自分を自分たらしめているのは何か?映画「ある男」を見て
映画を見てきた。
平野啓一郎さんの小説を映画化した作品「ある男」。
物語は、男女が知り合い温かい家庭を持っていた所、突然夫が事故で死亡する所から始まる。
そこで不仲だと聞かされていた夫の兄と対面し、遺影の顔写真が赤の他人であるのをきっかけに、夫が名乗っていた名前の人物とは別人であると判明する。
ならば女は一体誰を愛し、誰と幸せな生活を営んでいたのか???
そんな感じのミステリー。
少しネタバレすると、レッテル?スティグマ?についてのお話だった。「死刑囚の子供」「在日3世」「老舗温泉宿の息子」そういうタグに縛られて、自身の人生を歩めない男達が戸籍の売買を通して「自分の人生を歩もう」とする話。
名前を変えても、死のうとしても、知り合いのいない都会や田舎に引っ越しても、帰化したり、弁護士資格をとったり、人権派と言われるほど地道に仕事をしたり、名家の女性と結婚しても、どこまでもどこまでも追いかけ続けてくるレッテル。
でも一方では名前やカテゴリーといった外側は何であれ、幸せな日々を送ったという事実は周囲の人々の心に温かく深く深く刻みこまれている・・・。
榎本明の怪演も相まって割と重めでゾクっとするような話だったけど、メッセージは割とはっきりと打ち出されている映画のように思う。
見ていると、「自分を自分たらしめているのは一体何なのか。」「出演者も見ている人も全員がX(エックス)なのではないか?」と度々問いかけてくる。
そして余談だけど少し前の女優の真木よう子さんの炎上騒動は、この映画のこの役での出演があったから、視点が役柄に寄り過ぎてああいう偏った内容を発言するに至ったのかもしれない?とも思ったし、もしそうなら俳優さんって大変な仕事だな、とも思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?