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1905年のカイロ〜(広島原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅵ〜LOLOのチェコ編⑭


  昨年の2023年のラマダンの時です。

 カイロのアブディーン宮殿では初の「ロイヤル・ダイニング」イベントが開催されました。

 宮殿の壮大なダイニングホールで生演奏のオーケストラとともに豪華なイフタールとスフール(ラマダン中の食事)が提供、イベント参加者は断食明けには宮殿見学ツアーにも案内されました。初めての試みです。

 何度も恐縮ですが、1952年のエジプト革命でこの宮殿は大統領官邸になり(現在は博物館も併設)、一般には公開されていませんでした。

 ところがムバラク大統領政権下、傷んだ宮殿を修復し入場料を取って、宮殿の一部の一般公開に踏み切ろうとしたものの、1991年のカイロ大地震で本殿建物にヒビが入り諦めました。

 そもそも、かつての王政について「タブーの空気」があったものですから建物の損傷関係なく、もしあの頃にこんなイベントを行っていたら、大規模なデモが起きたと思います。

 その後、完全修復が終わったアブディーン宮殿は現在、通常は特別な許可を得た団体ツアーや個人のみ入場可能となっています。

 団体の人数にもよりますが、1時間のツアーの最低料金はエジプト人の場合は1,000エジプトポンド(32ドル)、外国人の場合は100ドルです。ポンド払いはNG。要りませんから!(※少し前の情報です)

 2023年ラマダン中の「ロイヤル・ダイニング」は2人からの予約を受付け、金額は14パーセントの付加価値税、12パーセントのサービス料と予約料を加えると1人当たり100ドル以上になりました。

 三井家迎賓館だった綱町三井俱楽部の食事代が25000円くらいなので、そんなものかな思うのですが、しかしです。エジプトの経済危機とインフレの急上昇を考えると、決して安い金額ではありません。

大正2年にジョサイア・コンドル博士の設計によって建てられました

 三井倶楽部はさておき、アブディーン宮殿のこのイベントは物議を醸しました。

「このような歴史的な王宮を商業化するのは不適切だ」
「いや、賞賛に値する」等などですが、王政復古の声が上がるきっかけになりやしないか、と危惧する人々が主にイベント反対の声を上げました。

 アブディーン宮殿は1863年にイスマイール副王の統治下で建てられ(完成には彼の死後)政府の本部、および王室の住居として機能していました。

画像の女性、スニーカーを履いていますね。宮殿の食事会にスニーカー。さすがです。

 予約受付が開始すると、この歴史ある宮殿を開放し一般の人々が食事をすることが許可されたのは今回が初めてということもあり、多国籍企業の経営陣と富裕層のエジプト人家族連れですぐに完売しました。

 時代が変わりました。2,30年前までは本当に考えられないことでした。繰り返すと「王室」がとにかくタブーだったからです。また一昔、二昔前なら日本人駐在員の家族連れで埋まったでしょうな…。

誰でも生演奏など聴いちゃいやしなさそうなのと、クロークはなかったようですね、ジャケットを椅子にかけています。そして左の男性も白いスニーカー。いっそうマッチの「スニーカーぶるーす」の演奏をぜひ…。

 日没前に人々が少しずつ集まってくると、断食明けの合図であるアザーンが鳴るまで、4人組のバンドが伝統的な中東音楽を演奏しました。

 ところがウェイターたちが食事を運んでくると、参加者たちが立てる音…皿にフォークとナイフが「ぶつかる」カチャカチャ。
 飲み物をどぶどぶ注ぐ「雑音」やエンドレスの大声の会話が騒々しく、せっかくのムードがある生演奏がそれらの音にかき消されたそうです。(そこにいた人の談)

メニューが英語なのに時代を感じました。これも私がいた頃ならフランス語でした。(英語メニューの用意もありましたが)
フォーシーズンズのケータリングには、あまり見えませんね

