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甘えることができていいよな

[1]甘えることができない
 甘えることができない。それは小さな頃から、「自分がしっかりしなくちゃ生きていけない」という環境から生まれてくる癖や、思考だったりする。
 小さな頃から母は暮らしを成立させるために朝から晩までがむしゃらに働いていたし、兄も早くに自立して家を出ていったので、僕はずっと一人だった。母に迷惑をかけてはいけないと、気を張りながら暮らしていた節があった。勉強もそう、学校生活もそう、心配をかけないというところに重きを置いて暮らしていた。
 甘えることで母に迷惑をかけたり時間を奪ったりすることが、遠回しに生活の苦しみや困窮を生み出してしまうことを肌で感じていた。僕の家族は優しくてドライでお互いの領域を大事にしていた。知らない間に甘えること自体に罪悪感を感じていた。
 「そんなの親に頼ればいいじゃん」と周りから思われる当たり前のこと一つ一つに慎重になっていた。その分、母は違う形で愛情を注いでくれていた。

[2]甘えたいのに
 大学生の頃、友達の引っ越しを手伝ったことがある。友達の両親も手伝いに来ていて、友達が両親に当たり前のように甘えていてカルチャーショックのようなものを受けたことがある。
 それは本当によくある日常会話で、友達が両親に対して発する「なあ、お昼ご飯買ってきてえな」「このおにぎり嫌いやねん」「この棚もうちょい動かしといて」など、そういった当たり前の会話一つ一つが、日常レベルで甘えることができない僕を浮き彫りにさせていた。
 母にお腹空いたから何か作ってよとか、言ったことなかったな、というか、言う発想がなかったな。言うくらいなら自分で作るか、買ってくるかになっていたな。
 そういったレベルで僕は、母に甘えたことがなかった。しかしながらそれはネグレクトとか、放棄とか、そういったものではなく、僕も母も同じ家に居ながら、互いの人生を尊重したり、互いの疲れを配慮したり、そういったものが重なった結果生まれてくる生活スタイルなだけだった。
 そんな昔のことを思い返しながら、甘えることができないのは今も変わらず、きっとこれからも甘えを覚えないまま、この人生を収束させるんだろうなと思いながら過ごしている。
 

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