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チェコ(ボヘミア)の赤いトルコ帽子〜(原爆ドーム)チェコ人建築家ヤン・レッツェルシリーズⅧ〜LOLOのチェコ編⑯

 ウィーンの街を初めて歩いていた時、貴族のようなクラシカルな帽子がショーウィンドウに陳列された帽子屋が多いことに、目が留まりました。

https://www.facebook.com/HattitudeChristinaLichy/

ボヘミアの赤いトルコ帽

 帽子といえばですが、オスマン帝国トルコとその領土ではおなじみの赤いトルコ帽子の生産地は、AH(オーストリア=ハンガリー帝国)のボヘミア地方でした。

 この帽子が生まれたのには、こんないきさつがありました。

 1826 年、スルタンのマフムード 2 世は「帽子」についてどうしたものだが、と考えていました。

 当時、西洋のシルクハットが流行ってい たのですが、翼が広いためイスラム教の祈りの時にそれが邪魔になります。

「何かオスマン帝国のシンボルになり、かつ祈りの時の妨げにもならない帽子が必要だ」

 いくつもの案が出されましたが、マフムード2世の会心を得たのは翼のない赤い帽子でした。

 この帽子はサラブージュと呼ばれました。ペルシャ語の「頭にかぶるもの」という意味ですが、そのうちそれが訛って「タルブーシュ」になり、この呼び名はペルシャにも逆輸入されました。

 マフムード2世はすべての公務員と軍人にタルブーシュ着帽を規定し、巨大な市場を生み出しました。

 赤いトルコ帽こと、タルブージュが「フェズ」のニックネームだったのは当初、その生産をモロッコのフェズの町で採れる天然の赤色染料に依存していたからです。

 その後、しばらくするとオーストリアのストラコニツェ(現在のチェコ)のユダヤ人フェルト家が、赤いトルコ帽(タルブーシュ)の生産工場を作りました。

 1845年にはタルブーシュはオスマン帝国だけでなく、レバント(シリアレバノン、パレスチナ)、エジプト、さらにパキスタンにまで輸出され、クリスチャンの西洋人男性たちも着帽しました。

「頭にかぶる赤い帽子は公の場や誰かの前では、決して脱ぎません。トルコ人は家の中では暑さのために、頭を覆わないこともありますが、見知らぬ人が入って来ると、すぐにタルブーシュをかぶります。

 私たちポーランド人の多くもタルブーシュをかぶっており、教会でさえ、慣習どおりに脱ぎませんでした」

  1870年代にオスマン帝国(ルーマニア(ボスポラス海峡、バルカン半島、ドナウ川))に住んでいたポーランド人移民
初代キッチェナー伯爵、イギリス陸軍元帥(1902)
デンマーク人の建築家ミケール・ゴトリプ・ビネスブル(1800−1856)
イギリスの画家ウィリアム・ホルマン・ハント(1865年)
オランダ人画家Florentius Nicolaas Jacobus Arntzenius

セルビアの王子、Prince Paul Arsenovich
ボスニア人兵士(1943年)
1914 年頃、イスタンブールの法学生だった(イスラエル建国に関わったユダヤ人の)デヴィッド・ベングリオンとイツハク・ベン・ズヴィ

 エジプトで着用されるタルブーシュの 80% はボヘミアのフェルト家の工場から輸入され、1881年にはカイロのファハミーネ通りに、同社のタルブーシュ専門店がオープンしました。

 他社製造のタルブーシュも売られていましたが、使用感や丈夫さ、手触り、色が落ちないなど全てにおいて勝るフェルト家の帽子が圧倒的に人気でした。
  しかし、それが今のチェコで生産されていたことは、案外チェコ人ですらも知りません。

ムハンマド・アリと明治維新

 1853年
 ペリー提督率いる米国海軍が開港を強要してきて、日本は屈辱を味わされました。

 しかし、それがきっかけで急速な工業化と近代化のプロセスに乗り出し、その一環として多くの建築家をヨーロッパから呼び寄せることにしました。明治政府にとって近代化とは西洋化を指したからです。