 ケータリングはフォーシーズンズホテルのレストランでした。もっともエジプトのフォーシーズンズの食事は大したことありません。

 前菜はブラータ、ムタバルとフムス(アラブの料理)などの冷たいメゼと、キベ、サンブーサク(アラブ版揚餃子)などの温かいメゼの皿。
 その次にスープと、鳩のパスティーシュ。

 メインディッシュはエビカレー、エジプト風ファッターと子牛のソテーからビーフメダリオン(楕円形カットのビーフ肉)まで、肉好きの人を満足させるのに十分なバラエティに富んだもので、エジプト人でさえ
「量が多い」
と目を丸くし、大満足。

 デザートとしては、伝統的なオンム・アリをはじめとしたアラブの甘いお菓子と甘い紅茶とトルココーヒー。

 食後には、ガイドがツアーを予約した人々を宮殿の指定されたエリアへと案内しました。
 劇場、玉座の間、白いサロン、ナズリ女王(私の執筆した「エジプトの輪舞」に登場する女王です。宜しくお願いします!)の棟などです。

必ずガイドの話を聞かないで、スマホをいじっている人はいます。

 例え、大した料理ではなかったとしても、これはずいぶんお得です。

 それにしてもです。
この宮殿に、広島原爆ドーム建築家のチェコ人ヤン・レッツェルも仕えていたんだ、と思うと、なんとも不思議な気持ちになります。

 それに改めてアブディーンの内装を見ると、19世紀後半にウィーンで始まった「シンプルな建築」に傾倒していたレッツェルの好みとは、ずいぶんかけ離れていたんじゃないか?と思わずにいられません。

上記写真全て より さすがに宮殿にはタクシーの客引きはいませんね

チェコ人建築家、カイロに向かう

 このシリーズの以前の記事にも書きましたが、影響力のある大物建築家コテラの弟子であったヤン・レッツェルは学校卒業後、ダルマチア(その後のユーゴスラビア)、モンテネグロ、ヘルツェゴビナを旅しました。

 1年半後にプラハに戻って来ると、すぐに就職先の建築事務所の仕事をひとつ、請負いました。

 北ボヘミアの村、ムシェネー・ラーズニェの村にある鉱泉スパ施設に、一度に最大 230 人の患者を収容できる 7 つのパビリオンが増設されることになり、レッツェルはそのうちの一つを任せられたのです。

 そこのスパはカルロヴィ・ヴァリの温泉ほど有名ではありませんが、、腸疾患や神経系の炎症に特に効く鉱泉ということで、長い間評判を博してきました。

 このパビリオンはレッツェルが母国チェコで完成させた唯一の作品ですが、予算の関係があったにしろです。華美でゴテゴテしたデザインではない。エジプトの流行とは違っています。

 それにです。奇妙なことに、アールヌーヴォー様式ながらもその装飾、モチーフ、屋根は中国風です。

 つまりです。この時点(日本へ向かう2,3年前)ですでに東洋への強い関心があったということになります。授業や書物などで東洋建築について學んでいたのかもしれません。

 現在レストランとして使用されているこれらの最後のパビリオンは、ヤン・ レッツェルが 1905 年に設計したアール ヌーボー様式のドヴォラナ パビリオン (パビリオン ホール) です

 この中国風アール・ヌーヴォー様式のドヴォラナ・パビリオンを完成させた後、レッツェルはエジプトへ渡りました、。

 きっかけはエジプトに間接的に人脈を持つ学生時代の恩師コテラの口利きだったのか。それとも、プラハの建築会社を経由して入ってきた話だったのかは分かりません。

スウェーデン王子とイギリス王女のカイロ・ロマンス

 この年、カイロでは三度目になるペストの流行が発生していました。

 衛生管理に全く無頓着であることも災いし、ここ百年もの間、コレラとペストのパンデミックを何度も繰り返し続けていたこの街では、もう慣れっこだったのでしょう。

 貧困街では大勢の感染者や死者が出ているのにも関わらず、アブディーン宮殿で盛大な舞踏会が開催されました。

 1905 年 1 月 3 日、HMSエセックス号 はイギリスのポーツマス港からフランスに向けて出航し、エドワード 7 世の弟のコンノート公爵アーサー王子が地中海巡視に出発していました。

