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異常性に気付こう

 「自分の異常性」を認識すること。100%正しくはないが、これに近い意味の用語が、精神医学には存在する。「はじめに」でも述べたが、「病識」という言葉である。文字通りにとらえれば、病気に対する認識、つまり自分の病気をいかに理解しているかということになる。
 厳密には、「病識」は、精神疾患という「病気」を持った人にしかあてはめてはいけない用語である。しかし、現代社会は「正常」「健康」と、「病気」「異常」との線引きが難しい。もしかしたら、「わたしは正常」という人の中にも、診断まではつかないにせよ、病的な部分がある場合も少なくないのである。

西多昌規『自分の「異常性」に気づかない人たち 病識の否認の心理』45頁

[1]間違っていない人の末路
 「自分の判断基準は間違っていない」という考えをなるべく捨てるように心がけている。悩み抜いて導き出した答えだって、振り返れば大きな間違いだったりする。
 大事なのはあの時の自分の考えは間違っていた、あるいは最善ではなかった、ここは良かったけど、ここは悪かった、と反芻し続け、柔らかく認め続けることだと思う。
 「自分は間違っていない」「悩み抜いたのだから、正しいと認めてほしい」という気持ちからやってくる意固地な自己暗示は、「間違いと認めない限り、それは間違いではない」という詭弁を生み出してしまう。そして恐ろしいことに、この詭弁は日常に溢れきっている。
 「自分は間違っていない」という思考に陥った人の末路は大体決まっていて、だんだん独りよがりになり、救いがなくなっていく。声をかけてくれた心優しい人からも次第に呆れられ、さらに独りよがりに拍車をかけ、誰からも諭されることがなく本格的に独りなっていく。そんな自分を生きやすくするために「自分は間違っていない」という考えをさらに強化してしまう。もうこうなると手遅れで、閻魔様の前でも天に誓って「自分は間違っていません」と心から言えてしまうのだろう。
 残念ながら手遅れな人は、この社会に一定の割合存在しているし、思ったよりも多かったりする。

[2]病識を持てない人
 ある種自分の意思で「自分は異常だ」という病識を持つことが、柔らかく生きるコツなんだろうなと感じる日々を過ごしている。同時に難しいと感じるのは、脳の仕組みの段階から「自分は間違っていない」としか考えられない人も一定いるということ。「自分は正しい」という思考から絶対抜け出せない人、脳の仕組みのレベルで病識を持てない人がいるということだと思う。
 そうなると個人をいくら責めたとしても問題は解決せず、精神医学の領域に足を踏み入れてしまうことになる。そういった病識を持てない人と同じ社会を過ごさなければいけないのだから、僕たちは「自分は間違っていない」人に無限に傷つけられてしまうだけである。
 そうなると「合わない人とはなるべく関わらない」ことがこの社会では最良で、合理的な生き方ということになってしまう。果たしてそこまで割り切ってしまっていいのだろうか。
 生きやすくはなるけれど、そんな社会はやっぱり寂しい。けれど解決方法は見つからない。心に傷がついていく。きっと、おそらく、たぶん、解決方法は社会の中になく、自分の思考方法や、心の中にある。世界を愛することで、何か見えてくることもあるかもしれない。そんなことを悶々と考える日々が続いている。まだまだ、全然、なんにも答えは見つからない。

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