長者窮子のたとえ

仏はいつもそばにいる

 衆生のほうでは、仏の門のまえに立っても、仏が自分の父であるとは知らないのですが、仏のほうでは、あれはわが子だとちゃんと知っておられる・・・・・・じつに意味の深いことです。仏は、事実いつもわれわれのそばにおられるのです。いいかえれば、われわれを生かしている仏の慈悲は、つねにあらゆるところに満ち満ちているのです。
 それなのに、われわれはそれに気がつかない。気がつかないために、いろいろと不自然な心をおこしたり、道にはずれた行ないをして、煩悩のカラをつくり、その中にとじこもってしまうのです。そのために、病気・不和・貧乏というような、人生苦がおこってくるのです。
 とにかく、仏さまは、つねにわれわれのそばにいらっしゃるのです。ですから、自分でつくった煩悩のカラをとりはらいさえすれば、仏の慈悲はいつでもわれわれを温かく包んでくださっていることがわかるのです。
 煩悩のカラをとりはらうということは、自分は仏の子であるという自覚をもつことです。仏さまに生かされているのだ、ということを、心の底にたしかめることです。ありありとした実感として受け取ることです。
 ところが、長いあいだまちがった思想のなかばかりをさすらってきたものにとっては、その実感がなかなかつかめません。自分でつくった煩悩のカラがとても厚くなっているからです。

煩悩のカラを除くには

 しかも、われわれはそのことにはいっこう気がつかず、ただもう「どうしてわたしのからだはこんなに具合がわるいのだろう」とか、「どうしてこんなに不幸ばかりつづくのだろう」などと、くやんでいるのです。そのカラを除きさえすれば、健康も、生活も、ひとりでによくなることは必至です。
 それならば、どうしたらカラをとり除くことができるのか? いうまでもなく仏の教えを学び、実践し、自分が仏の子であることを悟ることです。ほんとうにそれが悟れたら、たちまち煩悩のカラはなくなり仏の慈悲にすっぽりと包まれていることが実感できるのです。

『新釈法華三部経』信解品第四より抜粋

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