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腰痛から学んだこと

数日前から、腰が痛い。身がよじれるほど、痛い。
慢性的だった痛みが悪化したのはおそらく、一昨日仕事で利用者さんたちと一緒にボッチャというスポーツをする機会があったのだが、その際に何度もかがんだり、しゃがんだりという動作をしたことが原因だろう。
特に激しい動きをしたわけでも、不自然な動きをしたわけでもなくて、ただ何度か腰をかがめたり、しゃがんだりしただけだ。
たったそれなのに、その数分後にはまさか自分がこんなに激しい痛みに襲われ、しかもそれが何日も続くことになるとはさすがに想像できなかった。

初めてぎっくり腰になったのは、自転車で日本一周をしていたときだった。
大阪から出発し、海岸沿いを自転車でひたすら走り続けた私は、途中で出会った人々の家に泊めてもらうこともたまにあったが、大抵はテントを張って野宿していた。
旅の中盤ごろから徐々に腰の痛みを感じ始めていたが、ある朝、テントの中で目覚めて起き上がろうとした瞬間、腰に激痛が走った。
私はもともと介護の仕事をしていたし、仕事中に利用者さんを抱えたりするときにピンポイントで腰に痛みを感じることがあったので、すでにかなり負担がかかっていた状態だったとは思う。
だけどそのときのぎっくり腰の決定的な原因は、長時間の自転車走行によって身体に負担をかけ続けたこと、そして毎日テントの中で固い地面に薄いマットを敷いただけのものに寝ていたことであることは明らかだった。
私は自転車で日本一周という貴重な体験と引き換えに、健康を損なってしまったのだ。
旅に出なければよかったという後悔も少しはあるけれど、仮に旅に出る前の自分に「腰壊すから旅に出ないほうがいいよ!」と助言できたとして、旅に出る前の私はきっと「そうなん?腰痛めるってどんな感じ?気になるし、旅出るわ!」と言って旅に出るだろうから、助言する意味はなさそうだ。
(こう書いてみると、私はただのバカじゃないか…)

それはともかく、腰痛というものは、私から「腰が痛い」ということ以外のあらゆる感覚や思考を奪い去る。
腰が痛くさえなければ極めて有効に使えたであろう時間も、ただただ「腰の痛みと向き合うだけの時間」に成り下がる。
私は「文章を書く人」でも「歌を歌う人」でも、はたまた「介護士」でもなく、ただ「腰が痛い人」へと化す。

私の目の前には何の選択肢もなくて、ひとえに「腰を治すこと」が唯一の生きる道となる。
その道を進まなければ「腰が痛い人」である以外の何者にもなれなくて、何者かになろうとするならば問答無用で「腰が痛い人」から「腰が痛くない人」になるということから始めるしかないんだという現実にぶち当たる。
ミスチルの歌を聞いても、西加奈子の小説を読んでも、それを楽しんだり噛みしめたりする資格がある人は、もっぱら「腰が痛いということ以外のことを感じたり考えたりできる人」というのが条件になっていて、「腰が痛いということ以外のことを感じたり考えたりできない」自分は、腰が痛くない人たちと同じように社会参加する資格がないのではないかという気持ちにさえなってくる。

このように書いてみると、腰が痛いという事実は私から全てを奪い去ったように思えてくるだろう。
だけど、実はそうではないのだ。
私は腰が痛くなったことで、唯一得たものがある。
それは、あくまで自分の経験に基づいてではあるが、腰が痛い人たちの気持ちを理解できるようになったということだ。
腰が痛くなる前の私は、腰が痛い人たちの気持ちが一ミリも理解できなかった。
いつもコルセットをつけていて、朝すぐには起き上がれないという重度の腰痛を抱えていた友達の身体の上に、平気で乗り掛かった。
悪意があったわけではなく、腰痛を経験したことがなかった私には、「腰が痛い」という単なる言葉だけではその人の苦痛を本当の意味で理解できなかったのだ。
理解ができないことは、すぐに忘れてしまう。
「思う」ことができなければ、当然「思いやる」ことはできない。
「思いやり」とは、心の根の優しさでも、愛情深さでも何でもなく、それと同じ経験を自身がしている人だけが持つことができる特別な能力のことだ。
その能力を、腰痛という面において私は手に入れたのだ。
誰でも手に入れられるわけじゃない、貴重な能力を得たのだ。
何かを失うことは、単にそのものを失うだけではなく、新しい何かを得ることでもある。
そんな人生の真実を、私は腰痛を通して学んだのだ。

このように私は、腰痛というものからたくさんのことを学んだ。大病をすると人生観が変わると言うけれど、その意味を少し理解したような気がする。

ただ、もちろんこれは、病気や怪我から立ち直った、もしくは立ち直れる可能性のある人に限る話だとは思う。
私だっていつまでもこの状態なら、他人を思いやるどころか、イライラして周りにあたってしまうかも知れない。
人生は綺麗事では済まされないことがたくさんある。
それもまた、今回の腰痛で再確認できたことの一つだ。

腰痛の教示力、おそるべし。
これから私は、腰が痛いときには「師匠の教えが来た」と思うことにしよう。
でもあの、師匠、もうちょっとだけ手加減してくれませんか?

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