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「国籍が修正されました」*ボヘミアの輪舞*最終回〜(原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅨ〜LOLOのチェコ編⑰

  ~1952年7月23日のエジプト革命から72年後の日の投稿にて~

今年2024年は、ユダヤ系チェコ人カフカの死後百年目を迎える年です。エジプトのチェコ大使館では、外壁にカフカの絵いくつもが飾られました。(2024年3月6日から5月3日)

 北京のチェコ大使館では、カフカ死後百年を記念するイベントにイスラエル大使館とオーストリア大使館も協力しました。

 チェコ大使館単独でやるよりも、予算や宣伝の上でもメリットがあると判断し、カフカがオーストリア・ハンガリー帝国(AH)で生まれたユダヤ系のチェコ人ということで、この三カ国が手を組もうとなったのでしょう。
 ちなみに、テルアビブにはフランツ・カフカ通りもあります。

シリーズ最終回だにゃん🐾 

「東洋のイートン校」

 そういえば、カフカとヤン・レッツェルは同世代です。前者は1883年生まれの1924年他界。後者は1880年生まれの1925年他界。どちらも比較的若くして亡くなっています。
 そして二人ともAH時代のボヘミアで生まれているため、のちに「国籍問題」が起こるという点でも似ているかもしれません。

 1925年の年末、レッツェルは故郷の病院の一人部屋で亡くなるとすぐに世間から忘れ去られ、その13年後。

 ナチスドイツが豊かな産業を狙い、チェコスロバキアに侵攻しました。

プラハ城


 次に第二次大戦が起こりました。

 するとです。エジプトのアレクサンドリアにあるビクトリアンカレッジには、ナチスにより国を追われたヨーロッパの王族や貴族の多くが編入してきました。

 この時、ファルーク・エジプト国王は
「エジプトを亡命王族の難民所にしやがって」
とイギリスにかんかんに怒りましたが、かくいう彼もこの数年後に亡命国王になり下がります…。

 状況が悪化するにつれ、ビクトリアンカレッジにはヨーロッパの君主国の子どもたちのロマノフ家、ザクセン=コーブルク家、ホーエンツォレルン家、ゾゴ家、グリュックスブルク家がエジプトとアラブのハーシム家、マフディー家、アル=シャリフ家の子どもたちと机を並べて授業を受けるようになりました。

  その後にはブルガリア最後の王シモン2世、ギリシャ王コンスタンティノス1世(スペイン女王ソフィアの弟)、ヨルダン国王フセイン・ビン・タラール、イラク王位継承権を持つアブドゥール・ハシェミ王子、スーダン指導者アル・サディク・アル・マフディ、クウェートのアル・ハラフィ家とアル・ハマド家の息子たちも入って来て、

 サウジアラビアの億万長者アドナン・カショギ、サウジアラビア諜報機関の創始者シェイク・カマル・アダム、アブドゥル・ラティフ・アル・ジャミル家、アル・シャルバトリー家、ナイジェリアとチャドの有力な一族の子息たちも、このカレッジの生徒になりました。(順番は違います)

 あえて注目するならば、サウジアラビアのオサマ・ビン・ラディンで有名になったビン・ラディン家の息子たちもこのビクトリアンカレッジに通っていたことかもしれません。
 ここで彼らも大英帝国の教育を受け、各国の有力者一族との人脈を築き上げたのです。

 もっとも、大富豪の子息や皇太子や王子であっても、彼らは普通の学生と同様に扱われており、それもイギリスのパブリックスクールと同じです。

 ただし例外としては、アルバニアの王族・ゾゴ家の王子だけは暗殺のリスクが高かったため、大勢のボディーガードが常にぞろぞろ同行することを許可されました。

 なおこのカレッジはフランスの教育をエジプトから消し去り、その自由を廃止してエリート層だけの教育とする枠組みの中で「英語」教育に転換することを目的としていたので、授業以外でフランス語を口にするのは禁止しており、アラビア語に至っては完全に禁止でした。

 もしアラビア語を話したら、罰として百回も同じ文章のノート書き写しを命じられたといいます。
 出典によってはちょっとまちまちですが、このカレッジに父親が通っていたというエジプト人はこのように私に話していました。

