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その尊い民衆の人権が基本としてある民主主義を攻撃するなど恐ろしさを通り越して愚かなのも甚だしい

神が知恵の実を禁じた理由は、それによって芽生えた羞恥心と善悪の知恵により人々は争い、心が蝕まれ蛇に支配されてしまうから。

獣を拝み、人間の刻印666を受け、神を信じず悪魔を崇拝し、獣の言葉を信じてしまう。

愛とは神の心であり、その愛を信じ、それに従い生きる事が神を信じることになる。悪魔に魂を売った者は愛を信じず欲望を信じる、だから神ではなく悪魔を崇拝する。

善悪、光と闇、陰と陽は表裏一体、過去と未来も表裏一体であり、どちらか一方だけでは何事も成り立たない。左翼、右翼、両翼を持ち全てとしてあること、それが我々本来の姿であり、エデンの園の中央にあった生命の実はセフィロトであり生み出す愛の力、その対極としてあった知恵の実はクリフォトであり消費する欲望の力。

片翼しか持たない地を這いず蛇、堕天使ルシファーは、その片翼となる知恵の実、クリフォトとしてある欲望の力のみで人間の心を支配した。その支配を終わらせるのがもう1つの翼、生命の実、セフィロトとしてある愛の力を持つ天使。その陰と陽が融合し全てとしてあることが神が人間に望んでいること。


ルールや決まり、規範、規律はそれぞれ意味合いは違っても道徳的な意識の中で行われる、各々の主体性と協調性の中で成り立つ掟のようなもの。それを守るか無視をするかは各々の道徳心に任せられたもの、それらは法律ではないので、たとえ破ったとしても刑事罰を受ける事はない。だから極力協力するように呼び掛ける、努力する義務とされる。

基本は許し、譲り合い、支え合いのような道徳心から決められる物事なので、絶対的に必ずこうしなければならない、それに従わなければ罰を与える、とする独裁的な取り決めで行われるような物事ではない。

その道徳心に任せるルール、決まり、規範、規律、のようなものを主体的に守るのは各々の判断で、それを強制する事はできない。強制することはできないが、その物事を支配する者による罰、例えば契約解除や追い出し、のような事は可能。それは、それを所有支配するプラットホーム上にある中でだけ行使できる権力であり、そのテリトリー外に対して適応させるまでの権限には及ばない。

そのルールや決まり、規範、規律、を守らせたい場合、その範囲全てにおいて効力が発揮され、適応させるための条例が必要になる。

国の領土や人、一部を支配・統治する地方公共団体(他方自治体)、は法律の範囲内で条例を定める事ができる。

その条例に違反した場合として、二年以下の懲役、禁錮、百万円以下の罰金、拘留、科料、等の規定を設けることができる。今騒がれている移民、クルド人、その他の問題は全て、その条例により解決すれば良いだけの問題であり、それが解決できないのは法律による基本的人権による効力があるからに他ならず、それを問題だと騒ぐ人達の意識の方に問題がある。人権と呼ぶもの、自然なる自由なる権利に対する侵略、攻撃と同等。

人権とは、人間として生きるために絶対的に必要な揺るぎなき価値観であり、人間の生存にとって欠くことのできない、自然なる権利と自由である。我々はそれを失えば人としての価値は無くなり、道徳的支配下がない独裁的で非人道なる支配下の中で、権威者、権力者に生かされるだけの家畜、もしくは奴隷とされるだけになってしまう。民主主義とは人権そのものであり自由の象徴でもある。

ナショナリズム、ポピュリズム思想主義に感化された人達はその基本的人権を軽んじている。自分達が自由に発言し、何事も自由に自分で決め、独自判断して生きていられるのはその人権があるからこそで、それが無くなるなら個人としての発言や行動、自由意思や自由権利を失い全ては支配者の独裁的管理統制された世界の中で、不自由なる苦しみの中で生かされるだけの家畜、もしくは奴隷、ネジやボルトとして消費されるだけの生き物、完全なるゴイムとされてしまう。