 どこかで聞いた流れです。そう、1805年にエジプトを統一したムハンマド・アリです。これはアリがやったこととそっくりです。

アリ

 1805 年から 1840 年にかけて、アリは強力な関税の壁を築き、輸出入独占システムを確立。そして近代的な教育機関と専門の軍隊、専任の専門官僚制度を築きました。
 
 同時に(当時は)フランスに依存し続けるのではなく、国内でさらに発展させるために、人々を次々とヨーロッパ列強諸国へ送り込み、制度的技術を学んで持ち帰らせました。

 19世紀、岩倉使節団が西洋列強諸国に派遣され、エジプトにも訪れ完成前の工事中のスエズ運河を視察をしました。 

 運河建設現場では奴隷を酷使していたことや、カイロの町中には物乞いがうようよいることにショックを受け、いい印象を抱きませんでした。

 だけどもです。アリの近代化の成功について學んだはずです。岩倉使節団は大国ドイツを「日本の理想・目標」として手本にしたならば、エジプトからは「近代化へのプロセス」を参考にした可能性はあると思います。          

日本に着いたレッツェル  

 1907年、レッツェルは来日すると、横浜に設計事務所を構えるドイツ人ゲオルグ・デ・ラランデに仕えました。

 ラランデの妻は16歳年下のユダヤ系ドイツ人のエディでしたが、養父が露清銀行の社員だった関係で、支店のある神戸に転勤で住んでいました。

 エディは未亡人になった後ドイツへ戻り、そこで日本人外交官の東郷茂徳と再婚します。
 東郷はのちの外務大臣です。そして二人の間に生まれた息子がのちに駐米日本大使になります。

 ところで、レッツェルは日本にいる西洋人たちを見て、エジプトの西洋人たちのように「搾取」目的だけではないことに安堵感を覚えたのではないかと思います。 

 何しろヨーロッパ人がエジプトに押し寄せたのは、その穏やかな気候、素晴らしいビーチ、遺跡の魅力によるものでしたが、安価な労働力と土地は肥沃で生活費もかからないことにも魅力を感じていました。
 あらゆる階層のヨーロッパ人が特権階級として暮らし、彼らは自分たちの法制度や裁判所さえ持っていました。

 決定的なのは1902年にアレクサンドリアに設立された、かの有名なビクトリアンカレッジです。

 この学校には狙いがいくつかありました。
 まず大英帝国の水準に匹敵する教育がエジプトにはなかったこと。次にヨーロッパのエリート層やエジプトの王族貴族とのつながりを通じて、エジプトの富の一部を狙ったことです。

 開校にはベアリング銀行のオーナーでもあった高等弁務官エヴリン・ベアリング(クローマー伯爵)が出費し、イギリス人の子どもだけではなく、エジプトの王族や中東全地域の統治者(首長)やエリート層の子供たち、それに富裕層のユダヤ人の子どももターゲットにしました。

 つまり教育の場ですら、植民地政策の達成と搾取の手段とみなされていました。
 レッツェルがそのような社会のエジプトには少ししか住まず、日本には結局13年も住んだのは、当時の日本の社会の方が彼にはしっくりきたのかもしれません。


 その後、色々あってレッツェルはラランゲの会社には長く留まらず、横浜の中村町に住んでいた同じチェコ人で、一つ年下の機械技師カール・ホラ(1881年~1973年)と共に建築会社を設立しました。1909年です。

  銀座に本社を構えたので、レッツェルの住まいは横浜から東京へ移りました。(*引っ越しのタイミングは諸説あり)

 新住所は四谷区東信濃町29です。今の新宿区ですが、私の身内の家のすぐそばで、そこに長く住む私の伯母はいまだに
「四谷のおばさん」
と自分のことを私に呼ばさせます。決して「新宿のおばさん」と呼ばせないところに何か「四谷区ブランド」があるのでしょう。