 軍の監察総監であった公爵は、エジプトのさまざまな前哨地でイギリス軍を視察する任務に就いていました。

 この海軍巡洋艦には、プロイセンの王女だった妻のルイーズ・マーガレット王女、そして娘二人…23歳のマーガレット王女と18歳のパトリシア王女も同行していました。

 一行はまずポルトガルとスペイン各地を訪れ、イギリスのメディアは
「マーガレット王女とパトリシア王女はそれぞれ、ポルトガルの王子とスペインの王子と結婚するぞ!」
と連日書きたてました。

「その場合カトリックへの改宗問題がどうなるのか?」
「ポルトガル国は十分な結納金をイギリス王室に支払えるのか?」
 紙面上ではこういった議論も激しく交わされました。

 どうもイギリスのマスコミというのは昔から、王家の人間の結婚には異常に強い関心を持っていたようです。

 1月18日にスペインのマラガを出発すると、アルジェとチュニスに向けて出航し、そこでも英軍の視察と晩餐会が彼らを待っており、アレクサンドリアの港に入港したのは1905年1月26日でした。

 すると、わざわざ遠方のカイロから出迎えるためだけにやって来ていたヒルミー2世は停船したHMSエセックス号に自ら乗り込み、コンノート公爵に挨拶をしました。高官たちは船には上がらず、港で待機していた模様です。

 丸腰のヒルミー2世が握手を求め近づき、大英帝国の公爵の方は自分から前に進み出ようとはせず、片手に刀を持ったままであったところに、二人の力関係が伺わせられます。

 そして共にカイロ行きの(イギリスが作った)特別鉄道列車に乗りましたが、ずっと護衛についたのは在エジプト英軍です。イギリス側からの要請で、エジプト軍は護衛を任されませんでした。

 カイロ駅に到着すると、花や植物が飾られ赤いカーペットが敷かれたホームには、英軍部隊たちがずらりと並び起立したまま待機していました。

 列車から公爵が時に降りてくると、颯爽と歓迎したのがイブリン・ベアリングでした。
 エジプトを占領していたイギリスの高等弁務官(植民地管理者)ですが、日本ではクロマー卿の名前の方が有名かもしれません。

 この五年後、日本が韓国を併合し植民地にした時、日本はクロマー卿(イブリン・ベアリング高等弁務官)によるエジプトの植民地化の手腕を、参考にしています

 ヒルミー2世はコンノート公爵を歓迎すべく、大々的な舞踏会兼晩餐会を開くことになり、エジプト中のトルコ系とチェルケス系のパシャをはじめ、ヨーロッパ人の名士や貴族、王族が招待されました。

中央がヒルミー2世。背が低かったのですね。そして公爵夫妻、二人の王女。ヒルミー2世の真後ろの年配男性が、エジプトの首相だと思います。

 そもそもエジプトの冬はヨーロッパ人の社交シーズンの舞台でした。

 19世紀後半に蒸気船が生まれ、トーマス・クックがこの国を観光化させ、街の近代化も遂げると、寒いヨーロッパを抜け出し、暖かい冬を過ごしたいというヨーロッパ中の王族と貴族がエジプトに殺到しました。

 だから冬の間はカイロ中のホテルが常に満室で、毎週日曜に行われるカイロのゲジーラ宮殿の中の礼拝室では、ヨーロッパ人の礼拝者でぎっしり席が埋まるほどでした。

冬のカイロのゲジーラ宮殿の礼拝の様子

 今回のアブディーン宮殿晩餐会にはデヴォンシャー公爵夫妻の他、たまたまスウェーデン王位継承順位 2 位のグスタフ・アドルフ王子も出席しました。

 22歳の若きハンサムの王子は目下、ふさわしい妻を見つける任務を受けており、冬のエジプトの社交界にも顔を出していたのです。

 王子は既に大勢の年頃の王女や貴族の娘たちに出逢っていたのですが、まったくぴんときません。

「これだけ家柄の良い女性と会ってもだめなのなら、この調子じゃあ、平民の娘と結婚するんじゃない?」

 人々はそのように諦めていたほどです。ところがです。この晩餐会でグスタフ王子はなんと、コンノート公爵の娘の一人、マーガレット王女に雷を打たれたように一目惚れをしました。

