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『1969 齢子の場合』

繰り返す、朝  牛小屋に朝の光が差し込む。  齢子が滑らかに指を動かして牛の乳を少しだけ搾る。きれいに拭きとり、4本の乳に搾乳器を取り付ける。3頭の牛が齢子の順番を待っている。搾りたての牛乳が詰まったタンクをリヤカーに乗せて、部落の集荷場まで運ぶ。  母屋へ戻ると、黒電話が鳴った。 「一日1反歩、田車押しやんだぞ」 父藤衛から、齢子の仕事が告げられた。  休む間もなく、齢子は田んぼへ向かう。 初夏、草取り  日は高く昇り、容赦なく齢子に照り付ける。  小柄な体を沈ませ、

    • この一年を振り返り来たるべき年を想う

      すべてが足踏みの年だった ――毎年十二月号では、この一年をふりかえって反省すべき点を指摘していただき、来年への展望と期待とをお聞かせいただいておりますが、今月もその点についてご指導をお願いいたします。まず、今年一年はどういう年であったかを概括していただきたいのですが……。 五黄の年は危険の多い年であることを年頭に話しておきましたが、やはりそのとおりでしたね。あちこちに起こった大きな天変地異もそうだけれども、いちばん重大だったのはソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故。これ

      • 在家仏教だから楽々と

        愛され親しまれる日本人に バブル経済がはじけた今日こそ、日本および日本人がほんとうの意味の豊かさを享受できる絶好機だと私は思います。 人間はたしかに「物」によって生きている存在ではありますが、その「物」を生かすのは心であり、精神です。よく引く例ですが、水のない原野を旅する一団があって、休憩のとき水筒の水をコップ半分ずつ飲むことにした。ある人は「たった半分か」と不平を言いながら飲んだ。ある人は「半分でも飲めてありがたい」と言って飲んだ。どちらが幸せな人間でしょうか。どちらが

        • 良医治子のたとえ

           いうまでもなく、父の良医は仏さまであり、子どもたちはわれわれ凡夫です。毒の薬というのは五欲の煩悩であり、良薬とは仏の教えです。 現象を実在と見る誤り  凡夫というものはさまざまな欠点をもっていますが、なかでも最大の欠点は<目に見えるものしか実在とおもわないこと>です。この誤りから、すべての誤りが出発し、すべての不幸が展開していくのです。  まず第一に、自分のからだをはじめとして、目の前にあるさまざまな物質や、金銭や、まわりに起こるいろいろなものごとを、たしかに実在するも

        『1969 齢子の場合』

          髻中明珠のたとえ

           法華経は、すべての衆生を仏の悟りにみちびいていこうというギリギリ最高の教えです。ですから、不意にその教えを聞いても、なかなか信じにくく、かえって逆の結果をひきおこさぬともかぎりません。それゆえ、仏さまはあからさまにはお説きにならず、いままで方便という衣を着せ、小出しにしてお説きになってこられたわけです。  しかし、仏弟子たちの境地がひじょうに高まってきましたので、いまこそそれをお説きになるのだ――というのです。 たんなる法華経の賛歎ではない  この譬えの表面だけを読みま

          髻中明珠のたとえ

          衣裏繋珠のたとえ

          仏性こそ無価の宝珠  無価の宝珠というのは、すべての人間がひとしくそなえている仏性のことです。われわれは、ひとりのこらずそれをもっているのです。けれども、なかなかそれを自覚できません。なぜ自覚できないかといえば、われわれが酔って眠りこけているからです。心が眠ったままでいるからです。  われわれは、現象としてあらわれているこの肉体が自分の本質だとおもいこんでいます。心はその肉体に付属しているものとおもいこんでいます。そこで、ただもうその肉体と心を満足させるために、欲望を追って

          衣裏繋珠のたとえ

          化城宝処のたとえ

          お釈迦さまは、おおくの凡夫たちのために、まず現実の苦しみをとりのぞく正しい道をお教えになりました。それが、<縁起の法則>にもとづく解脱の悟りです。すなわち、「目の前にあらわれているいろいろなものごとは、固定的・永続的なものでなく、仮りのあらわれにすぎないのであるから、そういった現象から心を解放してとらわれをなくすれば、つねに安らかな心境でおられるのだ」と教えられたのです。  じつにすばらしい教えです。それを悟れば、われわれの胸はまったくひらけるようなおもいがします。いままでは

          化城宝処のたとえ

          三草二木のたとえ

          この譬えは、直接的には仏法のはたらきについてお説きになったものであります。すなわち、<仏の救いにはいろいろな形があるように見えるけれども、根本においては、仏の教えはただひとつであり、すべての人びとにたいして平等にそそがれるものである。それを受ける人びとの、形のうえにあらわれた天分・性質・環境その他の条件がちがうからこそ、形のうえにあらわれた仏の教えも、その救いの結果もちがうように見えるだけのことである。しかし、形のうえではちがっているようでも、つまりはすべての人を平等に救うも