 ちなみに私の父の実家も四谷区でしたが、東京大空襲で焼け野原になっています。よってレッツェルが住んでいた東信濃町の家も、例え関東大震災で無事だった、または再建されていたとしても、第二次大戦で燃やされていると思います。

日本に鉄筋コンクリートの建物を持ち込む


 独立したレッツェル当時の日本ではとても珍しかった鉄筋コンクリート建物を設計しました。この国では非常に頻繁に地震や強い台風が発生し、日本の伝統的な木造建造を頻繁に破壊していることに気づいたからです。

 余談ですが、私の身近に恐らく日本で初のセメント会社の一族だったお婆さんがおり、外国人建築会社からの受注は大したことなどなかったらしいですが、主に防波堤の建造のため、政府からはバンバン発注がきていたそうです。

 レッツェルの業績は北ボヘミアの中国風アールヌーヴォー様式の建物だけですが、日本では次々に建築を生み出しました。
 多分、カイロでも意外と地味に経験を積んでいたのかもしれません。

聖心女子学院 (1909)
聖心女子学院正門
雙葉高等女学校 (1910)
上智大学旧1号館
大日本私立衛生会講堂
宮島ホテル
3代目オリエンタルホテル 兵庫県神戸市、デ・ラランデとの共同設計
松島パークホテル、レッツェルとHoraによる設計。画像全てwikiより

 では、この記事のテーマに戻りますが、そもそもレッツェルは鉄筋コンクリートの建物技術をどこから仕入れたのか?この頃はヨーロッパでもまだ珍しかったのに。

 一般的には
「プラハ学生時代の時の師匠コテラの教え」
と言われています。

 それはそうかもしれませんが、しかしコテラは鉄筋コンクリートの建物の専門ではなく、むしろレンガのはずです。

ヤン・コテラ氏の東ボヘミア博物館

 繰り返しますがエジプトでは1894年から鉄筋コンクリート造建築が入ってきて、スエズ運河会社の建物など建てられました。よって大なり小なり、その影響があったと見なすのが自然かと思います。

カイロのティリングデパート

 1913年、レッツェルと同時期にカイロにやってきて、同郷ボヘミア出身で年齢もほぼ同じのオスカー・ホロウィッツが、カイロのアタバ地区にAHのデパートのビクター・ティリング&ブリューダー(以下、ティリングデパート)を建築し完成させました。

 オーナーのヴィクター・ティリングはコンスタンチノーブル出身のユダヤ系トルコ人でしたがウィーンへ移住し、グスタフ・コンラッド(恐らくユダヤ系)と手を結びAH全土にデパートを展開しました。

 ティリングは外国進出も狙い、その手始めにカイロを選びましたが、中でもアタバのこの広場に決めたのは、西にはオペラ座などがあるエズベキーヤ地区が、東には賑やかなムスキー地区があったからです。  
  それに、ここは曲がりくねった路地が入り込み、エキゾチックな雰囲気のエジプトのカスバでした。

 完成すると、パリの同時代建築「ギャラリー・ラファイエット」に匹敵する傑作だと称賛され、ホロヴィッツはあっという間に著名建築家の仲間入りをし、パシャの称号を授与、
 ティリング氏の方は(主に「リーダー」や「オーナー」に与えられる)ベイの称号を授与されました。

 カイロの成長するブルジョア文化の幕屋であるAHのティリングデパートは夜空に明るく輝きすべての景色を支配し、広場の反対側にあるAHの別の百貨店スタイン・オリエンタルよりも遥かに壮麗でした。

 建物ドーム頂上にある地球を抱えた4体のヘラクレスの像が 特徴で、高さは四階建てでしたが、パリのオートクチュールや香水、イギリスの服飾品、オーストリアの織物、ドイツの家庭用品など、あらゆるものが揃っていました。