 その数日後、カイロのイギリス領事館での晩餐会で再会した時に、王女に正式に求婚。
 
 翌日の各新聞では「カイロのロイヤル・ロマンス」、「愛のキューピットはヒルミー2世」等と一面に大きく記事を載せ、エジプトの社交界の一番の話題になりました。

 その後、この一件から冬のエジプトはますます社交界が賑やかになり、
「自分にも出逢いがあるかも」
と、結婚適齢期の王族貴族たちがこぞってこの国を訪れるようになりました。

https://www.thecourtjeweller.com/2021/02/love-on-nile-egyptian-wedding-jewels-of.html
挙式はイギリスで

 
 さて、この頃のカイロの娯楽はどうだったのでしょう。

 19世紀にスエズ運河開通に合わせ、カイロに新しく誕生した「ナイルのパリ」地区ことエズべキーヤ地区にオペラ座、サーカス劇場、パリと同じ美しい公園があり、街中のパブでは白昼堂々とテラス席でウィスキーが飲め、シェファードホテルのカジノはいつだって大盛況でした。

 ナイル川の中洲に浮かぶ島には、競馬場も誕生しています。ただし、この競馬場はイギリス軍のスポーツクラブの敷地の中にあり、イギリス人しか入場できませんでした。
(*のちに身分の高いエジプト人も入場可になり、他にも競馬場があったという話も聞きますが、確証がありません)

1905 年、カイロの競馬場(恐らくゲジーラ島のイギリス軍スポーツクラブ)でのコンノート家とグスタフ アドルフ王子
https://www.pinterest.jp/pin/560064903632141115/

アブディーン宮殿の階級世界 

 レッツェルがカイロにやって来たのは「ロイヤル・ロマンス」から半年以上経ってからだったので、このフィーバーはもう終わっていたものの、十月なので、再びヨーロッパ人の「エジプト社交シーズン」突入時でした。

 素朴な東ボヘミア出身で、まあまあ都会のプラハに住んでいた彼は、この植民地の街にカルチャーショックを受けたと思います。 

 貧富の差は途方もなく激しく、エジプトの王族とパシャは社交界ではフランス語、イギリス人とのビジネスは英語、使用人とはエジプト語(アラビア語)を話すと使い分けてました。階級身分で言語まで変わる、、、

 そう言えば、レッツェルは英語とフランス語はどのくらい話したのでしょう?特にフランス語が下手くそだったとしたら、この時代のカイロでは苦労したはずです。しかも貴族の称号もないですから。

 勤務先はアブディーン宮殿でした。宮廷建築家として雇われたといえば聞こえはいいですが、ここでも唖然としたのではないでしょうか。

 宮殿の中は汚職と腐敗だらけで、フランス語を操りフランス人気取りのパシャ(ナイト)の議員や大臣たちが出入りし、腰低くへつらった使用人たちの中にはバクシーシが目的で、パシャらにあれこれ情報を流しており、何でも袖の下が当たり前。

 職場でも顔ぶれが多国籍ながら完全に上下関係がはっきりし、最下位は色が黒い使用人たち。おまけに奴隷も多い。
 それに、すぐに言いつけたり悪口ばかりが囁かれ、陰湿です。つまり、宮殿の中でも悪い意味の「国際化」でした。

 外では、あまりにもエジプト人が立ち入れない箇所・建物が多く、そういうことに抗議するエジプト人は逮捕され拘束される様子もなどを目の当たりにしているはず。彼の故郷のボヘミアには、ここまで酷い格差、差別、混沌さはなかったはずです。

