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衝動の正体

 ここで一旦、衝動についてわかったことを整理しておきましょうか。モチベーションの語彙では説明しきれない行動がある。その行動の背後で働いているものを、私たちは「衝動」と呼んでいます。それは、「え?なんでそんなことを、そんな熱量で?」と周囲や自分自身が疑問に思うくらい非合理的な動機であり、〝要領のいい〟行動、〝賢い〟行動とは無縁です。衝動を持つ人は、ちょっと不可解で、はちゃめちゃなところがあるわけです。

谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』51頁

[1]熱量を持って取り組めばなんでも面白い
 バンドと会社員を行ったり来たりしていると、「人生にかける熱量」みたいなものの高低差にクラクラしてしまうときがある。
 最近の人生のテーマは「全部全力だよ!もう!生きてるんだから!!」みたいなところがあり、順調に積み重なる「疲れ」だけが日々問題になるだけで、生きている時間はそれなりに有益に使えている気がしている。
 会社員として熱量を持って働くことは、個人的には案外簡単だったりする。会社では熱量を持って取り組む人の母数がバンドよりも多くないし、求められる熱量も「利益を最大に」という合理性に基づくものなので、答えも導きやすい。
 一方でバンドはとてもピュアで、説明できない何かしらの衝動が全ての行動の大きな原動力になっているから、会社で求められる熱量とは大きく方向性が異なっている。
 なんだか分からないけど弾け飛んで飛散する超爆発みたいな何か、感情がどうしても動きまくってわけがわからなくなってしまう何かを、僕はバンドにも自分の人生にもずっと求めている。そこに対価は関係ない。
 熱量を持って人生に向き合ってみると、そういったタイプの異なる情熱や欲求が平日と休日に交互に立ち現れて、自分の中でそのバランスを保つのが難しいときがある。

[2]死後も遊ぼう
 最近はすっかり「死ぬ」ことを忘れて過ごしていた。布団に入って「あぁ、やっぱり死ぬんだ」と我に帰ったりする。せいぜい良くても後何十年くらい生きたら死んでしまうのか、と思うと少し寂しくなる。
 生きているとこんなに毎日楽しいのに、魅力的な人が身の回りに沢山いるのに、どこかの段階で必ず死ななきゃいけないなんて。この事実は何度考えても寂しい、あまりにも寂しいので、きっと僕は音楽をしたり、稚拙な文章を書いてみたりしてその事実を誤魔化しながら、死んだ後も多少は残るもの、つまり「死後も耐用年数が長いもの」を沢山作っているんだと思う。
 改めて考えてみると、僕の熱量や衝動の根幹はきっとこれで、「死んでからももう少し遊ぼうねー」くらいのものなのかもしれない。そう思うと本当に生きることへの執着が強い。きっと死んでも執着の強い幽霊になってしまうと思う。夢枕に出たら許してほしい。

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