1900年の時のギャラリーラファイエット(パリ
ティリングビル
https://cairobserver.com/post/38678056409/landmark-tiring-department-store

 ティリングデパートの建築家のオスカー・ホロウィッツが脚光を浴びていた頃、ウィーン出身の建築家マタセクがアレクサンドリアのエクセルシオール ホテルにて急死しました。(心臓発作?)1912年のことでした。

 1893年のシカゴ万博エジプト・パビリオン「カイロ・ストリート」でミクサ(マックス)・ヘルツとタッグを組み、1905年には「天国の門」シナゴーグを完成させ、マーディー新地区の建設も任せられた建築家です。

 マタセクの最後の作品は1913 年 4 月にオープンしたAH・ルドルフ病院で、その前にはマーディー地区に自身の別荘も建てたところでした。

 同じ1913年の日本ー
 プラハ出身のアロイス・スヴォイシクという、ローマ・カトリック教会の司祭、宗教書の翻訳者そしてコラムニストのチェコ人が日本を訪れ、チェコ語で『日本とその人々』という本を出版しました。

 その本の中では、東京で知り合ったレッツェルに触れています。
若くて精力的でユーモアのある建築家だった

   レッツェルが内向的で地味な人物だと思っていた私は、これには驚きました。多少辛酸をなめる経験もしているのに違いありませんが、それでもこの国では水を得た魚のように生き生きしていた、ということなのかもしれません。

『日本とその人々』 (1913 年)

追放

 1914年第一次世界大戦が勃発し、イギリスの「ポスト植民地」だったエジプトも巻き込まれました。

ヘリオポリス地区のパレスホテルは、オーストラリア軍の病院に

 当時、エジプトを支配していたのはハーバート・キッチナー高等弁務官でした。
 現在のパレスチナ・イスラエルの区分の地図の元を作成した人物であり、アラビア語が堪能でエジプトのフリーメイソンのグランドマスターだったことでも知られます。

 大戦勃発後、キッチナーはすぐに本国イギリスに呼び戻されるのですが、イギリスはエジプトに住む敵国AH出身者全員を
ハプスブルグ家の下僕
と見なし、追放しました。

 アタバ地区の広場に建てられたティリングデパートのオーナーは元々はユダヤ系トルコ人ですが、すでにAH国籍だったのでデパートは差し押さえられ事業を全て失い、フランス(*不確か情報)に逃げました。

 不運だったのはカイロにもデパートを構え、続々と海外進出を果たした直後に第一次大戦がぼっ発してしまったことです。

 デパートの建築家ホロウィッツは追放、宮廷主任建築家アントニオ・ラシックも「敵国側の人間」とされ、マルタ島の捕虜収容所へ連行されました。

(*のちにラシアックは第一次大戦後、イタリアに救助され、1946年にカイロの自宅で永眠につきました。ホロウィッツについては不明)

 ラシアックの才能を高く評価していたヒルミー2世は、彼を助けたくてもできませんでした。なぜならヒルミー2世自身も、イギリスによって退位させられたからです。

 理由は
「エジプトの宗主国のオスマン帝国がドイツと同盟を結び、イギリスの敵に回ったからだ」

 しかし、前々からヒルミー2世の反英思想に苛立っていたイギリスにとって、彼を退位させる良いきっかけだったのかもしれません。

 大戦勃発時、ヒルミー2世はコンスタンティノープルに滞在しており、急遽エジプトへ戻ったのですが、英軍により入国拒否されました。
 その上、財産は凍結され、しかもこの一連に関して一切裁判を起こさせないように裏で手を回され、永久追放されました。

 当時、「法的」にはエジプトはまだオスマン帝国だったので、本来はイギリスがそんなことをする権利はなかったのにです。

 結局、ヒルミー2世は失意のうちに亡命先ジュネーブで息を引取りましたが、生前に恨みつらみの本を出版しています。

 
 イスラム地区のモスクや記念碑の数々を修復し、アル・リファイモスクを建設し、1893年のシカゴ万博で「カイロ・ストリート」を発表したユダヤ系ハンガリー人ミクサ(マックス)・ヘルツ。