 もっともエジプトが不条理な社会であるのが、ある程度やむを得ないなと思うのが、この国はもう途方ない大昔から外国に支配されており、1905年現在はオスマン帝国トルコとイギリスの「二重支配」だったことです。狡猾で器用でないとやっていくのが難しい社会だったと思われます。

 よってです。
 レッツェルはプラハで巨匠コテラに可愛がられ才能を認められていたのにも関わらず、エジプトでは何一つ作品を残せず、他の建築家のように「パシャ」の称号も与えられていないとは、上手く立ち回れていなかったからではないか、と思います。

カイロのユダヤ人・「天国の門」

1911 年、カイロでのユダヤ人の葬儀。大々的に行っていました。

 ところで1905年ー
 1893年のシカゴ万博カイロ・ストリートで一躍有名になったウィーン出身の建築家マタセグが再び脚光を浴びていました。

 彼が建築した「天国の門」シナゴーグ(シャール・ハシェム・シナゴーグ)が市内のアドリー通りに完成し、大絶賛されたのです。

 アドリー通りの界隈には裕福なユダヤ人が大勢住んでおり、彼らはビルや店を所有しており、中でもネシム・モセリーといえばこの界隈では知らぬ者がいないほどの一番のユダヤ人成功者でした。

 そのモセリー氏が
中東最大のユダヤ教シナゴーグをカイロに作る
という野望を抱き、自身の土地を寄付し、1899年にウィーン出身の建築家マタセクに直接発注をかけたのです。

 
 カイロには元々ユダヤ人が住んでいたのですが、1869年にスエズ運河が開通しエジプトの近代化に拍車がかかると、一気にエジプトに移住するユダヤ人が増えました。

 その多くは滅びゆくオスマン帝国の他の領土や、迫害の起きたスペインやイタリア、それから東欧から逃げてくるユダヤ人たちでしたが、ムハンマドアリ王朝は彼らを受け入れました。

 カイロに定住したユダヤ人は貿易商、両替商、医師などで成功しましたが、そもそもエジプトの内閣では、代々財務大臣の多くはユダヤ人です。他の多くの大臣、下院議員もユダヤ人でした。

 ルーツを辿れば紀元前数千年前からエジプトに入っていた民族なので、それは全く不思議でも何でもありません。無論、外国人の支配者が変わるごとに浮き沈みがあったものの、ムハンマドアリ王朝では「安心」を感じられていました。

 カイロのユダヤ人人口は、1800年代初頭の約3,000人から1900年に入るとその8倍から10倍に急増しました。
 
 なので、カイロにはすでにいくつものシナゴーグが存在していたのですが、コミュニティがますます巨大になるにつれて、
「この街に大きくて立派なシナゴーグを作ろう」
と、モセリー氏が声を上げたのです。

 建築資金を求め、氏はアシュケナージ系(ドナウ川辺りの中央ヨーロッパのユダヤ人)とスファラディ系(スペイン・イタリア系のユダヤ人)らからの募金を頼り、それはあっという間に目標金額に達しました。大したものです。

 その結果、大祭礼のミサを行うことも可能な大きなシナゴーグが、AH出身の建築家マタセグの手によって生まれました。

 建物の様式は非常に興味深く、オスマン様式と古代エジプト様式そしてユダヤ様式の融合であるネオ・ファラオニック様式です。

 ネオ・ファラオニック様式の採用は、当時エジプトで流行っていたのと、「ピラミッドを建造したのは自分たちだ、クフ王はユダヤ人だった」と主張するユダヤ人たちがいるところから生まれた可能性があります。

 「ピラミッド論争」はまだ続いていますが、それはさておき、 「天国の門」シナゴーグのファサードは北側と南側に分かれており、階段でアクセスできる 2 つの同一のパビリオンのような柱廊がありました。女性専用エリアも設けられていました。

