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母の話-ハゲタカのぬいぐるみ-その⑥

【前回-その⑤-】

 呼吸器をつけ、瞳を動かすことしかできなくなった母との面会の話です。僕はまた、子どもの頃の母との思い出を携えて病院へ向かいました。



[22]二度目のぬいぐるみ
 翌日も病院へ行き、呼吸器をつけた母の瞳をじっと見つめていました。言葉を交わさず、そっと、自分のリュックから、倒れる前の母が編んでくれた巾着を取り出しました。僕の好きなドラえもんのお腹を模した巾着で、母からもらう最後のプレゼントになってしまったものでした。
 その巾着からおもむろにまた、ボロボロのハゲタカのぬいぐるみを取り出しました。病室に持ってくるのが二回目になるこのぬいぐるみは、僕と母を小さい頃から現在まで強く強く繋ぐ、沢山思い出が詰まった唯一の存在でした。あんたは本当、小さい頃からなんも変わってないなぁ、と愛想を尽かされ笑われる僕の切り札でした。登場は二回目ですが、ここぞというときの、最後の切り札なのです。
 母は表情こそ変えませんでしたが、唯一自分の意思で動かせる瞳でボロボロのハゲタカのぬいぐるみを追い続けていました。母は確かに視界の中にぬいぐるみを入れ続けていました。少し母と繋がった気がして、病室を後にしました。
 家に帰って、母の編んだドラえもんの巾着からハゲタカのぬいぐるみを取り出し、「本当によく頑張ってくれてありがとう」とぬいぐるみを労いました。半分は母に向けた言葉だったのかもしれません。僕は今まで、このぬいぐるみに僕は幾度となく助けられてきました。今日もそうでした。ぬいぐるみは少し誇らしげな表情をしていました。



[23]瞳の力
 三日後、仕事中に兄から連絡が入りました。「今すぐ病院に来てほしい」。急いで上司に相談し、無理やり引き継ぎをして病院へ向かいました。僕の到着が遅く、病院の前に親族が集まっていました。皆、母との面会を済ませて僕を待っていました。
 親族と軽く会話を交わし、また一人、母の元へ向かいます。三日前よりも息が浅く、付けられた呼吸器の酸素濃度をマックスにしているらしいのですが、それでも体に酸素が行き渡らないようでした。癌の影響もありますが、慢性的なタバコの習慣も影響しているのでしょう。ただただ苦しそうでした。
 母の目はもはや半分ほどしか開かず、口を開けたまま虚になっていました。とりあえず体を撫でたり、顔を見れて嬉しい、ありがとうと声をかけたりしていましたが、そのほとんどは、半分しか開かない目をじっと見つめて傍にいることしかできませんでした。でも母は、声が出せない、自分が朦朧としている状況を自覚しているはずなので、傍にいることが何かの安心になればいいなと思っていました。確実に、瞳の力は小さく、弱くなっていました。
 相変わらず面会時間は15分しかないので、いつもの通り、「また来るね」といって手を振ってる姿を見せて病室を出ました。後から知りましたが、兄はそんな母の姿を見て思わず涙してしまったようで、母の妹に「お母さんに泣いてる姿見せちゃいかんよ」と軽く嗜められていました。


[24]アルバム
 もう母が今日明日にでも容態が変わる、という状況が状況なだけに面会の後、スーツ姿のまま兄の家に直行し、連絡がきたらすぐ改めて病院に向かえるよう待機することになりました。
 「待機」というのは本当にすることがありません。兄も、兄のお嫁さんも、眠そうにテレビを眺め、小学生の甥や姪は、無邪気にスマホのゲームをしていました。こうしている間にも、母は癌と闘っているのですが、なんともいえない停滞した空気が流れていました。
 会話の流れから、兄がアルバムを2冊、母の部屋から持ってきました。僕と兄がまだ幼い頃の写真が沢山スクラップされた、15年振りくらいにみる母お手製の分厚いアルバムです。アルバムを眺めながら、ああだこうだと思い出を話していました。
 アルバムには声も性格も知らない僕の父親も写真に収まっていました。兄のお嫁さんに「目元がそっくり!!」と言われました。「確かに」と言いながら写真を繁々眺めていましたが、どうやら僕はその人の子どもらしいのです。
 そして今まで子ども、つまり自分や兄を中心にアルバムを見ていたのであまり着目をしていなかったのですが、「母」を中心にアルバムのページを繰ってみると、そこには時代の流行りを取り入れた服を着て、化粧をし、楽しげに笑う可愛い綺麗な母がいました。子どもの成長とともに、写真に映る当時の母は確かに人生を謳歌していました。
 子どもは育ち、写真に映る母の年齢を超え、時間が過ぎ、今は育ててくれた母を看取ろうとしている。母は今も病室でなんとかかろうじて生きている。この写真を笑顔で撮った数十年後に、こういう未来が待っている。アルバムを見ながら、その過ぎた時間の厚みと無情さに押しつぶされそうになりました。僕と兄で母の葬儀の話をしている今と、アルバムに映る笑顔の母との落差に、悲しみが溢れてきました。その日は結局、何も事柄が進みも戻りもせず、家に帰りました。


(続く)

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