 この偉大な建築家ヘルツまでもイギリスにより財産をブロックされ、エジプトを追い出されました。

 彼は1919 年 5 月 5 日に亡命先チューリッヒで亡くなりました。しかし、1905年にヒルミー2世の勅命で着手していた王家墓のためのアル・リファイモスクは既に完成していました。

二枚ともISOISOさん撮影、アル・リファイモスク

 敵国の人間は外交官であれ全員追放させられました。なので、レッツェルももし日本に行かずエジプトに残っていたら、彼らと同じ運命を辿ったに違いありません。


 アールデコ様式ならびにウィーン様式で設計された、まだ珍しい鉄筋コンクリート建物、広島県産業奨励館(広島原爆ドーム)の建設が始まったのは、第一次世界大戦の前年末で、1915年4月に完成し、この巨大な建物は瞬く間に街のランドマークとなりました。

施工中の広島県物産陳列館

 だけどもです。
 第一次大戦には日本も参戦し、AHとは敵同士の関係になっています。それなのに、なぜ日本にとって敵国側だったレッツェルが、無事だったのでしょうか?

 日本人の高官層の知人のおかげでした。

 広島出身でカレル大を出て日本チェコ協会の理事でもあり、レッツェルについての戯曲『原爆ドーム、ヤン・レツル三部作』を書いた作家村井志摩子氏によると
「日本でのレッツェルの成功の根本は、地元の寡頭政治家との良好な関係で、手を回してもらえていたからです」

 そうでなかったなら、広島産業奨励館が完成しなかった可能性があります。

第一次大戦終わり、レッツェルには養女

 第一次世界大戦が終わった頃、敗北したオスマン帝国は「事実上の」消滅となりました。

 「オスマン帝国領エジプト」は「エジプト・スルタン国」になり、ケディブ(副王)の称号はスルタンへ。
 オーストリア・ハンガリー帝国帝国も消滅し、かわりにチェコスロバキア国が誕生。

 すると、東京にはチェコスロヴァキア領事館が誕生しました。
 レッツェルは余程興奮し、喜んだのでしょう。
 自ら名乗りあげ、生まれたばかりの東京のチェコスロバキア領事館に無料奉仕で勤務しました。やはり祖国愛によるものだったのに違いありません。

 余談ですが、第一次世界大戦中にロシアに捕らえられたチェコスロバキアの捕虜で構成された軍隊、チェコスロバキア軍団の5人のメンバーは終戦後、ロシアから釈放され、日本の赤十字病院に入院していました。

 5人共20代でしたが、結局病気や負傷の悪化で亡くなってしまい(ロシアでどのような捕虜の扱いをされていたのか…)、府中市のカトリック府中墓地に埋葬され、その後かなりの歳月が経ってからチェコ共和国から「感謝」の声を届けられました。


 終戦のその年、レッツェルはドイツ人と日本人のハーフの5歳の少女「ハンナ」を自分の養女に迎えました。

 近所に住んでいた大家族の娘でしたが、放置されているのを見るに見かねて引取り(多分、もともと懐いていたのではないでしょうか)、しつけや教育を授けました。
. しかしです。養女ハンナと写っている写真など、見当たりません。残念です。

 レッツェルの最後の設計は、1917年に完成した東京上野公園の精養軒ホテルでしたが、これはのちに台風で倒壊しました。この時に、改めて日本の自然災害の過酷さを再認識しているはず。

レッツェル、国に引き揚げる

 1920 年 3 月、建国して間もないチェコスロバキアへ戻ることを決心しました。
「日本のあまりにも多い自然災害に辟易からだ」
と言われていますが、それが理由の全てではなかったはずだ、と私は思います。