 メインの入口には、ファラオの神殿でお馴染みの2 対のオベリスクが立っており、内部はほとんど白い大理石はイタリアから運ばれたものでした。 

 あまりにも見事であるため、このシナゴーグはカイロの新しい「観光スポット」にもなり、ユダヤ人以外の観光客も見学に押し寄せました。           

アブディーン宮殿の建築家たち

 ところで1892年に、フランス人建築家が建てたアブディーン宮殿の数カ所が火事で燃えてしまった時、当時のタウフィク副王(ヒルミー2世の父親)はウィーンの建築家カール・フライヘル・フォン・ハーゼナウアーに修復の依頼をかけました。

 しかし、第一線の建築家ハーゼナウアーはウィーンのヴルグ劇場、自然史博物館、美術史美術館など手掛け、この上なく多忙を極めていました。
 
 そこで代わりに、当時45歳だったギリシャ系ドイツ人建築家のディミトリ・ファブリキウスがこの修復プロジェクトの主任建築家に抜擢されました。エジプトで既に数々の実績があるベテランです。(*但しこの経緯は、出典によりまちまちです)

ファブリキウスの作品

 ファブリキウスの下にはイタリア人、フランス人、AH出身の複数の建築家たちがつきましたが、その中ですぐに頭角を現したのは、ガロ・バリアンでした。

 1998年に私がアレクサンドリアのギリシャ協会に問い合わせをした時、ファブリキウスの一番弟子が誰だったか?質問しました。
「ヤン・レッツェル」が答えだったら完璧だったのですが、実際の回答は、この「ガロ・バリアン」でした。

 1872 年にコンスタンティノープルで生まれたガロはオスマン帝国の宮廷建築家であり、ドルマバフチェの建築で名声を得たクリコル・バリアンの子孫とされ、建築家一家の出身でした。

 オスマン帝国はもう「末期」で情勢が非常に不安定の状況だったため、1890年頃(推定)に一家はカイロに移住。多分、ガロが宮廷建築家の仲間入りをしたのもコネだったはず。

 1904年、ガロはジョセフ・セルバ・パシャ広場(後のタラットハルブ広場)のネオバロック様式マトシアンビルを建築し、イブラヒームパシャ通り(後のタラート・ハルブ通り)のシャッカルビルも手がけました。

 のちに彼はファード国王通りのタウフィク 広場4 番地のグリーンビルに自分の事務所を設立し、ザマレク地区のユニオンビルと、ファード通りのケムラ百貨店とシキュレル百貨店などの建築も手掛けます。
 どれもネオバロック様式をベースとした華のある建築です。エジプトの流行にマッチしていました。

 しかし、それはいいとしても、ファブリキウスもガロも外注の仕事ばかり受けています。その方が稼げたのでしょうが、恐らく副王にはのらりくらり言い訳をし、火事で燃えた宮殿の修復を放置していたのかもしれません。

ハンガリー建築家のアル・リファイ・モスク

 ウィーン出身マタセグによる「天国の門」シナゴーグが完成した1905年。

 シカゴ万博カイロストリートを手掛けたもうひとりの建築家(むしろ、こちらの方がメインの建築家でした)、AH出身ユダヤ系ハンガリー人のミクサ(マックス)・ヘルツは、カイロ旧市街にアル・リファイモスクの建築を開始し始めました。これはアッバス・ヒルミー2世本人による勅命でした。

 アル・リファイはもともと12世紀に建てられた小さなモスクだったのですが、その後荒れ果て、ヒルミー2世の祖父イスマイール副王時代の1860年代に大規模な改築をし、王家の墓にしようという計画が出ました。ムハンマドアリ王朝王家のための集合墓地がなかったからです。

 ところが途中の段階で計算違いが分かり、工事が中断されました。
 しかしヒルミー2世はこのモスクのことを気にかけており、何とか自分の在位中に、立派な王家の墓となるアル・リファイモスクを今度こそ仕上げたいと考えていました。

