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「在カイロ・オーストリア大使館に問い合わせて下さい」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅡ〜LOLOのチェコ編⑩

前作:「ベルエポック時代のエジプトに住んでいたんです」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅠ

 世界中の(言い過ぎ?)撮影コーディネーターがやりたがった仕事は日本の『あの局』の海外ドキュメンタリー番組でした。なぜならギャラの金額が桁違いだったのです。一言で言うなら、それも「時代」です。

 外国のどのテレビ局よりも大金をポンッと支払い、見積書の段階でもセコくなく、コーディネーターの提示する金額を値切ることなく、気前よく振り込む。

「日本の『あの局』はCNNやBBCよりもずっと払ってくれる、最高だ」
 当時、色々な国のコーディネーターもよくそう感心していたものです。

 それにです。予算がふんだんにあるので、普通はカメラが入れない特別な場所や国宝の撮影も可能であることが多く、コーディネートする側も気持ちがいい。

 第一、日本でナンバーワンのテレビ局だから、撮影の仕事を請けると「箔」もつき信用度も増します。海外コーディネーターが喉から手が出るほど、日本の『あの局』の仕事をしたがりました。

 まだバブルの余韻があり世の中が大らかで、実際に貴重なインタビューや映像などをバンバン撮り、意義があるドキュメンタリーを作っていたのも事実だった、というのも付け加えておきましょう。

              §
「Loloさん、ガンガン企画書を書いて、あの局の仕事を取ってください」
 撮影会社のチェコ人上司がしょっちゅう言ってきました。

「企画書企画書って言いますが、チェコに何か特集番組向けのネタが果たしてあるでしょうか?ビロード革命やチェコスロバキアの分断の特集はすでに出尽くしているようなのに」

「ウ~ン、じゃあカルルシュテイン城特集とか、パブ巡り ?」

「ふう。そんな地味な特集の企画だなんて、日本側にボツにされるに決まっています。
 オーストリアのハプスブルグ家やドイツのヒトラーのドキュメンタリーならいけるかもしれませんが、チェコは”弱い”。決め手の遺跡や歴史人物がいません、難しい」

 チェコに「目玉となる何か」がないことで困ったのは、観光業においても同じでした。

 観光ガイドの資格が発行されると時折、私にも観光ガイドの仕事も舞い込むようになりました。結局、エジプトもそうでしたが、ツーリズムとテレビ番組撮影の仕事は紙一重。国や地域によっては切り離せない関係です。

 チェコでの観光案内を始めた時、最初は「簡単」だとたかをくくっていました。

 エジプトのように炎天下の遺跡を歩くことはないので、体力消耗もせずに済み、体調を崩して倒れる観光客も滅多にいません。スリ以外は悪い輩も出没しないので、安心して観光案内もできます。それに歴史そのものも長くはないので、暗記することも限られています。

 ところがです。やってみて思ったのが、逆に難しい。まさに「これ」という特徴が本当にないからです。(*主観です)

 言うまでもなく、エジプトはピラミッドを見ただけで感動する。フランスはベルサイユ宮殿、凱旋門。ロンドンなんて赤いロンドンバスが通るだけで、日本人観光客は喜びます。中国なら万里の長城、ケニアならライオンや象、ロシアなら赤の広場。

 ようは共通点は日本人が昔からお馴染みの「何か」であることです。雑誌やテレビ、映画を通じて何度も目にし、憧れ続けたものを初めて目の前にすると、それだけで胸が熱くなります。

 ところがチェコには、日本人にとってよく知っているというものが何もないのです。チェコの歴史上の人物だって、全然知りません。

 それでも、実際にインパクトの強い観光スポットでもあればいいのですが、ないのです。 

 そもそもチェコを訪れる観光客はとっくに英仏独を訪れているので、チェコの「素朴な」教会にも城にも、何も感動を覚えません。

 カレル四世の話をしても、カレル橋の上の聖人像たちについて語っても、日本人の観光客にはぴんときません。これがミイラなら、ミイラであるがゆえんに、それだけで「ぞくぞくします」「興奮します」となるのに。

「こうなったら奥の手だ」
 
 この地がかつてはオーストリア・ハンガリー帝国であったことを「利用」して、ハプスブルグ家やモーツァルトの面白いエピソードをガイドの話に盛り込んでみました。

 案の定、グループの反応は悪くなかったのですが、添乗員さんに
「ウィーンで向こうのガイドさんにそれらの話はしてもらうので、結構です」とため息されました。

             §
 撮影コーディネートの話に戻ります。

 会社が企画書を書け書け、とやかましいので

「例えば、日本ではまだ知られていないけれども、誰か興味深いチェコ人の歴史上の人物とかいないかなあ?そしたらその人物の紹介する企画書を書くけど」

 私が左手の指でユニボールのボールペンをくるくる回しながらぼやくと、周りの席のチェコ人同僚らがびっくりした顔をし、全員じいっと私の手のペンのくるくるを見つめてきました。
 
