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母の話 -ハゲタカのぬいぐるみ-その⑧

【前回-その⑦-】

 最期を看取ることはできず、仕事を急いで切り上げた僕は、病院に併設された霊安室で穏やかに眠る母と対面したのでした。
 その後すぐに母は実家の自室に運ばれましたが、入院中何度も「帰りたいわぁ」と話していた願いは、生きている間には叶いませんでした。話は母が亡くなった日、病院から母を運んで実家に帰ってからバタバタした時間帯からになります。


[28]眠る母
 実家に帰ってから兄は、母に線香をあげ、すぐさま喪主として葬儀関係の方と打ち合わせに入りました。その間、僕は自然な流れで小学生の甥と姪の二人と、起きることのない母のすぐ横で遊ぶことになりました。
 甥と姪は、かなり母に可愛がってもらっていたらしく、慣れた手つきで母の部屋の引き出しを開け、おもちゃや文具を取り出したり、母と遊んだ思い出を湯水のように話してくれました。数時間、横たわる母の真横で甥と姪と遊び、時に母を忘れるほど白熱していたので、母はせっかく自室に帰れたのに気を良くして眠れなかったと思います。
 僕はその日、ZOOZでライブに出演する予定でしたが、どうやらこれは今日は出演できる状況ではないことが明確になり、バンドやライブハウスに連絡を入れることにしました。
 起きない母の目の前で京都GROWLYの安齋さんに連絡をいれました。「それは当然、お母さんに時間使ってあげて。全然気にせんで良いよ!」という言葉を受け、ZOOZは急遽ドラム抜きのアコースティック編成にて出演することになりました。改めて皆のおかげでバンドができているんだなとも思いながら、今日は申し訳ないけれど母のために時間を使わせてもらうことになりました。
 夜になると仕事が終わった親族が順に母の元へ集まってきましたが、哀しみに暮れるためには、全力で遊びたがる子どもは少し敬遠されるのかもしれません。僕は別室で甥と姪の遊びを一心に受け、何時間も全力で手を抜かず遊んでいました。哀しみと疲労と、各所に迷惑をかけちゃったなという目まぐるしい落ち着きのなさを抱えて、夜遅くに自宅に帰りました。


[29]ライブ
 母が亡くなってから葬儀告別式までの間の数日間、母は自室に安置されることになりました。なんの因果か葬儀告別式が行われるまでの間に、僕が1日で50曲、合計3時間ライブをするというとんでもない自主企画が挟まっていました。ZOOZも、ガストバーナーの面々も、多くは口にしませんでしたが僕の心配を真っ先にしてくれました。
 ライブ中はあれだけ凶悪なドラムを叩きながら、ずっと母のことが頭を離れませんでした。母は僕のライブを直接見たことがありませんでしたが、活動は逐一チェックしてくれていました。今日くらいはさすがに、火葬される前に見に来てくれている気がして、母にも良いライブを見せようと奮闘していましたが、やはりちょっと恥ずかしい気持ちもありました。
 「あんたの今回の人生はドラムやったんやな」と話していたかつての母は、いつまでも音楽で遊んでいる諦めの悪い僕に対して根負けしたかのような表情をしていました。母が亡くなった今、ここまできたらちゃんと曲がりなりにも僕は死ぬまでドラムを全うしなきゃな、とライブ後の疲れ切った体で楽屋で一人、座っていました。


[30]葬儀
 ライブから二日後、葬儀告別式の日。たった一人で斎場へ向かうのは僕だけで、他の親族は皆、子どもや、家族と一緒でした。親族の皆は優しかったですが、やっぱり僕は本当に一人になっちゃったんだな、もう、もたれかかるところがなくなっちゃったんだな、と思ってしまいました。
 哀しみは深かったのですが、落ち込んだり泣いている姿をどうしても親族や母に見せたくなかったので、今日さえ乗り切れば、と考えていました。筒がなく葬儀が進みましたが、火葬の前、最後に棺の蓋を開けて母の顔を見た時、不意に堪えていた涙が止まらなくなり、大人気もなく前が見えないくらい、息が荒くなるくらい泣いてしまいました。
 母は元よりあまり多く語らないクールな性格で、闘病は辛いと言うものの、絶望的な言葉は決して口にしない人でした。僕もそういう母の前ではいつものように居ようと、涙を見せまいとしていました。しかしながらこの時ばかりは堪えることができず、母の妹に背中を摩られながら、ハンカチで目頭を押さえ続け、鼻を啜り、ひたすら泣き続けていました。
 程なく火葬が終了し、あっさり骨だけになった母を眺め、あまりに淡白な葬儀の終わりに少し肩透かしを喰らった気持ちになりました。59年間必死に生きた母は、こうしてあっさりその体を骨にしたのでした。

[31]晩酌
 車に乗っていきなよ、と声をかけてくれた親族を丁寧に断り、僕は一人で帰りました。なんだかどうしても一人で帰りたかったのです。
 帰りのJR天王寺駅のホームでは、暴れたおじさんが警察官二人に床に押さえつけられ「公務執行妨害だ!!」と叫ばれ騒然としていましたが、世の中は母が亡くなったところでそんなに変わらないな、と思いながらスーパーに寄り、少し多めにお刺身を買って自宅へ帰りました。
 バンドのツアー中に買って、そのまま数ヶ月間冷蔵庫に入れられたままの酎ハイのストロング缶を取り出し、母の分と僕の分、刺身と酎ハイを選り分けてから数時間、母との思い出を振り返っていました。倒れる前、闘病中でもストロング酎ハイを口含み、その刺激からこめかみに激しい痛みが走る母を思い出していました。
 「葬式が終わって真っ直ぐ帰るのは僕だけだから、きっと一番最初にサシで飲むことになっちゃったよね、最初でごめんよ」と虚空の母に向かって話していました。元来多くを語らない母なので、来ていたとしても絶対に姿は見せないだろうな、と思いながら、普段家では飲まないお酒を、この日ばかりは飲み、気がついたら数時間眠っていました。

(続く)

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