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お金になっちゃった!

[1]命とお金
 亡くなった母の財産分与が一段落して、兄が封筒を僕に渡してくれました。僕はシンプルに「お母さんがお金になっちゃった!」と思っていました。
 母が癌になって亡くなるまでの間、僕と兄で医療費を折半し続けていたのだけど、ちょうどその累計の医療費よりも少し多いくらい返ってくることになり、母は自分の人生にかかるお金を結局全て自分で払いきったんだなと感じていました。しかも、闘病中は息子達に親孝行をさせてくれるなんて、改めて母はかっこいいなと思いました。
 しかしながら、お金が返ってきても母は帰ってきません。全額返して母が帰ってくるなら喜んで返します。全額返しても一ヶ月、一日、一秒ですら母は帰ってきません。街ですれ違うことすらできません。一声でも会話することもできません。
 まるで母がお金に変換されてしまったようで、言いようのない虚しさが襲いました。母の価値は、お金に換算なんてできません。本当にこれっぽっちも嬉しくありませんでした。しばらく頭を抱えていました。

[2]お金で買えないもの
 世の中お金で買えるものの方が少なく、お金で買えないものの方が圧倒的に多い。またそれはかけがえのないものだったりします。
 「生前もっと会っておけばよかった」と故人を偲ぶ際によく用いられる言葉がありますが、正直なところ僕の場合は、生前母に何度会っていようが、むしろ何度も会えば会うほど、亡くなった後の「もうどう足掻いても会えない」状況に対し、喪失感が大きくなるばかりだったりします。
 この喪失感を埋めるものだって、お金で買えません。お金に囚われている人は、お金で買えるものだけしか視界に入っていません。母がお金に変わってしまった日、僕は頭を抱えて机に突っ伏していました。なんだか色々、本当にもう、全てが終わってしまった気持ちになっていました。
 悲しくなって遺品整理の時に持ち帰った母の携帯を開きました。送信メールを眺めてみると、母が病気になる2年前のお正月、僕宛に送ったメールが出てきました。「コロナ禍やからなかなか会われへんなぁ、今年もよろしくね」と書かれていました。
 僕はそのメールを初めて見ました。それもそのはずです。母が送っていたアドレスは、もうとっくに機能していない、僕が中学生の時に使っていたボーダフォンのアドレスでした。しかしながら、2年半後にその届かなかったメールは僕の元に届きました。お金で買えないものがそこにはあるような気がしました。僕は静かにスマホを閉じました。

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