 どこの国に行っても、片手指のペン回しをすると驚かれたものですが、それはいいとして、結局彼らが勧めてきた”歴史上のチェコ人の人物”はなんと…
「ヒトラーの母親のマリアだ」

「えっ?」
「マリアはボヘミア出身で、チェコ人だった。それに”マリア”がキリストではなくヒトラーを出産したというのも面白いだろ?そのテーマの企画書を書けばいいさ、ハハハッ」

 ちなみにヒトラ−母親のマリアがチェコ人だった確証はありません。本当は、どちらかといえばオーストリア人説の方が強いのですが、
 当時は「都市伝説」のように、チェコの若者たちはそのように言って「ヒトラーの母親はチェコ人」と信じていました。

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 話はその少し前に戻ります。

「広島原爆ドーム建築家のチェコ人ヤン・レッツェルはね、日本の前にエジプトに住んでいたのよ」

 ヤン・レッツェルが東ボヘミアのナホトの小さな村で生まれたのは、1880年。1867年に誕生したオーストリア=ハンガリー帝国(以下「AH」)内の地域です。

https://www.timewisetraveller.co.uk/austria1867.html

 両親は小さな宿を経営しており、もしかしたらこれが建築に興味を抱いたきっかけだったのかもしれません。
 「宿の構造が良くないだ」とか「使いやすいバスタブだった」など宿泊客が両親にそう話すのを聞いていたかもしれませんから。または父親が建築好きだったとか…。

  レッツェルは建設学科および土木工学科に進み、1901年、奨学金を得て都会のプラハへ出て、1885年に創立されたばかりの美術工芸学校の建築科に入学します。
 
 AH時代のボヘミア地方は恐るべき勢いで工業化が進み(これをアメリカのデトロイトの発展と一緒だったと考える人もいます)、プラハも活気に溢れた街でした。AHで最も繁栄を誇った地域の一つだったと言えます。

 チェコ人はロシアやドイツの悪口を言うことがあっても、オーストリアの悪口はそうそう出ないのは、私の見る限り、AH時代のボヘミアことチェコは、そこまで悪い生活ぶりではなかったからなのかもしれません。

 それにハプスブルク家の場合は言語や宗教、文化をそんなに押し付けてくることがなく、ある程度自由にさせてくれていたようですし。

 
 レッツェルがプラハで出会った師匠はヤン・コテラでした。

 コテラはチェコ人父とドイツ人母を持ち、AHのブルノ(現チェコ)で生まれ、ドイツで育ち、そしてウィーンで建築を学びました。

 プラハのモーツァルテウムやカレル大学法学部の校舎など建築し、「チェコ建築発展の父」と呼ばれる大物です。

モーツァルテウム

 ウィーン留学時代、彼はブルノで生まれたチェコ人建築家アドルフ・ロースに出逢っています。

 ロース自身はエジプトに渡って何か仕事をしたことはないものの、彼の弟子たちがそちらで活躍しており、よってロースはエジプトと仕事のコネを持っていました。

 1910年には、オーストリア人オーナーがアレクサンドリアにシュタイン百貨店という百貨店を開業しようと考え(この時代はエジプトには数多くのAHの百貨店がありました)、その設計をロースに依頼します。今回こそ、ロースは自身で引き受けました。

 ところが様々な事情で工事がなかなか始まらず、そうこうしているうちに第一次世界大戦が始まり、このプロジェクトは中止になりました。

 しかしロースは自分で描いたアレクサンドリアの「幻」のシュタイン百貨店の設計図を気に入っており、死ぬまで寝室の壁に飾っていました。そしてこの設計図は今でも高い評価を得ています。

https://archimaps.tumblr.com/post/103331892227/adolf-loos-design-for-a-department-store

 話がそれましたが、レッツェルの師匠コテラはローマのヴェネチア宮殿お抱えの建築家として勤務していたこともあります。

 その建物にはローマ法王庁のAH大使館が置かれており、そこのAH大使館はエジプトと非常に強いパイプを持っていました。

 1902年、レッツェルは学校を卒業すると、師匠コテラに命じられ外国研修へ出ます。行き先はダルマチア(その後のユーゴスラビア)、モンテネグロ、ヘルツェゴビナでした。