 なぜならプラハに戻ってから着手したことを見れば、その答えは明白ではないでしょうか。
 日本との貿易です。チェコスロバキアの貿易省からスカウトされたのです。

 すでに書きましたが、彼は東京のチェコスロバキア領事館に無償で奉仕していました。そこからその話が舞い込んだのだと思います。

 帰国を決めた後、養女ハンナはチェコ人協会に紹介されたチェコ人夫婦に託しました。向こうで日本人とのハーフの子が果たして受け入れられるのか、悩んだとか、ハンナが日本に居残りたがったなど、理由があったのかもしれません。

 その後、レッツェルは一人で香港、シンガポール、マルセイユを経由して船でチェコスロバキアに向かいました。来日した時もひとり、去る時もひとり。

 プラハでは予定通り貿易省で働き始め、その後、ビジネス分野におけるチェコと日本関係の組織化に専念しました。

出典https://www.atelierph.cz/?p=jan-letzel

 しばらくすると、レッツェルは日本のスズキ社(1909年創立のスズキ自動車?)と接触し、その関係で1922年に再び日本を訪れることになり、そのまま長期滞在へ。

墓に埋葬されなかった建築家

 1923年。
 まだ東京にいたレッツェルは日本での今までの経験をはるかに超える壊滅的な地震に遭遇してしまいました。

 本人は無事でしたが、この大地震により、せっかく自分が建てた建造物はどれも破壊され絶望にうちのめされました。日本の自然災害の多さ、過酷さを知っていたはずですが、それでもかなりがっくりきたはず。

 それに誰か大事な人を関東大震災で失ったのかもしれません。建築建物全てと大事な人を失ったとなれば相当の悲劇です。

 関東大震災後、レッツェルは再びプラハへ戻りました。多分、二度と日本の地に踏み入れることはないだろう、と思っていたような気がします。


 1925年12月26日。

 プラハの精神病者施設で、あるひとりの建築家が息を引き取りました。
 そこはチェコの作曲家ベドジフ・スメタナが1884年に亡くなったのと同じ部屋だったと言われていますが、その裏は取れませんでした。

 ヤン・レッツェルはスメタナの亡くなった部屋だったにしろ、そうでなかったにしろ精神病者病棟の病室で一人で最後の日々を過ごし、そのまま一人ぼっちで亡くなりました。
 45歳でした。梅毒末期には精神が錯乱していました。


 遺体は墓に埋葬されませんでした。梅毒で亡くなったからです。ナホドのキリスト教の信奉者たちは、性感染症で亡くなった人がナホドの墓地の聖地に埋葬されることを決して許さず、よってレッツェルの墓はあるものの、中身は空っぽです。

 
 1926 年 1 月 5 日、レッツェルの訃報はチェコスロバキアの新聞の死亡欄に掲載されました。年末年始を挟んだ冬の休暇時期?なので、亡くなってすぐにこの訃報記事をあげられなかったのかもしれません。

 本文ではレッツェルの戦争抵抗における功績、中国、インド、南北アメリカへの旅行(日本からインドとアメリカへ旅していた模様です)、そして関東大震災についても触れました。

「彼はひどい地震を目撃しましたが、おそらく奇跡によってのみそこから逃れました」

 レッツェルの訃報が大々的には報じられなかった理由は、チェコスロバキアでは大きな業績を残していないことと、そして死の原因が性病によるものだったからです。

さよなら、赤いトルコ帽子

 レッツェルの亡くなった1925年。
 旧オスマン帝国のトルコで革命が起き、「トルコ共和国の建国の父」ことムスタファ・ケマルはタルブーシュ(赤いトルコ帽子)着帽を禁止する法令を制定しました。