 そうそう、主な運動は当然クリケットだったそうです。

ビクトリアンカレッジ

 ヒトラーのエジプト上陸が迫ると(実現しませんでしたが)、ユダヤ人生徒は一斉にいなくなりました。全員、エジプトを離れたからです。

 その後、この大学は英軍の兵営に利用されました。しかし大学当局は学業を中止させないという決意を固め、教室は一時的に旧サン・ステファノ・ホテルに移されました。

ww2中の大学

アブディーン宮殿事件

 1942年2月に「アブディーン宮殿事件」が起きました。

 高等弁務官マイルス・ランプソンが英軍の戦車を引き連れ宮殿に乗り込み、ファルーク・エジプト国王に退位を強要したのです。

英軍戦車の大砲がアブディーン宮殿に向けられています。写真をみると見張り役はインド人たちに見えます。

 その理由を簡単に述べると、ファルークが親英派の内閣府を勝手に解散させ反英派で固めようとし、さらに敵国ドイツに接触していたからです。
 彼はヒトラーによってエジプトがイギリスから解放されることを望んでいました。

 ランプソンは宮殿内の内偵を通し、それを知ると激怒し戦車を引き連れ宮殿に押しかけました。

 最終的にファルークが折れ、内閣の顔ぶれを再び親英派に戻し、反ドイツ宣言を行いました。

「イギリスに強要され、それを宣言させられたことは一国の君主として、どんなに耐えがたいことだったか。人生で一番の屈辱だった」
と後に述べていますが、しかしドイツと日本に対して最後の最後まで、意地でも宣戦布告だけはしませんでした。

 1945年2月14日のバレンタインデー。
 スエズ運河のビター湖上の軍船で、ルーズベルトとサウジアラビアのサウド国王が極秘会談を行いました。

スエズ運河のビター湖

 戦後の両国の関係などの取り決めだったのですが、この時にルーズベルトは
「アラブ人に対するいかなる敵対行為も行わない。またアラブ人とユダヤ人との事前協議なしに、政府がパレスチナに対する政策を変更しない」
と誓約しました。1945年4月5日にルーズベルトが送った手紙でも確認されています。

 ところがです。その一週間後に急死してしまいました。脳卒中が死因だったと言われていますが、いまだに「憶測」が飛び交っています。

 ルーズベルトの亡き後、トルーマンがアメリカ大統領の座につき、その約4カ月後、広島に原爆が投下されました。

広島原爆投下のわずか5日後のモスクでの説法

 その日の朝8時15分。
 産業奨励館の中にいた120人が即死し、建物の一部は倒壊しました。

 窓は粉々に砕け、ファサードの一部は崩れ落ちたものの、原爆がプロモーション ホールのほぼ真上空で爆発したため、この建物は爆発地域の他の部分で生じたような破壊をほとんど免れました。骨組みがコンクリートだったからです。

 とはいえ、爆発による焼夷弾でドーム屋根は黒焦げとなり、空に向かって剥き出しの状態になりました。

 まさしく豪華なアールデコ様式の宮殿のような広島産業奨励館は完成した約20年後のこの日の朝、原爆投下により一瞬で衝撃な様変わりしました。
 

 1945 年 8 月 10 日(広島原爆投下のわずか5日後)の金曜の説法で、インドのモスクにて、カリフのハズラト・ミルザ・バシルディン・マフムード・アフマド・ハリファトゥル・マシ二世がこのような説法をしました。その要約です。

「…5日前、日本の広島市に人類初の原子爆弾が使用されました。人類に関する限り、到底このような破壊は合法とは言えません。
 爆撃された都市に女性や子供が住んでいなかった、そして女性や子供にも戦争の責任があると言える人がいるでしょうか? 

