてエゴなのか、エゴでないのか、それとも両方なのか。しかしながら通常の社会に生きるだけで、自分は相当のダメージを受けながら暮らしている。黙っていれば心の体力は削がれるし、声をあげればエゴかどうか苛まれることになる。結果的にそういった諸々に疲れてしまい、誰とも関わりたくない時間が必要になってしまう。
 どうも、生きづらい。どうも生きづらいけれど、その折々に触れてバランスを取って生きていくしかない。自分の脳の構造が、そうなのだから。そうやって人生のデリケートな部分をやり過ごしていく。

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