見出し画像

「相手の気持ちを考える」を考える


[1]気持ちを考える
 「本当に、相手の気持ちを考えることができているか。」
 相手の気持ちを考えることが「できる」といっている時点でかなり烏滸がましいなと思いながら、それでもできるだけ、相手の気持ちにいかに寄り添えるだろうか、いうことを毎日繰り返し自問している。そしてそういったものを行動に移したり、移せなかったりで時間が過ぎていく。
 時に連絡したり、時に敢えてただ見守ることも、相手の気持ちに寄り添う上では必要だと考えたりしながら、一人ひとりの適正な寄り添い方をずっと探している。適正なときもあれば、お節介なこともあるし、なにより自分は相手と同じ脳でなければ、どちらかが偉いわけでもないので、自分の考えと異なっていたとしても、当然相手を尊重しなければいけない。
 「相手の気持ちを考えている」時にほんの少し、ほんの少し気を抜くとすぐに「相手の気持ちを考えている自分」のエゴが出てきてしまう。エゴが勝ればただのお節介か、他人に気を遣えている幻想に自分が溺れているかになってしまう。そうやって度々失敗をし、相手に寄り添えず、深く反省を繰り返している。人間であるためにはたくさん考え事をしなくちゃいけない。

[2]無痛の人
 「無痛の人」と僕は呼んでいる。相手の気持ちを考えることができず、自分をとにかく中心に置いている人。「あなたのためを思って」を常套句にしているのに、相手ではなく、自分の軸で全て話が完結している人。相手からの拒絶、叱咤があっても翌日には何故かリセットされる人。
 こういった人を「相手の心の痛みを感じることができない」そして「自分の痛みすら感じることができない」という意味合いで「無痛の人」と呼んでいる。
 無痛の人と関わると、こちらがダメージを際限なく受けてしまう。連絡先を毎日しつこく聞いてくる人、誰かの文句をとにかく言いたい人、自分を発散するために相手を無限に利用する無痛の人は存外世の中に多くいて、無痛の人を巻き込んで世の中は回っている。無痛だから、逆に経済を回すのは得意だったりする。
 弱者は僕たち、資本主義の敗北者は僕たちの方かもしれない。「相手の気持ちを考える」ことが馬鹿らしくなるときもある。けれどやはり、相手の気持ちに本当に寄り添えた時の分かち合えた喜びや、共有される安心感や、感情や、目の動きは、時に人生で大きな意味を与えてくれたりする。経済を回すためには必要ないかもしれないけれど、人として生きるためには必要な素養だと思いながら、また傷つきながら日々を過ごしていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?