 たとえ我々の声に価値がないと思われても、我々の発表が特定の政府を喜ばせたり不快にさせたりしたとしても、我々はこのような流血を合法とは考えていないことを、世界に発表するのは我々の宗教的、道徳的義務であります」

 日本の敗北が見えているあの時に、真っ先にこのような勇気ある声明を公に出したのがイスラム教だったのです。

 戦後しばらくすると、日本では無残な姿になった産業奨励館を取り壊すかどうかの議論が交わされ、3つの選択に悩みました。

1破壊する
2新しい別の建物に変える
3再設計されたベルリン国会議事堂のように完全に再建する

 最終的に最も聡明な結論を選び、それは1でも2でも3でもなく
「原爆の悲劇に対する現代の記念碑として、この状態のまま残す」

 そうして、持ちこたえた主要部分の建物は焼け焦げた風景の中の荒涼とした場所から撤去されることがなくなりました。
 その後、1950年から1964年にかけて建設された広島平和記念公園の主要建造物として、そのままの姿で平和の象徴に〚再生〛し、結果的にベストな決断であったと言えます。

 「広島原爆ドーム」は世界でも知られていきましたが、建築家までは有名になりませんでした。
 確かにこのケースは、建築そのものの素晴らしさに注目というわけではないため、それも分からないでもありません。

 中には興味を持つ日本人もしくは外国人もいたのですが
「オーストリア人建築家だった」
という話が広まりました。ちなみに「オーストラリア人」説もあったようで、オーストリアとオーストラリアを間違える「あるある」です。

 余談ですがこれと似た問題が、フランツ・カフカにも起こりました。

 同じくAHのボヘミアで生まれており、母国語が「プラハ・ドイツ語」と呼ばれる方言のドイツ語であり、さらにユダヤの言葉も話すユダヤ人でもあります。

 私の場合は、アメリカの大学で「ドイツ語が第一言語のユダヤ人作家」と教わっていたので、チェコに住んだ時、カフカが「チェコ人作家」となっていることにびっくりしました。

 そもそも「フランツ・カフカ」の名前自体がチェコ語ではありません。チェコ語読みをするならば、フランティシェク・カフカにするべきなのです。でももちろん、やはりチェコ人なのですが、本人にはアイデンティティーの悩みがあったかもしれません。

 蛇足ですが、今回エジプトにいたAH時代の建築家たちを調べていたら、スロバキア人はみんなハンガリー人にされていました。驚きました。

エジプト革命で消えた王家の名前


 1952年7月23日
 エジプト革命が起こりました。

 ファルーク国王一家は避暑で地中海のアレクサンドリアの宮殿に滞在していたのですが反乱軍に包囲され、カイロのアブディーン宮殿まで連行されました。そしてそこで退位を強要されました。(*アレクサンドリアで退位に署名した説もあり)

 国王一家はイタリアへ追放され、王政が共和制に生まれ変わりました。

 国王の顔の切手や紙幣とコインは続々回収され、またカイロの都市のランドマークや幹線道路の重要な名称の多くも君主や植民地主義と関連していましたが、新政権により全て変更されました。

 君主と植民地 の記憶を消し去る試みとして、王家 やヨーロッパ人と関連のある街路とランドマークの名称はすべて置き換えられたわけですが、1905年にベルギー人のアンパン男爵(バロン)が開発したヘリオポリス地区では、外国人の名前が付いた通りが全て改名の対象になりました。

 バロン・エムパン将軍通りはナジ・ハリファ通りに改名。
 モハメド・アリ・パシャ通り、タウフィク・パシャ通り、イスマイール・パシャ通りなど歴代の君主の名前が付いた通りはそれぞれベイルート通り、ダマスカス通り、バグダッド通りに改名。

 フアード1世国王通りはオロウバ通り(文字通りアラブ主義を意味します)に改名され、「パシャ」「ベイ」そのものの称号も禁止になり、植民地時代の象徴でもあった赤いトルコ帽タルブーシュの使用も禁じられました。

エジプト軍、スエズ運河会社を占拠

 1955年、ソ連・ポーランド・東ドイツ・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・アルバニアが西側のNATOに対抗し、ワルシャワ条約機構を発足しました。

 エジプトのナセル大統領はそれにガッツポーズをし(実際にした訳ではありませんが)、翌年の1956年7月26日。

 エジプト人が一番外出し活動的な時間帯の夜9時に
「ヤーニ」(ええと)、そしていつもおなじみの「イルファ・ラサク・ヤ・クヤ(兄弟たちよ、頭を上げよ)」で始まり、「スエズ運河国有化宣言」を行いました。