 これらもAHの領土でしたが、工業化で栄えていたボヘミア地方(現チェコ)に比べると、遥かに貧しい地域だったはずです。
 比較的都会で恵まれた環境のプラハから来たレッツェルはどう感じたのでしょうか。

 1年後にプラハに戻ると、1904年6月にとある建築事務所に就職。そこでは、アールヌーヴォー様式の療養所の設計と建築を任せられるものの、1905年8年に退職します。

 そう、たったの一年二ヶ月しか在籍していなかったわけで、普通で考えたら職場と合わなかった、方向性が違った、何かトラブルが生じたなど想像できます。

               §
 私の話に戻ります。

 観光ガイドライセンス取得の「形式上の」試験を受けた時、チェコ観光協会だが観光庁の老婦人試験官は、(通訳を介して)私にレッツェルがエジプトにいたことを教えてくれました。

プラハの建築事務所に1年ちょっと在籍した後、エジプトでアブディーン宮廷のお抱え建築家になったのよ
「どういう経緯だったのでしょうか?」

 老婦人試験官は首を横に振りました。残念なことに、それ以上は何も知らないと…。

 その2,3ヶ月後ー
 会社でいつものように「企画書頑張って」とプレッシャーをかけられていると唐突に閃き、いつもの左手指のユニボールペン回しを速めました。

「分かった!ヤン・レッツェルの特集をすればいいんだ!日本のテレビ局では毎年終戦記念日の夏になると、戦争関連の特別番組を放送しているし、レッツェル特集はうってつけだ!」

 名案だと思いました。この企画書なら間違いなく、局も興味を持ちます。

 しかも
広島原爆ドームは、エジプトのポート・サイードにあるスエズ運河株式会社オフィスの建物に影響を受けた
という私の推測も入れられたら、新説として盛り上がるドキュメンタリーになるのではないでしょうか。

 ところがです。しいん…。
「あれ?あれれ?」

「Loloさん、レッツェルの特別番組は既に制作されているんだ」
「え?」

「ビロード革命の翌年に、日本のその局の撮影隊がチェコにやって来てね…コーディネート会社は◯◯だったのだけど、大金が入りホクホク顔だった…
 それはともかく、その年に日本のあの局とチェコテレビが共同で、ヤン・レッツェルのドラマを制作しているんだよ」

 驚きました。しかもドキュメンタリーではなく、ドラマ?

 タイトルは
ヤン・レツル物語〜ヒロシマドームを建てた男

 1991年5月4日に日本で放送されたそうで、もちろん、そのドラマの中ではレッツェルのエジプト時代には何も触れていなかったようです。

 物語そのものは建築のことよりも、レッツェル(タイトルでは「レツル」になっていますが)が、いかに変わり者として祖国では「浮いて」いたか。
 また、関東大震災で自分の建設した建物が崩壊し、どんなに嘆き悲しんだのかというのにクローズアップしていたそうです。

「じゃあタイトルと内容が噛み合っていないんじゃあ…」

 それに、「ヤン・レツル物語〜ヒロシマドームを建てた男」のヒロシマドーム…。全部カタカナでヒロシマドームだなんて見せられると、ライブ会場の東京ドームみたいじゃあ…。

「なんでそのまま漢字で『広島原爆ドームを建てた男』にしなかったの?」

 もしかして、1991年放送というのに注目です。そう、第一次湾岸戦争が起きた年です。

 多分、反米感情を刺激しないように、タイトルもやんわりさせ、内容もマイルドにしたのかもしれません。

 チェコ人の同僚は

「良かったことはそうねえ、チェコでも撮影が行われたそのドラマのおかげで『広島の原爆ドームをチェコ人が建設した』というのが、この国で広く知られるきっかけになったことねえ」

 それはいいとしても、私はがっかりしました。
「ああ、そうかあ。レッツェルの企画はだめかあ」
 しかしヤン・レッツェルが気になります。

 その理由は2つあって、一つはどうしても彼がスエズ運河株式会社のオフィスにインスパイアされて、広島原爆ドームを建てたのではないか?というのを知りたいという「好奇心」がむずむずしていたこと。

スエズ運河株式会社オフィス(1890年代)
広島産業奨励館(1915年)

