在家仏教だから楽々と

愛され親しまれる日本人に

バブル経済がはじけた今日こそ、日本および日本人がほんとうの意味の豊かさを享受できる絶好機だと私は思います。

人間はたしかに「物」によって生きている存在ではありますが、その「物」を生かすのは心であり、精神です。よく引く例ですが、水のない原野を旅する一団があって、休憩のとき水筒の水をコップ半分ずつ飲むことにした。ある人は「たった半分か」と不平を言いながら飲んだ。ある人は「半分でも飲めてありがたい」と言って飲んだ。どちらが幸せな人間でしょうか。どちらが豊かな人間でしょうか。
 
バブル経済時代の日本は、原野ではなく、川の水もたっぷりありました。ところが、多くの企業がやたらにその水を飲み過ぎて体調をこわしたのです。そのうえ、外国からも厳しい批判と注文を浴びせられている始末です。
 
一方、多くの庶民は企業群と違って、いっこうに豊かさを感じることなく、つねに不足感と、焦燥感と、疲労感とでイライラしていました。それもやはり、足ることを知らぬ心が主な原因だったといってもいいでしょう。お釈迦さまは法華経のなかで「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」と説かれていますが、今日の日本においても、まさしくその理が現実にあらわれているのです。
 
では、これからの日本および日本人はどう生きたらいいのでしょうか。まず第一に、貪欲を捨てることです。そして「正直な、当たり前の人間に帰ること」です。さらにもう一つつけ加えたいのは「精神的により高く、より豊かになって、ほんとうに幸せになる」ということです。
 
先日、多摩大学教授で高名な評論家の日下公人さんがテレビでこんな話をされていました。社長クラスの人たちのセミナーでも、以前は会社をどう繁栄させるかという質問が多かったが、最近は「どうすれば愛され、尊敬される会社になれるか」という問題提起が多くなった、というのです。じつにいい傾向だと思います。
 
利潤追求を第一とする会社でさえ信頼と尊敬を求めているのですから、個人となればなおさらでしょう。ましてや世界のリーダーとなるべき日本人全体としては、どうしてもそうならなくてはなりますまい。世界じゅうの人びとに親しまれ、尊敬される存在になることを、これからの大目標とすべきでありましょう。 

ありのままに、正直に

では、精神的により高く、より豊かになるには、具体的にどう生きればよいのでしょうか。その道を示してくださったのがお釈迦さまの教え、とりわけ法華経の精神にほかなりません。

法華経は菩薩になるための教えです。菩薩というのは、在家のままで悟りを求め、人びとの幸せのための教化と親切行を行なう人ですから、法華経はいわば「在家仏教の聖典」なのです。いや、仏教全体がもともと在家仏教なのです。その証拠にお釈迦さまは「方便品」で「若し我衆生に遇えば尽く教うるに仏道を以てす」とお説きになっています。会う人すべてに仏道を教えるというのですから、人間みんなの教えなのです。また「諸の菩薩を教化して 声聞の弟子なし」ともおっしゃっています。つまりお釈迦さまは、人間みんなを救うために法をお説きになったのです。
 
その法にしても、平たくいえば「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる」という理と、「天地のすべてのものはつながっているのだ」という真実を明らかにされた「縁起の法」ですが、その法の実践については「ありのままに生きることだ」と教えられているのです。それが仏法の教えの要だと言ってもいいでしょう。
 
仏教では「正直」ということをよく説きます。現在では「うそやごまかしをしない」という意味になっていますが、もともとの意味は「正しく、真っ直ぐに、素直に生きる」ということなのです。比丘(出家修行者)には二百五十戒という厳しい戒律がありますが、在家には五戒だけですから、その五戒を守り、そして「正直」さえ心がけておれば間違いなく、つねに大安心をもって生きていけるのです。それが「ありのままに生きる」ということにほかなりません。 

菩薩行も楽しくできる

ただ、自分が大安心をもって生きるだけでは、菩薩とはいえません。まわりの人の幸せを願い、そうした行ないを実践してこそ菩薩、すなわち真の在家仏教者といえるのです。といえば、そうした実践には苦労がつきものだと思いがちでしょう。たしかに、人のために尽くすには多少なりとも献身の精神が必要です。その献身、つまり菩薩行を苦にするかしないか--そこが大事な別れ道なのです。
 
私どもの会でもう二十年近く続けている「一食運動」は、月に三日、三度の食事の一食を節約して、そのお金で途上国の開発に支援しているものですが、それを苦しいとこぼす人もなく、なんということなしにそれができるのです。また、街頭でも一般市民に募金を呼びかけ、いつのまにかユニセフに三十数億円もの献金をしています。
 
このように、在家信仰者の菩薩行というのはいたって楽なのです。むしろそれを楽しくやっているのが立正佼成会だといってもいいでしょう。
 
このあいだ、理事長さんが高松教会の新道場の入仏・落慶式に行かれたおりの土産話ですが、志度寺という名刹のご住職さんが、お祝辞のなかで「立正佼成会の会員さんは、お墓のまわりの掃除から花の取り替えまで奉仕してくださっている。それも、当たり前のことのようにしてくださっている」と話しておられたそうです。
 
そこなんです。そうした奉仕には時間と労力の布施行があるわけですが、それを当たり前のこととして楽々とやっている。むしろ楽しんでやっている。そこが尊いのです。尊い証拠に、そういう菩薩行をしていると、いつしか自身の人格が高まっていくのです。
 
『文藝春秋』の一月号に、松本幸四郎と市川染五郎の親子対談が載っていましたが、そのなかで幸四郎さんがこう言っていました。

「役者やってて一番楽しいのは稽古中でなくちゃあ。稽古するのが楽しくて仕方がないというのが本当の生き方だよ。相撲だって本当の相撲の醍醐味を知るには稽古場を見ることだよ」
 
まことに至言だと感服しました。たしかに、相撲でも楽しく稽古している若手がぐんぐん伸びていますね。そのように楽しく稽古するには、当然のことながら相手がいなくてはならない。仲間がいなくてはならない。いい仲間がたくさんいる相撲部屋がやはり盛んになっています。
 
信仰でも同じで、いい仲間がたくさんいるサンガが大事なのです。阿難が「サンガは仏道の半ばほどに値すると思いますが」とお尋ねしたとき、お釈迦さまは「半ばではない。すべてである」と教えておられます。サンガがなくては一人ひとりの信仰も高まらず、世の中全体を幸せにするエネルギーにならないからです。
 
サンガでの互いの磨き合いについては、昔から「麻の中の蓬」という言葉があります。ヨモギはひとりで生えているとボウボウと勝手に広がりますが、麻畑のなかのヨモギはまっすぐな麻の木の影響を受けて、自分もまっすぐに伸びるものなのです。サンガのなかの信仰者もそれと同じです。いい仲間たちの姿を見て、真似て、まっすぐな、高い人格の人間に育っていくのです。
 
このように、在家仏教者は楽々と育っていくのが本筋です。それも最初に述べた「コップ半分の水」のたとえのように、心の持ち方しだいなのです。そのことをよくよく心得て、楽しい気持ちで信仰生活を続けてほしいものと思います。 

『佼成』1992年3月

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?