 これは英仏米には一切事前告知をしておらず、衝撃的なゲリラ演説でした。半世紀以上にも渡り、英仏に乗っ取られていたスエズ運河を国有化すると唐突に発表したのです。

 ちなみにナセルの演説はすごく聞き取りやすく分かり易いです。私でも全部すらすら理解できるほどで、なぜ読み書きのできない層の心まで掴んだのか、彼の演説を聞けばすぐに納得します。

 用意周到のナセルはその夜のうちに、ポート・サイードの街にあるスエズ運河株式会社を差し押さえ、英仏の従業員を会社から追い出しました。

 これら一連の出来事に不快感を示したイギリスはアスワンハイダム建設費用の負担約束を白紙に戻し、アメリカはエジプトに軍の武器を売るのを停止しました。

 しかしそんなことなんぞ想定済のナセルはハイダム建設にはソ連の資金と技術を受け入れ、武器はチェコスロバキアから購入しました。

「エジプトを皮切りに、中東がソ連の傘下に入る」
 西側に緊張が走りました。

 一方、その年の10月23日、ソ連の弾圧に我慢できなくなったハンガリーで大規模な動乱が起き、その数日後。

 スエズ戦争がぼっ発しました。運河を取り戻したい英仏が手を組み、イスラエルを巻き込んで一斉にスエズを攻撃したのです。

 ソ連軍はポート・サイードの街に上陸しエジプト軍に加勢し、街の人々に「英雄」と大感謝をされました。ハンガリー動乱では散々悪者扱いされただけに、ソ連兵は上機嫌であったといいます。

 このスエズ戦争勃発により、イギリス運営のビクトリアンカレッジは強制閉鎖され、イギリス人教員は全員国外へ追い出され、そしてこの大学はエジプトに国有化されて「ビクターカレッジ」に名前も変更しました。
 ビクトリアからビクターです!

 授業も英語からアラビア語に、イギリス国旗はエジプト共和国の国旗に、エリザベス女王の肖像画はナセル大統領に変えられました。

 ちなみにビクトリアンカレッジの校舎はヘンリー・ゴラという建築家が手掛けています。

 国籍は不明で、オランダ人説等がありますが、のちにワイト島にあるイギリス人建築家トーマス・キューピット(1788-1855)が設計したヴィクトリア女王の邸宅、オズボーン・ハウスとの建築上、多くの類似があることが判明。

 恐らくそれを手本としてビクトリアンカレッジを設計したのでしょう。当時はわりとよその国の建物とよく似た建物が、色々な国で建築されていたように感じます。

上がトーマス・キュービット作、ワイト島のオズボーン・ハウス、下がビクトリアンカレッジ


 
 スエズ戦争では、エジプト国内にいた他の外国人も皆追放されました。

 スパイだらけだったのでやむを得ないのですが、アタバ地区の広場に建てられたAH時代のティリングデパートのユダヤ系オーナー一家は第一次大戦後、カイロに戻っていました。

 しかしこの時再び財産など全て没収され、二度目となるとうんざりしたのでしょう。オーナー一家はアメリカとイスラエルに離散し、流石に二度とエジプトへは戻りませんでした。

 カイロの「天国の門」シナゴーグは閉鎖され、すみません、どうしても書きたいですが、このスエズ戦争の時、エジプトを追い出されたユダヤ系エジプト人のひとりはワム!のアンドリュー・リッジリーの父親です。

 父親のアルバート・リッジリーはセファルディム(スペイン・ポルトガル)系ユダヤ人で、ラディーノ語を話していました。ちなみには母親はスコットランド人です。

父親の展覧会に登場したアンドリューですが、1984年に鼻を整形しているそうです。

広島原爆ミサイルを保有しようとしたエジプト

 1956年のスエズ戦争は結局国連が間に入り、停戦という形で終わりました。
 スエズ運河を死守し通したエジプト側の勝利も同然でしたが、この頃からナセルはイスラエルを狙い核保有を考え始めました。