 もう一つはレッツェルがチェコ、日本、エジプトの三カ国に住んだということで、私自身と何か通じるものや親近感を僭越ながら、抱いたからです。

 これはもう
「自分で調べるしかないかな。他の局や制作会社に企画書を書いて出してみよう」

              §
 早速、私は自分の名刺をコピーして、カイロのチェコ大使館にFAXを流しました。

 ネットがない時は外国について調べる際、日本の旅行会社もテレビ局、制作会社もちょっとしたことでも領事館や大使館に問い合わせしていました。

 でも国や窓口の担当者によって対応の良さ悪さ、知識のあるない、気が利く利かないなど本当にまちまちで、マイナーな国の大使館・領事館の方がいつだって親切で丁寧でした。


「広島原爆ドームの建設家ヤン・レッツェルは1905年にカイロに住み、宮廷建築家だったと聞きました。その情報がありませんか?」

 在カイロのチェコ大使館にその質問FAXを流しました。しかしです。エラーばかりで、なかなか送信されません。

 エジプトは回線事情が良くなかったので、電話やFAXがうまく繋がらないことがあり、しかも大使館領事館の回線は「監視」されているものだったので、余計にまどろっこしい現象が起こることがありました。

 でもこの、うまくFAXが流れないトラブルに私はなんとも言えぬ「懐かしさ」を感じました。
「ああ久しぶりだな、この苛々の感情。これぞエジプト!」

 
 最終的にどうにかFAXが流れると、エジプトのチェコ大使館はちゃんとFAX返信をくれました。非常に親切でしたが、それには

「…結論を言えば、当時はオーストリア・ハンガリー帝国だったので、チェコ大使館は何も分かりません。オーストリア大使館に聞いてみてください

 
 あっ、そうか!うっかりしていました。

 すぐにカイロのオーストリア大使館に、同じ内容のFAXを送信しました。すると、期待以上の答えが返ってきました。

〚◯◯コーディネート会社 Loloさん
 前略

 エジプトに住んでいた日本人のあなたがチェコ共和国に移り、エジプトで修行をした若きボヘミア人建築家について調べている。その建築家はのちに日本再生の象徴になる広島原爆ドームを建築した。

 しかもそのドームの建物は、スエズ運河会社の本社に設計法などがよく似ている。よって調べて番組企画書を書きたい…これはなんて興味深いのでしょう。ワクワクします〛

 感激しました。
 オーストリア政観など昔から日本の旅行会社やテレビ撮影に協力的で、非常に親日であったのは業界では既に有名でしたが、私もこのあたたかい返信にじいんときました。

 
 続きを読むと、このように書いてありました。
「…生憎エジプト時代のボヘミア人のヤン・レッツェル氏の情報は何も出てきませんでした。
 しかしレッツェルがエジプトにいた時代の背景、同時期にエジプトで活躍したオーストリア・ハンガリーの建築家たちの情報はあります。

 せっかくなのであなたにそれを送りします。何かヒントが得られるかもしれません。お役に立てたら幸いです」

 するとです。
 ピィイイイヒュウウ…ピュウヒララ…(*FAX受信ってこういう音でしたよね?)

「あ、きたきた」
 私はにこにこしていました。チェコ人同僚も微笑んでいます。

 ところがです。おや?FAX音が止まらない

 長い、長いのです。せいぜい4,5枚かな?と思っていたのですが、とんでもない!
  カイロのオーストリア大使館から、次々と何十枚ものFAX用紙が送信されてきたのです。ピィイイイヒュウウ…ピュウヒララ…ずっと鳴り続けます。

 おかげでFAX用紙もインクも途中でなくなり、急いで補充。もちろん受信に時間がかかり、その間電話も使えずオフィスの空気が…冷や汗が流れました。

               §
 何十枚のFAXのタイトルは「1882年から1914年のエジプト」。著作の名前はチェコ系オーストリア人の大学の女性教授。

「ぬっ!?」

 1882年はイギリスがエジプトを実効支配をした年で、1914年は第一次世界大戦でイギリスと敵対した年です。

「つまり、ああ、これはイギリスの悪口だな」
 読み始めると案の定、ちょいちょい、イギリスへの皮肉や怒りがにじみ出ている個所が含まれていました。

 実際、冒頭がこれです。
1882年から1914年のエジプトはオスマン帝国の一部であった。それにも関わらず「イングランド」はエジプトを実効支配した〛
(*このFAXには「イギリス」を「England」として書いており、決して「大英帝国」とも「グレートブリテン」とも明記しておらず)

