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価値観は虚像

 仕事にも人間にもおのずと上下がある。どういう場合であっても、自己主張などより謙虚が望ましい。両親がそろっている子どものほうが幸せである。どんな信仰であってもそれは尊い。苦があれば楽がある。善悪や損得といったことは常識で簡単に判断できる。国家のために尽くすのは偉い人間である。

 これらの価値観を共通の前提として、さまざまなドラマ作品が組み立てられているのです。それらの世間的価値観は、どれ一つとっても確固たる根拠のないものです。しかしながら、あたかもそれらが人間生活の真理であるかのようにあつかわれていることが問題なのです。なぜなら、それらの価値観を人生の真理と思いこんできまう人を結果的に不幸にしてしまうからです。

白取春彦『「愛」するための哲学』26頁

[1]忘れられたくない

 小さい頃から書き物をはじめとして「後世まで残るもの」をやけに意識して生きてきた。大学に入るとそれは「研究めいたもの」に変わり、図書館の奥深くに入っては、死後数百年経っているのにまるで呼吸しているかのような埃の被った本を拡げて、自分もきっといつかは図書館に眠る本の一冊になるんだと信じていた。そうすれば体は亡くなっても頭は、自分の思考は社会に生き続けるような気がしていたからだった。
 学生を終えてから「後世に遺りたい」欲求は文字ではなく、音楽や生き様みたいなものに変わっていった。自分の生き様が乗ったドラムの音が遺れば、自分が死んだとしても誰かの心に宿っていれば、それは生きているも同然だ。僕は誰かの心に寄生して生き続けることを望んでいた。
 しかし僕はうっすら気づいていた。そうやって誰かの心の中で延命しても、いつかは忘れられてしまうということを。それが5年か、10年か、100年か、1,000年かの違いしかない。よくよく考えれば「生き続けたい」のではなく「忘れられたくない」だけなのかもしれない。
 そうすると、色んな偉い人たちが散々口を酸っぱくして言っている「幸せは誰かの関わりの中でしか生まれない」という言葉が少し輪郭を持ち始めたような気がしなくもなかった。
 生き続けることは一人でできても、忘れられたくないという願望を叶えるのは、自分以外の誰かが居ないと成立しないのだから。

[2]価値観は虚像

 コンプライアンスが厳しくなっている。喫煙者の肩身が狭くなっている。残業は美徳ではない。運動中に水は飲んだほうがいい。体罰はいけない。25歳で売れなくたってバンドを続けても良い。YouTuberは立派な職業だ。
 価値観はまるで生き物のように、時代の真ん中を闊歩しながら絶えず変化している。どう考えたっておかしな価値観だって、時代と場所が変われば真理だったりもする。下手をすれば、僕たちは何かを肯定したり否定したりするときに必ずといっていいほど「今の価値観」を基に判断を下してしまいがちだったりする。
 みんなが「幸せ」と称して追い求めているのは、実のところ「その時代に良いとされる価値観」だったりする。車はあるほうがいい。子どもは居た方がいい。お金はある方がいい。整形してでも顔は綺麗な方が良い。それは全て虚像でしかないのかもしれない。
 絶えず変化する価値観を追い求めることが幸せであるというのならば、僕たちは幸せに限りなく近づくことはできても、幸せに辿り着くことは決してない。幸せを掴んだと思った瞬間、価値観は逃げていくのだから。価値観は虚像だ。
 やっぱり、幸せは追い求めるものではなく、誰かの関わりの中で自然と生まれるものなのかもしれない。しかし、その幸福観ですらも、今の時代の価値観から生まれているだけかもしれない。

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