 ナセルの核計画は、イスラエルを全滅させることを目的とした3つの主要な特徴から成り立っており、「クレオパトラ作戦」と名付けられました。

 「米国が広島に原爆を投下した際に使用したタイプの核爆弾と同じものを製造しよう」

 広島の原爆は大国の基準からすると現在「時代遅れ」とみなされていましたが、そのような爆弾はイスラエルの人口集中地区を破壊するのに十分であるという分析が出たからです。

 もともと1945年以降、エジプトの軍上層部や知識人の間では「核保有待望論」が大きく出ていました。

 ナセルが側近と話し合った計画の 1 つは、イギリス空軍将校に賄賂を渡して 3 個か 4 個の広島型原爆をエジプトに密かに持ち込ませ、その一部を入手しようとするものであり、賄賂は爆弾 1 個あたり 800 万ドルと決定。

 ナセル計画の2番目の特徴は「イビス(トキ)作戦」と呼ばれ、「放射性降下物が少ない」小型ミサイルの製造です。

 これらは飛行機で投下する爆弾、ロケット弾の弾頭、あるいは大砲で発射する砲弾として使用できるもので1964年時点で、このタイプのミサイルは既にエジプトでドイツの科学者によって製造されていました。

 当時、エジプトには500人の元ナチスのドイツ人科学者がいました。このことをイスラエル、英仏米は把握していたと言われています。

 ナセル計画の第3段階は「ストロンチウム90作戦」と呼ばれました。
 ストロンチウム90をイスラエル上空に投下することで、イスラエル国民に多大な民間人犠牲をもたらすため、この作戦について一番非常に真剣に検討されました。実行ぎりぎりまでいっていた模様です。

 「ストロンチウム90作戦」の発案者はドイツの科学者ヴォルフガング・フォン・ピルツ博士であり、彼のこの案に沿ってドイツ人の電子工学の専門家とエジプトの科学者や核の専門家は研究を重ねました。

 最終的に実行されなかったのは、イスラエル側も核を持っていたからではないでしょうか。 

 また、広島原爆ドームの建築家が若い時に勤めていたアブディーン宮殿で、広島型原子爆弾の話し合いをされたはず。なぜなら大統領府になっていたからです。何とも皮肉です。


 1968年に入るとすぐにチェコスロバキアで民主化を求める「プラハの春」の運動が起こりました。

 余談ですが、私が撮影の仕事でブダペストに行った時、普段は大学の先生をしているという日本語が堪能のハンガリー人が通訳として現れました。

「プラハに住んでいるんです」
 私がそう言うと

「プラハに初めて訪れたのは1968年のプラハの春の時でした。ソ連の命令で私たちは戦車に乗りプラハを攻め、暴動を鎮圧しました」

 その時の話はまるでドキュメンタリー映画そのもので、日本人のディレクターに「この話を撮影しましょう」と提言したら、
「いや、番組テーマとは関係ないから」
と却下されました。もったいなかったと今でも思います。


 とにかくご存じのとおり、プラハの春は失敗に終わるのですがこの年、エジプトでも大規模なデモが行われました。

 前年の1967年に三度目となるイスラエルとの戦争で、エジプトが敗北しています。

 さらに様々な政治の汚職が発覚したのと、結局ナセルの押し進めた改革はうまくいっておらず、中産階級の暮らしは豊かになったけれども、貧困層は完全に取り残され、王政時代よりも生活が苦しくなっていたからです。

 だけども、かたや根強いナセル人気もあり、辞任を求める団体と、断固阻止したい団体がぶつかり、軍隊も介入し数十万人規模の激しい争いになりました。

 結局、辞任しないことで決着がついたのですが、その2年後。長らく患っていた糖尿病による動脈硬化症と静脈瘤の合併症により、ナセルは急死し、またエジプトの一つの時代が終わりました。

国籍が修正されました 

 その後も広島原爆ドームの建築家はオーストリア人だと信じられ続けており、実はチェコ人の建築家だったと知られるのは、1969年になってからでした。

 ネットにも出ていますが、ヤン・レッツェルがチェコの名前であることを知ってオーストリア国籍であるということには懐疑的になったある日本人女性のAさんがいました。

 彼女はチェコスロバキアの国営放送局の協力を得て、レッツェルの姪を探し出すことに成功し、彼女らから家族間の書簡や、叔父が日本から送っていたさまざまな贈り物を見せてもらったそうです。