 そのの帽子を「オスマン帝国の名残」だとか「無知、怠慢、狂信、進歩と文明への憎悪の象徴」とみなしたからです。

 代わりに、ケマルはまったく馴染みのない「羊のホイールキャップ」を提案しました。

オスマン帝国実質上最後のスルタン、ハミド2世
羊のホイールキャップをかぶったムスタファ・ケマル(1881-1938)。1918年の写真。
西欧風の衣装を着たトルコ共和国大統領ムスタファ・ケマル。1928年、アフガニスタン国王アマヌッラー・ハーンの公式訪問中にアンカラで撮影された写真。

 
 だけども、羊のホイールキャップは今一つしっくりこないと国民に受け入れてもらえず、新たに様々な帽子がデザインされました。

 この時、上手に商売の波に乗ったのがイスタンブールの小さな帽子店 Şen Şapka [陽気な帽子] の店主であるセファルディ系(スペイン・イタリア系)ユダヤ人の Vitali Hakko (1913–2007)でした。

 人々が求める帽子を次々に売り出し、大成功をおさめました。今のトルコで有名なファッション企業 Vakko の元祖です。


 赤いトルコ帽、、、タルブージュはトルコ共和国では着帽禁止にされたけれども、旧オスマン帝国領土だったエジプトやレバント、パレスチナでは愛用され続けました。(*正確にはインドとパキスタンでも)

 オスマン帝国からさんざん離れたがっていたはずなのに、領土だった国々の男たちはこの赤い帽子を手放さなかったのです。

 
 1952年7月23日のカイロー

 若き革命家たちがアブディーン宮殿を占拠し、ムハンマドアリ王朝のファルーク国王に退任を迫りました。愛国心の強い彼らは宮殿の汚職と腐敗、それにイギリスの言いなりになっている王政に我慢ならなくなったからです。

 この時はもう「エジプト王国」に変わっていたので、スエズ運河開通の時のイスマイール副王の孫であるファルークは「国王」の称号でした。

 最後の最後までイギリス軍が助けに来ることを信じ、革命家に囲まれ退位のサインを強要された時にも、この「エジプト最後の国王」は赤いトルコ帽タルブーシュを被っていました。
 ただし、それはもう旧オーストリア=ハンガリー帝国領のボヘミア(チェコ)産のものであったかどうかは分かりません。



           つづく(次がレッツェルシリーズ、最終回です)

20 世紀初頭の西ヨーロッパの多くのポストカードの 1 つで、フェズ帽が可愛い


参照
https://www.expats.cz/czech-news/article/czech-architects-made-one-of-the-only-buildings-to-survive-the-august-6-1945-hiroshima-bombing

https://www.asiaskop.cz/analyzy-komentare/jan-letzel-cesky-architekt-ktereho-neporazila-ani-atomovka
https://www.marefa.org/%D8%B9%D8%A8%D8%A7%D8%B3_%D8%AD%D9%84%D9%85%D9%8A_%D8%A8%D8%A7%D8%B4%D8%A7

https://www.atelierph.cz/?p=jan-letzel 

https://it.wikipedia.org/wiki/Antonio_Lasciac 

https://www.presidency.eg/en/%D8%A7%D9%84%D9%82%D8%B5%D9%88%D8%B1-%D8%A7%D9%84%D8%B1%D8%A6%D8%A7%D8%B3%D9%8A%D8%A9/%D9%82%D8%B5%D8%B1-%D8%A7%D9%84%D8%B7%D8%A7%D9%87%D8%B1%D8%A9/
 https://www.mediastorehouse.com.au/heritage-images/offices-suez-canal-company-port-said-egypt-14944058.html

https://www.greategypt.org/p/egypts-belle-epoque-architecture.html
https://www.classicult.it/larchitetto-antonio-lasciac-progettista-della-mitteleuropa-in-egitto-a-cavallo-fra-800-e-900/

https://www.dizionariobiograficodeifriulani.it/lasciac-antonio/

https://dspace.cuni.cz/bitstream/handle/20.500.11956/96830/1338728_michaela_mikesova_63-78.pdf?sequence=1&isAllowed=y

https://cs.wikipedia.org/wiki/Alois_Svojs%C3%ADk

 




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