母の話 -ハゲタカのぬいぐるみ-その⑦

【前回-その⑥-】


[25]病院には入らなくていい
 母が亡くなりました。最後の面会から二日後、2024年4月5日のことでした。
 朝10時過ぎに兄から連絡がありました。「もはや血中の酸素濃度が測れなくなってるらしい。呼吸器が追いつかない。」僕は仕事を切り上げるために、会社の人たちに引き継ぎをお願いしていました。もう何回も急に休んだりしているのに、皆、優しく対応してくれました。
 ようやく会社を出るという頃、兄から再度連絡があり「母の呼吸数がもうだいぶ落ちている」とのことでした。急いで会社を出て、電車を乗り継ぎ、また谷町線に乗り、喜連瓜破駅で降り、早足で歩いていました。何を頼んでいるのかわからないですが、「お母さん、頼む」という気持ちでした。病院まであと2分というところで兄から再度連絡が入りました。

「もう病院着く?あ、もう着くか、そうか、病院には入らんでいいよ。別の部屋があるから、案内するし、前で待ってるわ。」

 病院に着くと、前で兄がピシッとしたスーツ姿で立っていました。兄は今日、娘の小学校の入学式だったようです。入学式もそこそこに、病院に駆けつけたでした。僕を遠目で見つけるなり目を細めて小さく手を振りました。
 「お疲れさま。こっちやわ。」僕は病院の中ではなく、併設された三畳ほどの小さな小屋に案内されました。


[26]息子二人、妹二人
 中は線香が焚かれ、穏やかな顔で口を開けて寝ている母がいました。母の傍には、母の妹二人がすでに腰掛けてなんともいえない表情をしていました。どうやら二人は早くから母の元に来てくれていたようでした。
 話を聞くと、妹二人が昼過ぎに母のそばから席を外したほんのわずかな間に、息を引き取ったそうでした。呼吸数が落ちているといえども、そんな急に息を引き取るとは予想がつかなかったらしく、誰も母が息を引き取る瞬間を看取ることはできませんでした。強がりな母の最期の気遣いだったのかもしれません。
 そして母は亡くなる前、意識がほぼない状態で少し泣いていたようでした。母の妹曰く、「孫娘の入学式に行ってたんやろなぁ」とのことでした。孫娘の入学式を見届けて、母は旅立ったのでした。
 僕と兄、母の妹二人、頻繁に母の元へ面会に来ていた四人が小さな霊安室に集まっていました。妹の一人は「やっぱり最期は、息子二人と、妹二人になるかぁ」と言っていました。母の妹二人は明るい性格で、僕と兄では埋めることのできない母の心の暗い部分を明るく照らし続けてくれていたんだなと、改めて感じさせてくれました。
 母の顔をよく眺めてみました。僕が学生の頃によく見た、夜遅く家に帰ってきて、唯一楽しみの芋焼酎を飲みすぎて、酩酊して朝までグウグウ眠る馴染みある母の顔でした。これまでの闘病生活の辛さを感じさせない、穏やかな表情でした。少し頬を触ってみると、いつものように起き出すのではないかというぬるい人間の肌の質感がありました。
 僕は涙を堪えながら、勤務先に母が亡くなった旨を伝えました。会社の人は「こっちのことはいいから、とにかく家族を優先してください」とだけ話してくれました。
 霊安室で母の話をしばらくしていると、葬儀関係の方が神妙な面持ちでやってきて、母を実家へ運んでいきました。神妙な面持ちをしないといけないこの人達は大変だな、と変に冷静な自分もいました。



[27]家に帰ってきた母
 母は、兄が10年ほど前に購入した家の一部屋を間借りするように住んでいました。僕自身も大学院を出るまでは、同様に兄の家の一室を拝借して暮らしていました。なので実家といっても実際は兄の家に帰るということで、葬儀までの数日間、母は自室に安置されることになりました。
 母は久しぶりに自室の硬いベッドに横になりました。入院中はしきりに「家に帰りたいわぁ」といっていましたが、それは生きているうちには叶いませんでした。
 母の部屋に掛けられたカレンダーをみると、2023年11月のままでした。「あぁそうか、去年のボロフェスタの日に倒れてそのままなんだな、この部屋は」と思いました。カレンダーの下には大量の薬が摂取する曜日別に並べられたままで、母は倒れるその日も全力で癌と闘っていたのが手に取るように分かりました。
 部屋は母の匂いがしていましたが、上書きするように線香が焚かれました。新譜が出るたびに送っていた僕がドラムを叩いているCDや、一緒にある種嫌がらせのように梱包していた可愛いぬいぐるみが部屋に大切そうに並べられていました。
 そこには病室に置いていたキーウィの色違いのぬいぐるみや、僕がずっと持っているボロボロのハゲタカのぬいぐるみ、ではなく母用に新たに買いなおした新品のハゲタカのぬいぐるみも並べられていました。生活の跡、喜びの跡、闘いの跡が幾重にも重なって部屋を満たしていました。

(続く)

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