 その後、Aさんは日本の雑誌に連載記事を寄稿し、レッツェルがオーストリア人だという誤った認識を正そうとしました。
 だけども彼女の努力にもかかわらず、なかなかそれは浸透しませんでした。そもそも、チェコまたはチェコスロバキアの名前が日本ではどちらかというとマイナーであったことも、その理由の一つだったのかもしれません。

 1980年、ナセルの次のサダト・エジプト大統領がイスラエルと和平を結びました。すると閉鎖されていたカイロの「天国の門」シナゴーグの再開が可能になりました。

 しかし長いこと閉鎖されていた上、主流爆弾など投下されているため、大掛かりな修復が必要です。
 この費用を出したのがオスマン帝国ユダヤ系トルコ人、ニッシム・ガオンでした。

 1922年、イギリスとエジプトの領土だったスーダンで生まれたガオンはスーダンで捕獲したワニの革、ヘビの革、そしてピーナッツの輸出で大儲けをしました。

 1956年にエジプトを追い出されるとスイスへ移り、今度はロシア、中国、アルゼンチン、ナイジェリア相手に石油と農薬、ウラン等の貿易で大成功をおさめました。(武器なども貿易していた気がするのは、私だけでしょうか?)

 その次にガオンはヒルトンホテルの経営に入りました。するとです。
 ダマスカス、テヘラン、カブール、カイロ、そしてのちのドバイにいち早くヒルトンが進出しました。「ベネトン」同様、何かクンクン匂う気がするのも、これまた私だけでしょうか?

 このガオンが「天国の門」シナゴーグ再建に巨額の資金を提供し、そのおかげで今でもカイロにはこのシナゴーグの姿が残っています。

 常にエジプト人警官が見張っていますが、そもそも礼拝に訪れるユダヤ人自体がいなくなっています。

 1956年にほぼ全員がエジプトを追い出されており、その時居残ったのは、エジプト人と結婚しているユダヤ人女性たちぐらいでした。2020年にもなるとカイロに住むユダヤ人はたった三人のみで、全員65歳以上の女性です。

映画「カフカ」を見て、あの建築家がチェコ人?と気づく

 1991年、ジェレミー・アイアンズが出演したスティーブン・ソダーバーグ監督映画「カフカ」が公開され、日本人の何人かは「おや?」と思いました。

 映画の最後のシーンに登場するプラハの街の歴史的中心部に近いヴルタヴァ川土手に建つ建物が、広島の原爆ドームとよく似ているからです。

 そこで映画マニアたちが調べると
「(かつてレッツェルが所属していた)産業貿易省が入った、広島原爆ドームに似たようなドームを持つこの建物は1920 年代半ばから 1930 年代前半に建てられたものである。
ただし建築は別人で、ヨゼフ・ファンタという建築家である。だけども、同じチェコ人のレッツェルの広島の建物が影響を与えた可能性はある」

 この発見に、彼らは驚きました。
「え?もしかして原爆ドームの建築家ってチェコ人?知らなかった!」

 レッツェルの原爆ドームの建物が改めて知名度が上がったのは、1996年に世界遺産に登録された時でした。

 すると「この建物はどこからアイディアを得たのだろうか?」
という好奇心の声が出てきました。

 専門家や評論家は
「おそらくウィーンの分離派でアールヌーヴォー様式形成の主要建築家の一人であったオットー・ワーグナー(1841-1918)のシュタインホフ教会の影響を受けているにちがいない」
「レッツェルの師匠のコテラがオットー・ワグナーに傾倒していたので、その関係でシュタインホフ教会をレッツェルは知っていたのだろう」

 この建物です。

シュタインホフ教会

 彼らはレッツェルがボヘミア出身ということで、当時のAHの帝国の中にあった建物しか比較対象にしませんでした。私の見る限り、誰ひとりとして当時のエジプトのヨーロッパ建築まで目を向けていません。

広島産業奨励館(後の原爆ドーム)、日本広島、1915年建設 写真: progetto.cz
スエズ運河株式会社オフィス、エジプト・ポートサイード(1890年代建設)

