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田平 由布子|長崎原爆の「若き語り部」
2022年12月8日 06:27
2019年10月上旬、私は熊本県球磨(くま)郡水上(みずかみ)村にいた。人吉駅から路線バスで1時間のところにあるこの村は、田んぼと畑が多くある盆地だ。きれいに澄んだ秋の空に緑の山々が美しく映えている。 私はこの村の小学生に講話をするためにやってきた。 奇しくも、この日は勲さんの命日であった。そんな日に講話をさせていただくことになり、不思議な感覚になった。天国にいらっしゃる勲さんに思いを馳せ
2022年11月29日 19:25
ところで、被爆体験講話は決して一人ではできない。原稿を書くこと、派遣先に行くこと、そして人前で話すことは自分一人で行う。しかし、その過程には多くの方々の支えと手助けがある。 まず第一に被爆者の存在だ。被爆という大変おつらい経験を私達に語り継いでくださる。事業の担当者は講話原稿の添削とアドバイスを、必要に応じて被爆当時の写真や資料等を提供してくださる。 講話デビューが決まったら、直前にプロ
2022年11月28日 18:46
「まあ、小さい学校やったし覚えとるよ!あと『由布子(ゆうこ)』って名前が珍しくて記憶に残っとったんよね。あの漢字で『ゆうこ』ってなかなかないけんさ。 それから長大に行ったろ?長大に行った、今26歳、田平由布子…『あの』田平さんやなって」。 当初、被爆体験講話だから被爆者が話をするものだと思っていたらしい。だから私のことを高校時代の教え子ではなく、田平由布子と同姓同名である被爆者のおばあちゃ
2022年11月25日 10:59
こうして講話を終え、学校によっては生徒に感想文を書いてもらい、後日郵送していただく。 何よりも一番嬉しい感想は「勲さんが大事にしていた『戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない、平和ほど尊いものはない』という言葉が一番心に残った」というものだ。 私の役割は勲さんの被爆体験と平和への思いを正しく伝えることにあるから、このような感想をいただくことは、証言者冥利に尽きる。 その次に
2022年11月22日 20:49
ちなみに小学生全学年への講話は、2019年8月に宮崎県西都市の小学校で行われた、登校日(平和集会)の中でのものだ。講話に先立って校長先生が戦争や原爆のお話をしてくれたから、それを踏まえての講話となり助かった。 質疑応答では高学年のみならず、1、2年生からも多く手が挙がった。時間の関係で全てに答えることはできなかったが「広島の原爆では何人くらいが亡くなったのですか?」と1年生の男の子が質問してく
2022年11月21日 20:08
こうしていろんな土地に行けることを楽しみにしながら派遣していただく。派遣講話は、基本的に学校で行われる。対象は小学生~高校生と幅広く、例えば修学旅行の事前学習のようなケースでは一学年のみが対象になる。 中には小学生全学年とか、高校生全学年といったこともある。たいてい、全学年が対象となるのは平和集会や夏休み中の登校日における講話だ。 これの何が大変かと言えば、生徒の学習・理解度合いに大きな差
2022年11月17日 15:58
ひとまず大きな山は越えた。その後も原稿の執筆、推敲を重ねながら市の確認を仰ぎ、指摘された箇所は修正をするという形を7回ほど繰り返した。 原稿が完成したのは翌年の2018年秋、講話の披露は10月14日に決まった。勲さんのご逝去からちょうど1年経っていた。予定ではその年の春か夏には講話デビューする予定だったのだが、予想以上にチェックと推敲に時間がかかってしまった。 この日までご家族の皆様を長
2022年11月16日 22:01
私はいたずらに放射線の危険性や怖さを強調したいわけではないし、大変敏感なトピックだから根拠やデータをきちんと踏まえるべきだと思っている。 それでも「根拠」ということが何を意味するのか分からずに悩み続けた。 当該部分の書き方をめぐり、原稿作成がなかなか先に進まないことへのいら立ちも相まって担当者とは相当やり合ってしまった。*** このままでは埒が明かないと思った私は「ナガサキノート」を
2022年11月15日 21:34
「―被爆後の症状っちゅうのはすぐ出ました。それはなぜかって言うと、白血球減少という症状があります。 私の場合は、ちょっとしたできものとか切り傷がすぐ化膿して膿になってやがてかさぶたになるっていう。こういうかさぶたがいっぱいできてたの。 頭も強く掻くと痛いし、掻かないとかゆいというか、かさぶたがいっぱい…2年くらい続いたと思う。 だからその間には、小学校に入学するときも来ます…仁田(に
2022年11月14日 19:21
年が明けて講話原稿の作成に着手したのだが、これがなかなか難しい。なぜなら自分ではなく他人の人生を語らせていただく上に、その主役であるご本人が亡くなっているからだ。 仮に原稿を書いている途中で、聞き取りでは十分に語られなかった、あるいはもっと深くお聞きしたいことがあることに気づいたとする。被爆者がご存命であるならばすぐにご回答をいただけるだろう。しかし「二度と」聞けないとしたら…? 自分で勝手
2022年11月13日 12:32
感情の整理がつかない日々が続いた。まだまだお話したいことがたくさんあったのに…と悔やんだ。被爆体験を語ってくれたお礼すらきちんとできていなかった自分を責めた。 そして、今後継承活動はどうすればいいのだろうという不安が出てきて、頭も心もぐちゃぐちゃになってしまった。 当然、活動は一時中断した。 あまりにもつらかったので桐谷先生に相談をした。「田平さん、被爆者問題は血統主義では継承になり
2022年11月12日 15:29
10月に入ってすぐのことだった。 仕事中、14時頃だっただろうか。知人から勲さんの逝去を知らせるメールが届いた。 「田平さんが吉田勲さんの体験を継承されていることを思い出し、連絡しました。いきなりのことで信じられません」。文章を読みながら頭の中が真っ白になった。 その直後、継承事業の担当者からも正式にご逝去を知らせるメールが来た。私は仕事中にもかかわらず、溢れる涙を抑えきれなかった。
2022年11月11日 21:42
この日の聞き取りは2時間だった。 勲さんは、本当にたくさんのことをお話してくださるのだ。そして何より、知識の多さに驚いた。ご自身の被爆体験や平和への思いだけではなく、核兵器そのものや核問題を論じながら縦横無尽に話を広げる。 「これは自分も相当勉強しなければいけないな」と私はますますやる気になった。 聞き取りを終え、次回の約束をする時間になった。 「今度は、10月下旬にしようか。次は聞き
2022年11月10日 14:55
2回目の聞き取りは、他の2人が都合が悪かったので私1人で原爆資料館に行った。この日は被爆体験というより、原爆の実相や核問題を巡る世界の動きといった理論的なことをお話してくださった。中でも印象に残っているお話は「被爆者の分類」についてだ。 私達がいつも想像する「被爆者」は、直接原爆の被害に遭った方のことだろう。彼らのことは「1号被爆者=直接被爆者」という。しかし被爆者はそれだけではないんだ