          三草二木のたとえ

          長者窮子のたとえ

          仏はいつもそばにいる  衆生のほうでは、仏の門のまえに立っても、仏が自分の父であるとは知らないのですが、仏のほうでは、あれはわが子だとちゃんと知っておられる・・・・・・じつに意味の深いことです。仏は、事実いつもわれわれのそばにおられるのです。いいかえれば、われわれを生かしている仏の慈悲は、つねにあらゆるところに満ち満ちているのです。  それなのに、われわれはそれに気がつかない。気がつかないために、いろいろと不自然な心をおこしたり、道にはずれた行ないをして、煩悩のカラをつくり

          長者窮子のたとえ

          三車火宅のたとえ

           ある子どもは羊の車が欲しいとおもい、ある子どもは鹿の車がもらえるとおもい、ある子どもは牛の車をとろうとおもって、われ先にと走りでたのですが、父は、そんな車でなく、大白牛車という最高の車を、みんなにひとしくあたえたのです。  その大白牛車とういのは、いうまでもなく、一仏乗の教えです。羊車(声聞乗)と鹿車(縁覚乗)は、いわゆる小乗の教えです。牛車(菩薩乗)はいちおう大乗ではあるのですが、これはまだ声聞乗や縁覚乗と対立するひとつの宗派のようなものですから、ほんとうの大乗ではなく権

          三車火宅のたとえ

          足らざるを生かす

          あまりすべてが整いすぎると、足らざるを補う努力の大切さが忘れられ、また、どのように適材を適所に生かしたらいいかと苦心するおもしろ味もなくなってしまいます。 将棋の極意は「足らざるをもってやる」ことだと言います。大山康晴名人は「アマチュアは飛車や角は大事にするが、歩を粗末にする。プロは歩を大事にする。歩の使い方で他の駒の働きが倍加する。将棋を人生に見立てると、歩の使い方の巧拙が成功の鍵を握るのではないか」と言っています。足らざるを嘆くか、足りないところを生かすか、その人の心次第

          足らざるを生かす

          素直に行じる難しさ

          「仏教とはどのような教えか」と、国中に名のとどろく大詩人の白楽天に問われて、鳥彙禅師が「諸の悪をなすことなく、諸の善を行ない、自らその心を浄める。これが諸仏の教えである」と答えたのは有名な話です。 白楽天が「そんなことは三歳の童子でも知っているではないか」と問い返すと、禅師は、「三歳の童子でも知っていることが、八十歳の翁にもできぬものだ」と答えられたのです。分かりきったことを素直に行じていくこと、それが仏教だといってもいいでしょう。それで人生の幸せがつくられていくのです。

          素直に行じる難しさ

          心出家

          『伝光録』という古い書物に「心出家といふは、髪をそらず、衣を染めず。たとひ在家に住み、塵労にありといへども蓮の泥に染まず」に信仰を持することだ、といった一節があります。つまり、心出家とは「在家の出家」ということになりましょう。 この社会を構成するすべての人が自分の仕事を捨て、頭を丸めて出家者になってしまったのでは、社会は成り立ちません。しかし、信仰が一部の出家者だけのものになってしまったのでは、これまた社会の浄化は望めません。三宝に帰依する念をしっかりと持って社会で働く心出家

          信仰の味

          「この法は絶対に間違いのない法だ」という確信は、体験なしには生まれません。ただの知識だけでは、真の救われの境地、安心立命の心境には至れないのです。たとえば、いくら砂糖の成分を知っても、それだけでは砂糖の甘さが分かったとはいえないのと同じです。信仰の場合も、教えを生活の場で実際に実行すると、真理のはたらきが、ちょうど砂糖をなめてその味を知るように、実感として全身で味わえぎす。その体験がないと信仰の真の喜びは得られず、自信をもって説くことができないのです。 『開祖随感』1967

          信仰の味

          変化への適応

          精神身体医学では、生きることは「適応すること」と解釈します。周囲の環境に自分が適応できなくなったときに心のバランスがくずれ、肉体面で病気という影が出てくることになるというのです。 私たちが生活しているこの環境は、諸行無常、諸法無我の真理によって変化しています。自分を取り巻く世界のさまざまな変化の流れを貫く真理のはたらきを受け止める素直さを失い、それに抗い、そむくときに、さまざまな苦悩が噴出しできます。涅槃寂静が失われてしまうわけです。 『開祖随感』1965年(昭和40年)

          変化への適応

          不要なものはない

          ノーベル文学賞作家のパール・バック女史は、知的障害をもつ娘さんがおられ、その娘さんを名医に診せる治療費や旅費をつくるために、新聞、雑誌の懸賞に応募して世界的な作家の地位を得られたのだそうです。「私に書くことを教えたのは私の娘で、一主婦にノーベル文学賞への道を開いてくれたのです」と語っておられます。 世の中に存在するものでお役のないものはありません。だれもが人のお役に立てるのです。私ども信仰者は、何をもって人さまのお役に立てるか、常に願いを持ち続けたいものです。 『開祖随感』

          不要なものはない