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私の足跡『たびらのたび』

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ノンフィクション小説形式でお届け! 大学時代に核問題を学んでから、被爆体験を継承した「次世代の語り部」としての旅の足跡を書いています。 語り部をやっている若者や仕事と両立しながら…
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記事一覧

第6章 命日 ⑧「勲さんへ」

第6章 命日 ⑧「勲さんへ」

 勲さんの早すぎるご逝去のため、大変なことは多かったです。でも、その分鍛えられた気がします。
 私はこうやってあなたをご存じの方からお話を聞かせていただけて嬉しいです。多くの方が勲さんをご存じで、そして慕っておられることを知って誇らしく思います。また、勲さんを継承することができて幸せです。
 もっと早く感謝の気持ちをお伝えすべきだった…今もその後悔と向き合っています。

 勲さんの存在により、救わ

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第6章 命日 ⑦「勲さんへ」

第6章 命日 ⑦「勲さんへ」

 勲さんへ―

 私は先日、あなたのことをよく知る被爆者の大庭さんとお話をしてきました。

 大庭さんが被爆者健康手帳を取得するにあたり、勲さんが被爆者相談員としてご尽力なさったそうで、そのことにとても感謝しておられましたよ。
 そして、勲さんの平和を願う思いや、真面目で立派なお人柄、何事にも真摯に取り組むお姿を称えていらっしゃいました。何より「惜しい人を亡くした」と残念そうに語っていたのが印象に

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第6章 命日 ⑥「勲さんと講話と私」

第6章 命日 ⑥「勲さんと講話と私」

 長崎に戻りながら、勲さんがお亡くなりになった日を思い出していた。

 仕事中に訃報が届き、人目につかないところへ行って泣きじゃくったこと。ご葬儀では勲さんが亡くなったつらい現実に向き合わなければならなかったこと。原稿づくりにはひときわ苦労したこと。
 勲さんがご存命ならどれほど良いだろう、もう一度お話したいと、原稿を書きながら何度も何度も涙が溢れたこと。
 一連の記憶が走馬灯のように駆け巡ってき

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第6章 命日 ⑤「SLに揺られて」

第6章 命日 ⑤「SLに揺られて」

 帰りは人吉駅からSLに乗って熊本まで行った。人生で初めて乗るSLはとても新鮮だった。
 汽笛の音、吐き出される黒いすす、木造の車内…一般的な鉄道や新幹線とは違う、古き良き時代を感じさせる電車でとても心が躍った。

 このSLは97歳だと乗務員の女性が教えてくださった。春~秋の期間限定で運行していて、冬にはメンテナンスをし、一から部品を組み立てなおすのだそうだ。SLの調子も、手に入る石炭の量も日に

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第6章 命日 ④「みんなと給食を食べながら」

第6章 命日 ④「みんなと給食を食べながら」

 講話が終わり、先生のお計らいで給食を児童の皆さんとご一緒させていただくことになった。
 メニューは野菜サラダにハヤシライス、ケーク・サレ[1]というマフィンのような見慣れない食べ物だった。
 先生に聞いてみると、どうやら近々ラグビーW杯のフランスVSトンガ戦が熊本で開催されるとのことで、フランスの食べ物が給食に出たということだった。

 給食を食べ終え、学校を出発する時間になった。
 最後に子供

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第6章 命日 ③「第二次世界大戦の裏側」

第6章 命日 ③「第二次世界大戦の裏側」

 二つ目の質問は、第二次世界大戦の裏側に直結する良い質問だった。

 「世界で最初に核兵器を作ったのはアメリカです。戦争末期、ドイツが原爆を開発する可能性があるといわれたから、アメリカでも早急に開発しようという話になりました」。子供達がメモを取る。

 「原爆を作ったのは科学者ですが、その裏にはアインシュタインと、当時の大統領だったルーズベルトがいました。アインシュタインって知ってるよね?」

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第6章 命日 ②「私の言葉、子供の視線」

第6章 命日 ②「私の言葉、子供の視線」

 いよいよ話が終わりに近づき、メモを取る手を止めてもらい、前を向くように言った。

 「今日、何月何日ですか?」
 正しく答える子や1日ずれた日を答えた子、何日だっけなと考えている子もいた。

 「実は、2年前の今日、勲さんはお亡くなりになりました」。
 ―児童たちの目つきが変わったようだった。教室は静まり、みんなが私の方を見た。

 「ですから、今日は天国にいらっしゃる勲さんのことも思ってくださ

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第6章 命日 ①「勲さんに捧げる講話」

第6章 命日 ①「勲さんに捧げる講話」

 2019年10月上旬、私は熊本県球磨(くま)郡水上(みずかみ)村にいた。人吉駅から路線バスで1時間のところにあるこの村は、田んぼと畑が多くある盆地だ。きれいに澄んだ秋の空に緑の山々が美しく映えている。
 私はこの村の小学生に講話をするためにやってきた。