 そして、最後のページの最後の段落です。

〚1914年6月28日、フランツ・フェルディナンドが暗殺され、国際的な緊張が高まり、第一次世界大戦が勃発した。

 オスマントルコが参戦すると、エジプトのアッバス・ヒルミー2世副王は、イングランドによる傀儡(かいらい)エジプト政府の解散をすぐに発表。
 ヒルミー2世は、エジプトの本来の宗主国オスマン帝国トルコ側につき、共もイギリスに対して戦おう、と決心した。

 国民のための憲法を約束し、イングランドに対する反乱を呼びかける宣言もしたが、1914年12月18日、イングランドはエジプトに対する宣戦布告を出した。

 結局、オスマン帝国は敗れ、エジプトはオスマン帝国から分離独立となり、イングランドの完全なポスト植民地となってしまった。

 イングランドの外務大臣がエジプトを直接統治し始め、それまでの総領事に代わりに、高等弁務官をエジプトに送り込んだ。
 エジプトのケディブより権力を持つイギリスの高等弁務官は、アッバス・ヒルミー2世をすぐに退位させ永久追放にした。

 ところで大戦勃発の数週間後、AHが中央列強側の戦争に参戦したので、イングランドはオーストリア・ハンガリー帝国の領事官をエジプトから追放した。1914年9月10日のことだった。

 我が領事官吏が国外に追放されたのである。

 エジプトにおけるオーストリアの利益は、17世紀半ばから特許を取得しており、イングランドよりもエジプトとは長い関係を持っていたのにも関わらずだ。(*太文字個所には下線が引いてありました)

 他にも、エジプト在住のオーストリア臣民は、異国の地を離れざるを得ない状況にされた。(*法的公的には、エジプトの宗主国はオスマンなので、「イングランド」にはそんな権利がないはずだったのに、ということなのでしょう)

 とはいえ、AH臣民が去った後も、エジプトにはその活動の痕跡は大きく残った。特に建築家の残した建物だ。

 エジプトには、AH出身の建築家により生まれた多くの素晴らしい建物があり、そのいくつかは今日でも見ることができる。

 当時のムハンマドアリ王朝時代、オーストリアの企業や銀行など次々に進出し、

 数多くのデパート(キルヒマイヤー、アルバート・マイヤー&カンパニー、オロスディ・バック(のちのオマルエッフェンディー百貨店)、シュタインズ・オリエンタル・ストア、ビクター・ティリング&フレール)も開業した。
 これらのデパートは第一次世界大戦の終わりまで営業した。

 多くのオーストリアハンガリーの企業、銀行、百貨店がエジプトに進出すると、当然「建築家」も大勢必要になったのだが、さらにだ。

 1892年に副王(ケディブ)の座についた、前述のアッバス・ヒルミー2世はフランスとAHの建築様式を好み、AH出身の建築家らに途切れることなく、公共建造物や宮殿などの建築を依頼した。

 すると、圧倒的な建築家不足に困ったエジプトのオーストリアの建設・設計事務所は、多くの若手の建設家を国から呼び寄せた。

 ウィーンに留学していたヒルミー2世は、西洋建築にも造詣が深く、進歩的な考えを持つケディブだった。

 時はエジプト建築(1805-1950)が盛んだった。

 ムハンマドアリ王朝開祖のムハンマド・アリー・パシャはロマネスク様式と初期フランスルネッサンス美術を積極的に取り入れており、その孫のイスマイール総督は装飾やフリーズなどのあらゆる要素を取り入れたヨーロッパ様式を好み、エジプト風のルネッサンス美術を復活させていた。

 アリの玄孫であり、イスマイールの孫にあたるヒルミー2世は古代エジプト様式とイスラム東洋美術、オスマン様式、ヨーロッパルネッサンス美術を融合させたり、一方ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝の建築様式を見事に応用させていた。

 かつ、ヒルミー2世は1894年(*レッツェルのエジプトに渡る9年前)にはコンクリート建物を積極的に採用し始めた。

 
 ようはエジプトでは建築家たちのしがらみも少なく、様々な建築スタイルを許され新しいことにも挑戦させてもらえやすい…
 経験を積みたい駆け出しの建築家にとって、これはチャンスだった。AHの新人建築家は進んで大勢渡って来た。

 こうした「ハプスブルク家の」建築家らは大いに功績を残し、イングランドにより彼らが追放された後も、その革新的で前衛的で時には懐古主義の作品の数々はエジプトに残ったのである〛

 カイロのオーストリア大使館から送信されたFAXには、当時のAH出身の建築家の名前も連なっておりました。

 私は片手指ボールペン回しを最大高速回転させながら、それを真剣に目で追いました。
「ヤン・レッツェル、レッツェル…名前はリストにないかな…」

                つづく

   

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