良医治子のたとえ

 いうまでもなく、父の良医は仏さまであり、子どもたちはわれわれ凡夫です。毒の薬というのは五欲の煩悩であり、良薬とは仏の教えです。

現象を実在と見る誤り

 凡夫というものはさまざまな欠点をもっていますが、なかでも最大の欠点は<目に見えるものしか実在とおもわないこと>です。この誤りから、すべての誤りが出発し、すべての不幸が展開していくのです。
 まず第一に、自分のからだをはじめとして、目の前にあるさまざまな物質や、金銭や、まわりに起こるいろいろなものごとを、たしかに実在するものと見るために、それに心をふりまわされて苦しむのです。それが五欲の煩悩です。
 それで、仏さまは、この世のすべての現象は<因(ある原因)と縁(ある条件)が結ばれて生じた仮りのあらわれにすぎない>ことを教えられました。いわゆる因縁の法則(あるいは縁起の法則)です。この法則を教えられて、はじめて人びとは、「なるほど、自分たちは実在しないものを実在するとおもい、変化するものを変化しないようにおもいこんでいたため、心配したり、苦しんだりしていたのだな・・・・・・」ということがわかりました。そして、心がたいへん楽になりました。

仏を見ぬゆえの誤り

 ところが、仏さまのような大指導者がいつも身近におられて、たえずそのような教えによってみちびいてくださるうちは無事なのですが、そのような指導者がいなくなると、だんだんと元の木阿弥にもどっていくのが凡夫の悲しさです。まえにものべたように、凡夫は<目に見えるものしか実在とはおもわない>という習性がありますので、教えはちゃんと残っているのに、それを教えてくださる指導者がいなくなると、ついわがままが出たり、横道へそれていったりするものです。
 子どもたち(衆生)が、父(仏)のるすに、あやまって毒の薬を飲んで七転八倒の苦しみをしたというのは、こういう意味であります。

どんな人にも仏性はある

 そこへ、父上が旅行から帰ってこられました。毒(五欲の煩悩)のために苦しんでいた子どもたちも、それを見てたいへん喜びました。なぜかといえば、どんな人間にも仏性というものがあるからです。世の中には、私利・私欲のためには人殺しさえする人間がいますが、そのような人でも、心の奥の奥にはかならず仏性をそなえているのです。ただ、五欲の毒のために、それがおおいかくされているにすぎないのです。

仏性は顕現の機会を待っている

 ですから、どんなに物質万能主義で、自分の利益だけを考えている人でも、心の底には、なんとなく物質だけでは満たされない不安や寂しさをもっています。自分では意識しなくても、心のどこかでは、ほんとうの安らぎ、ほんとうの満足を求めているのです。したがって、なにかの機会に、ほんとうの安らぎ、ほんとうの満足をあたえてくれるような教えに接すれば、喜んでそれを迎えるのです。そのような人に、そのような機会をつくってあげるのが、われわれ仏教徒の大きな務めであることは、いうまでもありません。

教えをあたえる
にも慎重な用意

 さて、五欲の毒にあてられて、苦しんでいる衆生のために、仏さまは、<迷いをのぞく薬><ほんとうの智慧を得させる薬><ひとのためにつくす心を起こさせる薬>など、いろいろな薬を調合し、それを粉にして凡夫にも飲みやすくして、あたえられました。良医である仏さまは、このように慎重な用意をもって教えを説かれたわけです。

なぜ良薬を飲まないのか

 その良薬(教え)を素直に飲みこんだものは、たちまち救われました。しかし、それを飲もうとしない衆生もいるのです。なぜかといえば、ほんとうは色も香りもよいその薬が、かえってへんな色や臭いをもっているように感じられるからです。すなわち、五官の楽しみにおぼれきっている人間にとって、仏さまの戒めや教訓は窮屈でたまらなく感じられますし、精神を統一する三昧の行などはめんどうくさくおもえますし、ひとのためにつくす菩薩行などバカバカしいとしか考えられないからです。
 これは、あさはかな人間の、わがままです。まだ知恵のできあがっていない子どもが、父のきびしい教えをいやがるのとおなじです。父は、子どもが将来しっかりひとり立ちできるようにという慈悲心からしつけているのですが、子どもは、現在親の庇護のもとで生活しているために、それに甘えて、わがままを起こすのです。仏の教えにたいする凡夫の態度も、それと変わりはないのです。

背くものへも変わらぬ仏の慈悲

 そういう衆生にたいして、仏さまは怒りもされなければ、あきらめもされません。<此の子愍むべし>といっておられます。ここがありがたいところです。
 そして、仏さまは、凡夫たちの目を覚まさせるために、非常手段をおとりになります。すなわち、一時身をかくしてしまわれるのです。歴史的にいえば、応身の仏であられたお釈迦さまが入滅されることです。そうすると、いままでお釈迦さまに甘える気持でいた人たちは、がくぜんとしてしまいます。そして、「自分たちでなんとかひとり立ちしなければならない」という気持が、ひとりでに湧いてきます。それが仏の慈悲の突っ放しにほかなりません。

自行の必要

 人間にとっては、自分自身でものごとをすることが、なによりたいせつです。ことに信仰は、ぜったいにそうでなくてはなりません。信仰にはいるときは、ひとにすすめられてはいっても、はいったうえは、あくまでも自分の心で真剣に道を求め、修行していかなければなりません。
 誰かが食卓まで食物を運んでくれたとしても、食べるのは自分でやらなくてはなりますまい。自分で食べられないのは病人です。いや、病人でも、さじで口へ入れるまでは他人にしてもらっても、噛んでのみくだすことは自分でやらなければならないのです。
 ともあれ、食べものも自分で箸をつまんで食べるのがいちばんおいしいように、なにごとにしても、自分で求め、自分でつかんでいってこそ、ほんとうに身につくのです。その、いちばんかんじんな自行ということに目ざめさせるために、仏さまはご自分のおからだをおかくしになるわけです。

ふたたび仏を見る

 最後に、子どもがすっかり治ってしまったら、父が無事な姿を見せて帰ってきたということ、これがまたひじょうに意味深い教えです。
 この<見>という一字は、とくにたいせつです。おなじく<みる>という字でも、<観>という字は、観察などというように、気をつけて見るという意味です。見ようという意志をもって見るのです。ところが、<見>というのは、自然に目にはいるという意味の字です。
 われわれが仏の教えを心から信仰すれば、ひとりでに仏さまが見えてくるのです。なにも、仏さまのお姿が見えてくるのではありません。仏さまとともにあるということが、自覚されてくるのです。
 仏さまと人間との関係というものは、支配者と被支配者というような冷たいものではなく、血のつながった親子のようなものです。温かい愛情によって抱き抱かれあった関係です。であればこそ、いったんは見失ったようでも、その教えを正しく信受すれば、仏さまはその瞬間にわれわれのところへ帰ってこられるのです。そして、真の親として、いつまでもいっしょに暮らし、われわれを守ってくださるのです。
 この譬えには、このような、いうにいわれぬ慈悲の心が満ち溢れていることを、よく感じとらなければならないとおもいます。

『新釈法華三部経』如来寿量品第十六より抜粋

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