 奇しくも、この日は勲さんの命日であった。そんな日に講話をさせていただくことになり、不思議な感覚になった。天国にいらっしゃる勲さんに思いを馳せ

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第5章 長崎 ⑥「先生や父兄も巻き込んで」

第5章 長崎 ⑥「先生や父兄も巻き込んで」

 そして次に、学校での講話をさらに進化させることである。具体的に言えば、ただ被爆者の話をして生徒の質問に答えて終わるのではなく、事前の打合せ時点から単なる講演を超えた時間になるように先生と相談し合うということだ。

 また、講話には可能な限り保護者にもご来校いただき、先生・生徒・保護者・証言者の全員で原爆や戦争、平和について学び考えていくようにできたらどうかと考えている。
 実際これまでに2校の中

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第5章 長崎 ⑤「もっと講話しようよ!」

第5章 長崎 ⑤「もっと講話しようよ!」

 だから、私は提案したい。

 まず最初に、長崎原爆資料館での講話の機会を増やすことだ。

 現在原爆資料館では月に二度、第二木曜日と第四日曜日に定期講話をやっている。これは、主に資料館を訪れた人に向けたもので、講話者の友人・知人も見に来る。
 講話デビューをした証言者なら誰でもできる。定期講話は1時間、2人の証言者が30分ずつ講話を行う。

 私達証言者が原爆資料館で講話をするのはこの機会くらい

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第5章 長崎 ④「劣等被爆都市・長崎」

第5章 長崎 ④「劣等被爆都市・長崎」

 私はこのような広島と長崎の差に気づき、疑問を抱いているときに、それをピタリと言い当てている言葉を見つけた。それが「劣等被爆都市長崎」だ。

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 社会学博士の高橋眞司氏は著書の中で「世界の注目と脚光を浴びるのはいつも広島であって、長崎と長崎の被爆者でなかった。それだけでなく、長崎はながく忘却と無視と誤解のうちに放置」されてきたといって過言でないと表現した。また、そうした事態を「劣等被爆都市

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第5章 長崎 ③「オバマは長崎に来なかった」

第5章 長崎 ③「オバマは長崎に来なかった」

 私個人が心に引っかかっているのは、2017年5月にアメリカのオバマ前大統領が広島を訪問した時のことだ。

 原爆を落とした国のトップによる歴史上初めての被爆地訪問ということで、注目度はかなりのものだった。
 オバマ前大統領のスピーチや被爆者との抱擁の場面は、被爆者のみならず、たくさんの人々の心に焼きついたのではないだろうか。

 しかしこれには裏話がある。長崎の被爆者はこの場に招待されていなかっ

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第5章 長崎 ②「広島と長崎の差」

第5章 長崎 ②「広島と長崎の差」

 まず、自分なりに勉強しようと決めた。被爆70周年ではどのような事業が採択されたのか。長崎の平和行政はどのような体制になっていて、どこが何をやっているのか、ここ数年の平和宣言でメインになっている言葉やメッセージは何か。
 また、同じく被爆都市である広島は、節目にあたってどのような事業をやっているのか、といったことだ。

 広島も長崎同様、70周年時に記念事業をやっているのだが、正直予想をはるかに超

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第5章 長崎 ①「若者代表として」

第5章 長崎 ①「若者代表として」

 嬉しいことに、私の仕事は講話だけではない。その最たるものが「被爆75周年記念事業選定審査委員」としての活動だ。
 2020年は被爆75周年の節目だった。ゆえに、平和を発信し、記念するイベントを県内の団体等から広く公募で集める。集まったイベントは委員が審査し、選ばれ、翌年に実施される。私は2019年5月1日付で審査委員の任命を拝受した。

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 委員は4名で構成されている。私以外の3名は大学

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