どこの世界に自ら望んで家畜や奴隷に成りたがる人がいるだろうか。自由を放棄する人間などいるだろうか、人権を失ってもかまわないとする人間など何処の世界にいるのだろう。それでも人権、我々の側にある主権である民主主義を軽んじるなら、その人はコミンテルン、カルト勢力が得意な洗脳に思考を乗っ取られている。

右翼、左翼政治支配システムとは、元々権威者側と民衆側に分かれて議論し法を定める統治支配方法だった。右翼側が権威側となり、左翼側が我々の側、プロレタリアート側にある主義であり、そのプラットホームの中自体が権威者の手中の中にあるもの、だから不利なのは左翼側であり、我々は今だ井の中の蛙、権威者達の支配下の中で生かされている、と言う事実を解っていない。その尊い民衆の人権が基本としてある民主主義を攻撃するなど恐ろしさを通り越して愚かなのも甚だしい。どこまで権威側に与するカルト勢力の洗脳支配に思考を乗っ取られてるのか。

右翼保守とは、その国の文化や伝統より権威者を絶対とする勢力で、殆んどがカルト宗教の意識に引っ張りこまれ、人間を拝むように洗脳されている人達。日本の場合、明治維新以降、その洗脳支配統治の方法として偽物の神道洗脳と天皇崇拝が行われてきた。そこに統一教会や創価学会のようなカルト宗教が入り込み、その組織力によって日本の保守右翼カルト支配統治システムが維持されてきた。

つまり、日本人は天皇は象徴としても、他政治、政府に絡むカルト宗教の長、統一教会で現在頂点に君臨する面々、創価学会の上層にいる者、偽物の神道カルトの頂点にいる者達を、知らず知らず間接的に拝まされている状態。それに加えて巨大多国籍企業や、在日米軍に関与してる者、フリーメイソン等の影響力もある。



このブルジョワジー支配統治ピラミッド支配システムは現代の政府、政治の仕組みになっても何ら変わらず維持され続けてきた、と言うこと。

移民だの何だの、主義だの、排他主義だの、排外主義だの、LBGTだのフェミニストだの、カルト宗教、陰謀論や左右の政治論における物事の全ては我々の目を塞ぐための目隠しとして機能している。

その我々の自由にとっては無意味である、無重力のシーソーゲームから降りること。我々が支える重いブルジョワジーのピラミッドを、ダブルスタンダードや偽旗作戦などの策略によって分割統治され、それにより巧みに振り分けられ、左右に分かれて安定良く支え続けるのではなく、それを放り投げて地面に叩きつける事、それこそが我々がやるべき本当の革命である。

そのために必要なのが両方の翼であり、片翼では空は飛べない、重いピラミッドを支えていては翼を広げられない。本当の自由のためには片翼としてはいけない、自分自身が左右上下全てとしてあること、それが必要。


人間など拝まずに愛を信じればいい、全ての生命と人間に分け隔てなく与えてくれた神の愛となるアガペー、その心の中に宿る神の心、愛を信じ、そんな重い巨大ピラミッドなど投げ捨ててしまえばいい。天は人の上にも下にも人を造らず。

我々は神の元にある絶対的なる自然法、自然権、神の秩序、絶対なる赦しがある自由なるアナーキーの中で生きている。

カエサル(シーザー)、のものはカエサルへ返し、神の御霊となる者は神の元へ。支配者による人間の刻印666など突き返し、蛇道など歩かず、我々は真なる神の道、神道を歩く。

金持ちが針の穴を通り抜けるより、駱駝が針の穴を通り抜ける事の方が容易い。

それが道であり命、真実である。蛇道を歩き真の神道を歩かぬ者は何者も神の元へ帰する事はない。その者の目の前に現れるのは広き門のみ、狭き門は現れない。色とりどりの、虹色に輝く蜘蛛の糸は降りてこない。



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