ベイルート爆発で唯一残ったチェコ人建築家の建物

 時はだいぶん最近になり、2020年8月4日。

 ベイルート港爆発事件が起こり、この時、瓦礫の中でただ一棟の建物だけが残りました。

 それはチェコ人建築家の設計により、チェコの会社プルムスタフによって1968年から1970年にかけて建設されたものでした。

 同建物は過去に二度の戦争(レバノン内戦)とミサイルにも耐えてきているものの、さすがに今回は構造に修復不可能な損傷が生じてしまいました。(*よって現在はもうないと思われます)

 しかし唯一残った建物、しかもチェコ人が建てたということで、
「焼け野原から復興した広島のように、自分たちも頑張ろうではないか」
という声も、ベイルート市民から上がりました。大々的ではなかったけれども。(*さすがに原爆の被害とは違う、という謙虚な気持ちがあったせいだと思います)

      
 やっとここで1998年、99年に戻ります。

 当時、多くの人々に情報・資料を提供してもらい、インターネットのない時代に、異国のチェコでこつこつと必死にひとりで調べた、私の「エジプトでスエズ運河会社の鉄筋コンクリートの建築にきっと出逢い、そして広島原爆ドームが生まれ、原爆にも耐えた」
の企画書は結局、どこにも出しませんでした。

 なぜなら、その直後に私は体を壊しプラハの病院に入院することになり、そこから何となくその企画書を放置してしまっていたからです。

 そして結局、そのことを忘れ(あれだけ色々ご協力もいただき、自分も頑張っていたのに)、それっきりに。

 ところが今回、何となくチェコで暮らしていた日々のことを書き始めてみると、撮影コーディネートの仕事の話から自動的にヤン・レッツェル企画書を思い出しました。

 今回新たにネットや本、またチェコ人の旧友が協力してくれて、改めて諸々調べなおしました。

 どこまで正確に書けたかは分かりませんが、こうして長い時を経てこの話を自分なりに完成できたこと。そして読んでくださり、コメントを下さる方がいることに、熱い思いが沸き上がります。

 それに、もし本当にレッツェルがポート・サイードのスエズ運河会社のコンクリートの建物を見て、その素晴らしさに感心し、それゆえに同じものを広島でも導入し建設したのならば、これは不思議な繋がり、ご縁を感じます。

 この世の何もかも偶然の産物の重なり合いにより成り立っていますが、はっきり言えることはひとつだけあります。

 それは、日本の近代史における最も悲惨な出来事である原爆投下の印象深いシンボルとなった原爆ドームが東ボヘミアの小さな地方都市の、国際的には無名に過ぎなかったチェコ人建築家によって建てられたという事実です。

 これを思うと、しみじみ文化の複雑な絡み合いも思い起こさせられ、そして僭越ながら、原爆ドームの建設家と自分がチェコ、エジプト、日本を経験するという奇妙な共通点を持ち合わせていることにも、ひとりで私は不思議な気持ちを抱いています。

エピローグ

 201〇年。

 久しぶりにカイロに飛んで来ました。

 新しい地区が増えており、ムバラク大統領の私邸があったヘリオポリス地区(植民地時代にベルギーのアンパン男爵の作った街)の映画館ではエジプト映画が上映し、エジプト人の若者たちでにぎわっていました。

 アタバ地区の広場のかつてのAH時代の名残りであるティリングデパートはホームレスの不法占拠や不法工場でカオスになっていました。

布団など干してあります

 AHのユダヤ系ハンガリー人のミクサ(マックス)・ヘルツの建てた王家の墓のアル・リファイモスクは見学者で大盛況です。

 ここにはエジプト最後の国王のファルークの墓もあります。
 1952年の革命で追放された彼は死後、ひっそりカイロに遺体が戻ったのですが、サダト大統領時代にようやくこの王家の墓のモスクに安置されました。

ファルーク国王の墓 ISOISOさん記事より

 タクシー運転手も以前よりは「洗練」されている気がしましたが、ナイル川を渡った西岸のギザ市にあるカイロ大学と植物園のそばを通った時、英語で私に
「あれはチェコスロバキア大使館だ」
と指さして教えてきました。

