『1969 齢子の場合』

繰り返す、朝

 牛小屋に朝の光が差し込む。
 齢子が滑らかに指を動かして牛の乳を少しだけ搾る。きれいに拭きとり、4本の乳に搾乳器を取り付ける。3頭の牛が齢子の順番を待っている。搾りたての牛乳が詰まったタンクをリヤカーに乗せて、部落の集荷場まで運ぶ。
 母屋へ戻ると、黒電話が鳴った。
「一日1反歩、田車押しやんだぞ」
父藤衛から、齢子の仕事が告げられた。
 休む間もなく、齢子は田んぼへ向かう。

初夏、草取り

 日は高く昇り、容赦なく齢子に照り付ける。
 小柄な体を沈ませ、這うようにグイグイと田車を押しながら草を掻く。水田の泥に足をとられて思うように進まない。ほっかむりの手ぬぐいで日焼けした顔の汗をぬぐい、舌打ちする。
「ゴゼやける…」
 農道にピカピカのスポーツカーが止まった。
「よう、れいちゃん。おめえ、会社、辞めたんだな」
「父ちゃん忙しいから」
「晩の寄り合いは?」
「行けねぇ。牛の乳搾りがあるもの」
 若連仲間のキン坊はちょっと残念そうな顔を見せただけで、広がったズボンの裾を気にしながら車に戻っていった。
 田んぼに残された齢子は、果てしなく広がる青々とした稲から目を落とし、泥に埋まった長靴に溜息をついた。
 いつの間にか畦道に、ひょろりと背が高く顔の白い女が立っていた。齢子の汗が一気に冷えた。
「母ちゃんは、家で寝てっせ!」
 キミヨの手から味噌おむずびが乗った皿を奪うように受け取ると、乱暴に草の上に置いた。キミヨは腰を屈めて、ふらふらと畦道を歩いていった。齢子は母から目を背け、力任せに田車を押した。
「まったく、ゴゼやける」

縺れ、離れる

 夕食後に、妹の美恵子が口をとがらせて来た。
「ねぇ、宿題みて」
 弟の衛が顔を歪ませて、声を上げる。
「みっこは、自分で勉強もできねぇのか」
「にいちゃん、ぶんず!」
 美恵子が衛の紫色のくちびるをからかった。
「おめえら、うっちゃし!」
 齢子の疲労が吹き出し、怒鳴った。
「衛くん、ごめんね」
 ふすまの奥で寝ていたはずのキミヨがいた。
「ごめんね。丈夫に生んであげられなかった母ちゃんが悪いんだ」
 キミヨと衛の後ろでは、ブラウン管テレビの中から「さ~んぽ進んで二歩さがる~」と歌が流れている。
 その場を逃げるように、齢子は牛小屋へ向かった。
 夜遅くに藤衛が帰宅して、東京の大学病院で衛の心臓の手術が決まったことを告げた。

 翌日、昼になってもキミヨが起きてこない。齢子が寝床のふすまを開けると、キミヨがあぶら汗をびっしりかいてうずくまり、苦悶の表情で呻いていた。
 ほどなくして、キミヨは亡くなった。

実り、産み出す

 蔭山家の一町三反歩の田んぼは実りの秋を迎え、齢子は20歳になっていた。
「おさげ結って」とお寝坊の美恵子がねだる。
「母ちゃんにやってもらえ」
「ねえちゃん・・・?」
 藤衛に付き添われた白い顔の衛が、土間へ下りて来た。衛は心臓の手術のため入院する。外に出て見送ると、車のガラスの向こうに白い顔のキミヨがいた。
 齢子は息が苦しなり、足を震わせながら母屋の裏手へ回った。牛小屋の木戸を開けると、あぶら汗をびっしりかいたキミヨがうずくまっていた。苦しげな呻き声が牛小屋に響く。
 横たわる母牛から、仔牛の前足がニョロリと出てきていた。齢子の全身から汗が噴き出した。一旦、牛小屋の外へ出たが、誰もいない田んぼに稲が広がっているばかり。牛小屋の中からは低く激しい悲鳴が聞こえてくる。
 齢子の中に、この世のものではない声が響いた。
「おれがなんとかしなくては」
 牛小屋の中へ戻った。しっかりと縄を仔牛の前足に括りつけて、母牛と仔牛に声をかけながら引っ張る。
「がんばっせ、がんばっせ」
 どれくらい時間がたったか、齢子が気が付くと、母牛が仔牛の体をペロペロなめていた。齢子は仔牛を手ぬぐいで拭いてやり、母牛の初乳を搾って、仔牛に飲ませた。
 仔牛にぴったり寄り添う母牛の様子をしばらく見守ってから、母
屋に戻った。 
 炬燵に潜り、ふとキミヨの味噌おむすびの味を思い出した。赤々とした練炭に温められながら、齢子はキミヨの死後、初めて涙を流した。
「母ちゃん、おむすび、うまかったよ」

収穫、受け継ぐ

 秋は深まって、蔭山家の田んぼには、杭掛けされた稲が遥か向こうまで並んでいる。
「よくやったな」
 稲に目をやったまま、藤衛がつぶやく。齢子は小さくうなずいた。
 藤衛が稲刈りの手伝いを親族中に頼んで回るのに、齢子が一緒について行った。藤衛が金策のために家を空けざるを得なかったこと、
大切な田んぼを切り売りして、衛の手術費用を工面していたことを知った。
 お産を終えた母牛はたっぷりとお乳を出してくれる。齢子は、牛の乳に手際よく搾乳器をとりつけると「いい子だ」と牛をなでた。
 母屋へ戻ると、美恵子がニコニコしながら言った。
「着物が出来たから受け取りに来てくれって、電話あったよ」
 キミヨの振袖を、齢子に合わせて仕立て直したものだ。
「成人式は早く帰って来て、牛の乳搾りをやらなくっちゃ」
 そんなことを考える自分が可笑しかった。
 その晩は、齢子から、出先の藤衛へ電話をかけた。
「父ちゃん、振袖が出来たって。それから明日は脱穀すっぺ」
 今夜も、蔭山家の牛小屋に灯りがともった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?