 ヘルツはイスラム建築の第一人者です。
「このモスクの完成を成し遂げられるのは、ヘルツしかいない」

 デザイン設計など一切口を出さず、ヘルツに全て託しました。シカゴ万博のカイロストリートの時と同じです。

 全ては書ききれませんが、「天国の門」シナゴーグ完成、王家のためのアル・リファイモスク建設始動など、カイロ中の至る所ではAH出身の新旧建築家らも大きなプロジェクトを任せられ活躍していました。
 レッツェルは一切蚊帳の外だったようですが…。

エジプト観光地・建築を見て歩く

 普通で考えると、まだ24歳の若さといえ、レッツェルはわざわざ外国から招かれたプロの宮廷建築家ですから、給料は良かったはずです。それに当時からヨーロッパとは全然物価が違っており、カイロでは何もかも安かった。

 だけども決して派手な生活は送らなかったようで、その根拠は当時の社交界の顔ぶれに登場していなかったらしいということと、故郷の母親に宛てた手紙に
「サッカラという遺跡や博物館、ルクソールの神殿、あとは観光地を見て廻っている」
と遺跡や観光地、街中を見て廻っていることばかりを書いているからです。(*手紙原本は見つけられず)

 ただし、「母親」には普通は夜遊びなど言わないものなので、なんともはやですが、 1907 年 5 月の雑誌「チェスキー・スヴェト」の第 31 号に、カッレは「カイロ滞在から」というルポルタージュのような寄稿文を寄せました。
 その一番最初の文は、このようなものでした。

「明るい太陽に輝くその日。
 ムハンマドアリ・モスクからフセイン・モスクに至るカイロの通りは、最高の儀式用のローブを着た正統派イスラム教徒で混雑していた」

 そしてオリエント(エジプトも「オリエント」です)の魅力や芸術について、自身で撮影した8枚の写真掲載を添えて語っています。

 ところで再度申しますと、レッツェルはウィーンのオットー・ワーグナーやプラハの師匠コテラに代表される「モダンスタイル」、つまりシンプルな装飾と石、硬い石膏、コンクリートなどの原材料を用いた建築を好み、専門としていました。

 AHでは19 世紀後半になると、若い建築家たちは古い建築様式の華美さと形式主義に反発するようになり、1896 年にオットー・ワーグナー(1841-1918) は、より自然で機能的な建築形式への回帰を主張。
 その結果、「分離派」 が確立され、コテラもそれに傾倒していました。

 この頃のエジプトで求められた華美で華やかな建築とはあまりにもかけ離れていたので、彼のデザインが第一合っていなかったのではないでしょうか。

 ただし全ての装飾を無視する分離派のウィーン出身アドルフ・ロース(1870-1933)はエジプトで名を残しているので、やはり本人の処世術の問題が大きかったのか…

 正確には一年九ヶ月間、レッツェルはこの国に住んでいましたが、大きな建築を手掛けたい思いでありながらも、その機会を得られず悶々としながら、ひたすらこの国を見て回り続けていたであろう…。

 また、彼はなぜかブームだったエルサレム旅行は敢行していないようですが、とにかくです。

 時間を持て余し、色々な場所を見て回っていたレッツェルが、当時開けた国際都市だったポートサイードの街にも足を運び、スエズ運河会社の建物を目にしていないとは考えにくいのではないでしょうか?

「ロイヤル・ダイニング」の時の宮殿スタッフ(多分、バイト)君たちですが、よく見るとトルコ帽じゃなくて、ベレー帽にも見えます。

                      つづく


レッツェル。背丈は低かったらしいです。

参照または一部引用:


 https://english.ahram.org.eg/NewsContent/1/2/495450/Egypt/Society/Royal-Dining-Cairo;s-Abdeen-Palace-opens-for-iftar.aspx

https://english.ahram.org.eg/NewsContent/1/2/495450/Egypt/Society/Royal-Dining-Cairo;s-Abdeen-Palace-opens-for-iftar.aspx

      






             

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