 頼んでもないのに、あれこれ勝手にガイドをされるとチップを支払わねばならなくなるので困る!のですが、ついつい「元エジプトガイド」の血が騒ぎ、スイッチが入ってしまい勝手に口が動きました。

「あの大使館の建物は1977年から1980年までかけて、チェコの建築家二人が砂漠の気候に適応したブルータリズム建築(荒々しさを残した打放しコンクリート建築)として完成させました。

 建物は御覧の通り、巨大な要塞のような荒削りな形状をしています。ご覧ください、ファサードには不必要な装飾がありません。

 黄色がかったベージュのトーンはエジプトの砂漠への賛歌であり、外観の迷路のようなスタイルは美観というよりも、国の強い日光を建物に取り込むためのものです。

 ニューデリーのチェコ大使館と同様に、カイロの建物の中心は大きなアトリウムになっており、直射日光がさまざまなオープン エリアを明るく照らすだけでなく、空気と空間の循環も生み出しています。

 それから、チェコスロバキアではありません、チェコです。20年も経っているのですから、間違えてはなりません」

カイロのチェコ大使館

 ハッとすると、エジプト人の運転手さんは唖然とし、無言で賑やかなエジプト音楽を流し始めました。

 橋を越えてカイロ市内に戻ると、運転手は運転中なのにハンドルから両手を離して突然、窓の先の巨大な建物を示しました。
「あの建物も知っているかな?」


 如何せん空気が乾燥しているので、私はシーワのミネラルウオーターをぐいぐい飲み、運転手が示した方に目をやりました。
 そこにはエジプト共和国の旗が掲げられている大統領府こと元アブディーン宮殿が佇んでいました。

https://www.flickr.com/photos/drewatlarge/3300892398/

                おわり                        

         

1952 年7月23日のアブディーン宮殿

追伸
 恐縮ながら、私が出したアブディーン宮殿を舞台にしたエジプト小説も宜しくお願いします。AH関連は一切省き、外国人はエジプトのイギリス人フランス人のみに焦点を当てています。修正済み、キンドル読み放題です!


*ヘッダー画像は2012年にチェコ人歌手Lucie Bílé(当時58歳)がミュージカル「アイーダ」のヒロインを演じた時のもの。チェコ語の「アイーダ」にはああびっくり!
ちなみに私が一番最初に購入したチェコ人歌手のCDは彼女のアルバムでした!

※ヤン・レッツェルシリーズ:

1「ベルエポック時代のエジプトに住んでいたんです」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅠ〜LOLOのチェコ編⑨

2「在カイロ・オーストリア大使館に問い合わせて下さい」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅡ〜LOLOのチェコ編⑩

3「アレクサンドリアのギリシャ協会に尋ねよう」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅢ〜LOLOのチェコ編⑪

4「ハプスブルク家のエジプト」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅣ〜LOLOのチェコ編⑫

5 見よ!これぞ万博パビリオン。オーストリア人とハンガリー人建築家が生んだ「伝説のカイロストリート」(シカゴ万博(1892))〜(原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅴ〜LOLOのチェコ編⑬

6 1905年のカイロ〜(広島原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅵ〜LOLOのチェコ編⑭

7 もうひとつのアレクサンドリア・国際都市ポートサイード〜(広島原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーⅶ〜LOLOのチェコ編⑮

8 チェコ(ボヘミア)の赤いトルコ帽子〜(原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅧ〜LOLOのチェコ編⑯

参照
https://www.jta.org/archive/nassers-plan-for-a-nuclear-war-against-israel-reported-by-germans  
https://nymag.com/intelligencer/2020/08/beirut-explosion-rocks-lebanons-capital.html  
https://en.majalla.com/node/228826/culturevictoria-college-incubator-kings-celebrities  
https://victorianweb.org/history/empire/egypt/alexandria/7.html  
https://www.expats.cz/czech-news/article/czech-architects-made-one-of-the-only-buildings-to-survive-the-august-6-1945-hiroshima-bombing

https://english.radio.cz/a-look-czech-architect-who-built-hiroshimas-industrial-promotion-hall-todays-a-8629140

https://rimaalsammarae.com/portfolio/case-study-czech-embassy-cairo/


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